十章 嵐の中の戦い 5
ディルはもう一度カエマを見た。背の高い魔女は、全てを飲み込むブラック・ホールのように見える。あと残りわずかな勇気も、ディル自身さえも、その黒い穴に吸い込まれてしまいそうだった。だがディルは、カエマを威嚇するような表情を隠そうとはしなかった。勝算はない。しかし、負ける気もしなかった。
「僕はあなたより強い。……あなたと違って、一人じゃないから……僕には仲間がいるから」
カエマの両目は飛び出すほど大きくなり、ディルへの殺意が紫のオーラとなってみなぎるほど、大きく膨れ上がった。目の前に浮かぶ五本の指は、ディルの心臓を握り潰すように、ギュッと力強く空を握った。
その瞬間、ディルの右頬を剣がかすめ、そのまままっすぐにカエマに向かって飛んでいくのが見えた。そして、剣はカエマの腹部にずぶりと食い込み、そのまま動かなくなった。カエマは自らに突き刺さった剣を見つめたまま、もだえもせず、痛みに泣き叫ぶこともしなかった。放心したままのディルに、誰かが声をかけた。
「おい、ディル! 一人で魔女に立ち向かうなんて、なかなかの根性してるぜ!」
レンの声が陽気に語りかけてくるのがディルには分かった。その声は、狭い部屋で叫んでいるかのように反響していた。ディルがあたりを見回すと、もう一度レンの声が聞こえてきた。今度はさっきよりもはっきりしている。
「さて、今回も俺たちの勝ちだな、カエマ! いや、カエマの魔法体とでも言おうか」
「レン……ハーゼンホーク……またお前か」
突如、カエマに刺さった剣から白い煙が噴き出した。そして、その煙の中からレンの姿が現れる様子を、ディルは心を躍らせながら見つめていた。しばらくすると、幽霊のように半透明で、全身を銀色に照り輝かせる、不完全なレンの姿がそこにあった。
「よう、ディル! 待たせちまったな!」
ディルに笑いかけながら、半透明のレンが明るい声で言った。ディルは満面の笑みで首を横に振った。礼を言うつもりだったが、言葉が喉につかえて出てこなかった。
「いつの間に……剣に魔法体を?」
カエマの弱々しいしゃがれ声がそう聞いた。レンは得意満面に鼻をフンと鳴らした。
「こんなこともあろうかと、あらかじめディルの剣に俺の魔法体を忍ばせておいたのさ。こいつはあんたのお得意魔法だろ? うまくは出来なかったみたいだけど。……あえてディルには何も言わなかった。さっきのような絶体絶命の状況に追い込まれた時、ディルならどう対処するのか、見てみたかったんだ。結局、ディルらしいやり方だったけどさ」
カエマは一瞬よろめき、憎悪の念をたぎらせた表情で二人をにらみつけた。やはり、あの一撃が致命傷だったらしい。
「……不覚でしたね。まあいいでしょう……今あなた方を葬ることは出来なくても、それは時間が解決してくれること。時が経てば……私が手を出さずとも、『反・カエマ派』の存在は消えてなくなる。……その日までゆっくり待っているのも、悪くはないでしょう」
カエマがぼろ雑巾のような姿に廃れていくのを、二人はじっと見つめていた。肌は褐色に染まってポロポロと剥がれ落ち、全身はぐにゃりと不自然に折れ曲がって力なくその場に倒れた。そして演説日と同じ、その体は小さな立方体となって崩壊し、その一つ一つが氷のように溶けてなくなってしまった。
カエマの青い鳥が一度、体中の毛が逆立つほどの高声で鳴いたかと思うと、翼を大きく広げ、曇天に向かってはばたき、やがて暗雲の中にその姿を消してしまった。
嵐の中の戦いは、ようやく終わりを遂げたのだ。
ディルが剣を拾い上げあたりを見回すと、レンの魔法体は消え、同時に船尾に巻きついていたアーチ状の大岩も、珊瑚の道もなくなっていた。それから間もなく、船尾の方からこちらへ歩いてくるその一羽を見て、ディルの疲れは一気に癒されたような気がした。
「メルヘッド! 生きてたんだね!」
メルヘッドは元気よく行進していたが、表情は空のように暗くどんよりしていた。
「レン・ハーゼンホーク殿! 船内にいた戦闘員二名を捕虜として捕らえました! 名はビトとシュデール! ……しかし、私の部下はみなやられました……」
メルヘッドは自責の念で満ち足りた、物悲しい表情でディルを見つめ返した。相変わらず名前は間違えられていたが、メルヘッドのことを思うと、今はそれを注意する気にもなれなかった。そこで、ディルはメルヘッドに新たな指令を出した。
「ねえ、メルヘッド。この戦艦を操縦できる? あの船まで戻って、状況を報告したいんだ」
この指令はメルヘッドにとって正解らしかった。真紅の瞳にビー玉のような綺麗な輝きが戻っていた。
「了解しました! 戦艦の操縦で私の右に出る者はいません! さあ、すぐに出発しましょう!」
メルヘッドが、ビトとシュデールを戦艦ごと港まで送り返したのは、ディルがアジトに残って別れを告げた後のことだった。戦いが終わっても嵐は続いていたが、気分が戦闘前よりはるかに良好であることは、ディルにとって何事にも変えがたい、喜ばしいものだった。