十章 嵐の中の戦い 4
戦艦まで辿り着くと、ディルの体力は底を尽く寸前だった。この嵐の中、体の芯までびしょ濡れになり、肌は青ざめて冷たかった。ペングン飛行部隊が残していった登り綱を手に取り、崖のように高く大きな戦艦を登り始めると、ディルの頭の中は真っ白になった。過度の疲労のせいでもあるが、それ以上に、この先にカエマが待っていると考えるだけで、頭がおかしくなりそうだ。
『落ち着け、ディル。落ち着け』
ディルは必死の思いで自分に言い聞かせた。
手すりを乗り越え、平野のようなだだっ広いデッキに到着すると、ディルは休むことなく剣を抜いた。艦首にたたずむ黒い影、その背後で光輝く美麗な尾羽。剣を抜く理由は、それだけで十分だ。再び暴れ始めた胸の苦しみを押し殺し、恐怖に怯える足取りでカエマに近づいて行った。
闇を象徴するかのような容姿。冷静で高貴な態度。そして、見る者を支配する、おごそかで悲哀な表情。その全てが、あの時のまま、何も変わっていなかった。
ディルが足を止めたのは、カエマから十歩ほど手前の位置だった。というのも、カエマの放った青い鳥が、耳にしたことのない高らかな鳴き声を響かせ、ビトの船首像にゆっくりと降り立ったのがきっかけだった。ディルはこの鳥を傍で見て、その大きさに改めて驚かされた。だが、なぜカエマはこの鳥をアジトにけしかけないのだろう?
考えを巡らせながら、ディルは少しずつ落ち着いていくと同時に、胸の痛みが和らぐのを実感していた。カエマを目の前にして、全てが吹っ切れたのだろうか? 恐怖の代わりに込み上げてきた勇気を盾とし、ディルは両手に握る剣を高々とカエマに突きつけた。
カエマは冷たく、あざけるような微笑みでディルを睨んだ。それを見て、ディルは背筋が凍った。
「ディル・ナックフォード。以前、私はあなたにこう言いました。『いつの日か、あなたが私にその刃先を向ける時が必ずやって来る』と。ですが、あなたはその事実を認めようとはしなかった。では一体、これはどういう心境の変化でしょうか? 私に教えてくださらない?」
コバルトグリーンの瞳がディルの剣をじっと見つめた。刃に反射するその瞳と目が合った瞬間、奮い起こしたばかりの勇気の盾が粉々に崩れ落ちるところだった。
「僕は、あなたのことをずっと信じていました。それなのに、平和な世界を築き上げる象徴と言われてきた、平穏の国ヴァルハートを、あなたは世界を支配するための道具として利用している。そして、他国との無意味な戦争を引き起こそうとしているのではありませんか?」
カエマの女神のような微笑みは、蝋人形のような無表情へ、そして悪魔のようなおぞましい表情へ変貌していった。
「あなたは賢い」
嵐に掻き消されそうなほどのか細い声で、カエマは言った。
「世界征服において避けて通れないこと、それは戦争でしょう。そこでは多くの血が流れ、多くの命が絶える。しかし、私にとって死はきっかけとなる。人間が死ぬことにより、その故人に関わる過去や未来、記憶などを、私は全て自分の物にすることができる」
「世界を支配することと、故人の全てを吸収することに、どういう関係があるというのですか?」
ディルの口調は冷静で慎みがあったが、心の中は、カエマに対する怒りでひどく荒れ狂っていた。
「全人類の頂点に立つには、様々な力が数多く要求される。私は世界中の偉大と呼ばれる多くの人物を殺し、我が物とした。そして、その全てをこの体内に取り込んだ。……だが世界征服は、私の本意ではない。世界を支配し、同時に人間たちを支配することは、私にとっての宿命なのです」
淡々とした様子で話し続けるカエマの姿を見て、ディルは頭に血が上り、今や発狂寸前だった。
「世界征服が宿命? そんなのばかげてる」
痛烈に言い放つと、カエマの右目がすぼむのをディルは見た。前にも増して醜悪そうな表情を浮かべている。それでも構わず、ディルは続けた。
「あなたのその勝手な思想のせいで、多くの人が苦しむことになるんだ……。今この瞬間だって例外じゃない。あなたがかつて殺した、たくさんの人々の悲しみが分からないのですか?」
ディルは怒りをみなぎらせ、憎悪の念を込めて剣を構えた。以前、カエマの言ったことは本当になった。あの日まで、カエマに剣を突きつける自分の姿を、少しでも想像したことがあったろうか? このような光景を、思い描いたことがあったろうか? いや、一度だってありはしなかった。
カエマに対し、絶望的な結果が訪れた。話し合いで解決するような問題ではない。カエマ・アグシールという魔女は、まともな思考回路が停止しているのだ。
剣を包み込む両手にトワメルとレンの思いを感じながら、ディルはその刃先をしっかりとカエマ女王に突きつけた。
「ディル・ナックフォード」
ディルの怒りを静めるような冷たい声で、カエマはそっと呼びかけた。
「あなたに、私を斬ることができますか?」
目には見えない勇気の盾に、大きな穴が開いた気がした。それと同時に、強気だったディルの精神はあっという間に縮んでしまった。
「僕は……何年も修行してきた。……あなたを斬ることくらい、どうってことないんだ」
カエマにというより、自分に言い聞かせるような言葉だった。しかし、あの瞳で見つめられると、心の中を見透かされているような……本当は生身の人間を傷つけることなんてできないと、そう見透かされている気がしてならなかった。
「ディル・ナックフォード。弱く、儚い生き物よ」
全身に染み渡るような、カエマのおどろおどろしい声が言った。
「人が人を傷つける時、信じることが出来るのは己の力のみ。家族、親友、恋人……そして仲間。あなたにその全てを捨てる覚悟がないと、私はおろか、人を斬ることなんか一生できやしない。自分だけを信じ、自分だけを敬うのです。その生き方でのみ得ることのできる、一人で生きていく力こそが、全てにおける究極のエネルギーとなる。我が新世界において、他人という存在は自らを強める力の源であり、モノの死はそのきっかけとなる」
ディルには一瞬、カエマが世界を支配した時の栄華な姿が見えた気がした。高台で国民たちを見下し、魔法を使って全てを支配している、その邪悪な姿が。ディルは再び、強大な魔力と恐ろしい思想を持った、『関わってはいけない』人物と戦っているのだと実感した。
「それがどういう意味か、あなたに分かりますか?」
ゆっくり、滑らかな口調でカエマは話しを続けた。
「他人のために悲しみ、他人のために怒り、他人のために喜ぶことの無意味さが。あなたが求めている、絆だの、友情だの、信頼だのと呼ばれる形に表せないものは、とてももろく崩れやすいのです。そして、ある日突然……消えてしまう。そういった災厄に立ち向かう唯一の術が、孤独という力なのです」
「……違う」
カエマの全てを否定するように、ディルは重々しい口調で言った。
「違う? 何がですか?」
ディルを嘲るように、カエマは冷笑しながら聞き返した。
「こういうことです」
何も考えず、ためらいもせず、ディルは手にしていた剣を船尾の方へ放り投げた。ディルの剣は、濡れたデッキの上をぐるぐると勢いよく回転しながら滑っていった。
カエマの鮮緑色の瞳がディルから剣へ、そしてまたディルに戻ると、何もないからっぽのような表情に変わっていた。
「僕は、戦うことの本当の意味を知ってる。人を信用し、信用されることの難しさを知ってる。知らなかったことや気付かなかったことを教えてくれる、大切な仲間がそばにいてくれることを、僕は知ってる。共に支え合って、共に苦難を乗り越えるからこそ、人は強くなれるんだ」
ディルを黙らせるように、カエマの右手がゆっくり上がった。ディルに向けられた五本の細い指がぐにゃぐにゃと揺らめき、ディルの後ろで剣がガタガタと音を立てるのが聞こえた。後ろを振り向くと、ディルを標的としている剣が宙に漂っているのがはっきり見える。鋭い刃が殺意を感じさせるような怪奇な光を放っていた。