十章 嵐の中の戦い 3
「あのペンギン、何が言いたかったの?」
ジェオと同じ、いぶかしげな表情でディルはレンに尋ねた。レンは何も答えなかったが、拳を握り、悔しそうな表情で戦艦を睨み続けていた。レンには何かが見えているのだろうか?
ふと、ディルは、見張り台からユンファと一緒に投げ出された望遠鏡に目が止まった。ディルは迷わずそれを手に取った。レンズに付着した雨粒を拭き取り、注意深く戦艦を覗き見た。 ビトを象った船守の像のそばに、誰か立っている。
細い全身にピタリと密着する漆黒のドレス、嵐の中でより繊細に映える黒髪、それを覆う極端に長く豪華な王冠。そして、コバルトグリーンに輝く、その瞳。
「……カエマ女王」
分かった瞬間、ディルは思わず望遠鏡を投げ捨てていた。あの緑色の瞳を見るだけで、胸の苦しみが再発し、心臓が狂ったように脈打つのだ。ディルがその場に膝を着き、息苦しそうに喘ぐと、ジェオが近寄って背中をさすった。
「おい、レン! 一体何があったっていうんだ? あの戦艦に何かいるのかよ!」
やはり、レンからは何の反応もない。
「カエマ女王だよ……ペンギンたちが恐れていたのは、カエマ女王の魔力だったんだ」
無理に呼吸を落ち着かせながら、ディルが弱々しい声でジェオに言った。ジェオもレンと同様、返答が無かったが、それは驚いたあまり言葉が迷子になっただけのことだ。レンは何を考えているのだろう? あれからじっと動かず、何かに警戒しているようだ。
キングニスモの攻撃は止み、ディルたちはしばらく、嵐による豪雨と強風に耐えていた。新たな動きが始まったのは、カエマのいる位置から眩い光が発せられた時だった。少し離れたこの位置からでも、その光ははっきりと確認でき、またディルには見覚えがあった。演説の時、カエマの背後で太陽のように明るく輝いていた、あの光と一緒だ。
そして、レンが両腕を暗雲に向かって高々と突き上げ、また新たな魔法を唱えるまで、一瞬の出来事のように感じられるほど、ディルとジェオは不意をつかれていた。ディルは、何が起こったのか理解するまでしばらく時間がかかった。胸の痛みも、乱暴なくらい高鳴っていた心臓も正常に戻りつつあったが、レンが魔法で呼び寄せたある“巨大な物”のおかげで、逆戻りしてしまった。
それは、荒波を突き破るようにして海面から現れた、巨大な鎧の兵士だった。頭部を守る鉄仮面には赤いたてがみが目立ち、右手には銀色の剣を、左手には黄金の盾を備え、鋼の鎧は海と同じくらい灰色だ。兵士の下半身は海に浸かっていたが、それでもその大きさときたら、キングニスモの大戦艦を十隻束にしたって適わないほどの大きさだ。巨大な珊瑚礁の壁すらも、兵士に比べれば小さな段差でしかない。
「こりゃたまげたぜ」
ジェオは遥か上空を見上げ、引きつった表情のまま放心していた。ディルは、あの巨大な兵士が強風に煽られてこちら側に倒れてはこないかと心配になったが、それよりもっと心配で不安だったのは、レンの方だった。カエマを倒すことだけを考えて、キングニスモの戦艦ごと海底に沈めてしまったらどうしよう? 今のレンと、あの鎧の兵士ならやりかねない。
「レン! はやまらないで!」
ディルが必死になって呼びかけると、沈黙を続けていたレンが、ようやく何かに目覚めたように、その重たい唇を動かした。
「ディル、俺には分かるんだ。俺の記憶の中に、『実の父親を殺した』という残酷な種を植え付けたのは、カエマだってことが。これがどういうことか分かるかい?」
ディルは何を答えてよいか分からず、ただ黙っていた。そして、おずおずと首を横に振った。
「カエマが、俺の父親を殺したってことだ!」
ディルはますます何も答えられなくなってしまった。さっきまでのレンじゃない、全く違う誰かを見ているような気がした。だが、兜からちらとはみ出す赤い髪の毛も、左目の青く煌く瞳も、間違いなくレンのものだった。
「ディルが前に言ってたよな? カエマ女王が狂った本当の理由があるかもしれない、一緒に
話をしてみれば、違う解決方法が見つかるかもしれないって。ディルにそう言われて、俺はずっと考えていた。その違う解決方法ってやつをさ。……けど、やっぱ駄目みたいだ。カエマを目の前にするたびに、親父の顔や、色々な思い出が頭の中を埋め尽くすんだ」
鎧の兵士がその巨体でキングニスモの戦艦を隠してしまったように、ディルの中ではレンの姿も、限りなく透明に近いものになっていた。これまで、レンの気持ちはちゃんと分かっていたつもりだった。父親を亡くした悲しみや、兵士を辞めたいと思っていた辛い日々のことも。しかし、ディルが思う以上に、レンは悩み苦しんでいた。そして、『反・カエマ派』の誰よりも、不安でいっぱいだったに違いない。
「俺がさっき、みんなに言ったことを覚えてるかい? 『誰かのために戦え』って。俺はみん
なのために、みんなは俺のために戦ってほしいって、そう言った。……俺はみんなのために戦う。だけど、それ以上に、俺は殺された親父のために戦う!」
レンは兵士の方に向き直ると同時に、右手を前に突き出し『進め』と合図した。兵士はその指示を待っていたかのように、荒波を蹴散らしながらゆっくり前進を始めた。
レンにはもう何を言っても無駄だということが、ディルにははっきり分かっていた。そして、カエマが黙ったまま、兵士が暴れるのをただ見届けるはずがない。きっと何かを仕掛けてくる。さっきの光が、そう教えてくれていた。
「レン、上だ! 上!」
ジェオが驚愕して叫ぶ中、曇天がパックリ割れるのを、ディルは見ていた。雲と雲の隙間から青空が覗き、陽光がオレンジ色に輝いて海面に突き刺ささるその様子は、嵐を両断してしまったかのようだ。そして、その姿はまるで、黄金色になびくオーロラのような感極まるものだった。
割れた雲間から現れたのは陽光だけではない。青い鳥だ。鳥と一言に表現しても、いつも船のそばを飛んでいるカモメとは類が違う。巨兵の上半身ほどの大きさがあり、全身は青い羽毛で覆われ、繊細で優雅な尾羽は異常に長く、まるでそこに川が流れているようだった。ツルのように長い首には、パンジー色のたてがみが風に乗って揺れていた。レンに対抗してカエマが呼び寄せたものだろう。
鳥は鎧の兵士目がけて急降下し、ぶつかる直前にその鋭い爪を剥き出して兵士を突き飛ばした。その瞬間、教会の鐘の音が、間近で鳴り響いたかのような金属音が発生し、ディルはそのすさまじい戦闘と音にすくみ上がった。兵士がよろめいた拍子に、かつて見たことないくらいの大きな波が、船を取り囲む珊瑚礁の壁を飲み込み、船にぶち当たった。船は全体をきしませながら左右に揺れ、あわや転覆寸前の状況だった。
兵士は大きく、力もあったが、動きはカエマの鳥ほど俊敏ではなかった。兵士は鳥目がけて剣を振り回すも、全て空振りしていた。鳥が素早いせいもあるが、兵士の動きの鈍さが一番の要因らしい。
いったん兵士の手が止まると、攻守が逆転した。尾をなびかせ、兵士の上空で旋回を始めたカエマの鳥は、嵐をものともせず、平然とした様子で狙いを定めているようだった。
海へ投げ出されないよう、船の縁にしっかりと捕まり、その様子を眺めていたディルは、鳥の尾羽が燦然と輝いていることに気が付いた。カエマと同じ、太陽のような眩しさを爛々と放出し、やがて、その光は鳥の全身を包み込んだ。その姿は美しく、誰もが見惚れるほどたおやかだったが、ディルには不吉な壮麗にしか見えなかった。
今や動く太陽のような姿に化したカエマの鳥は、旋回しながら段々と上空へ舞い上がり、翼を閉じたかと思うと、全員の不意を突いて急降下を開始した。その急降下ときたら、まばたきすら許されないほどの速さで、鳥の通った跡が光の筋となって目に焼き付いたほどだ。
鎧の兵士の腹部に大穴が開き、それが鳥の仕業だと気付くのに、大して時間はかからなかった。鳥は兵士の鎧を力任せに突き破ったのではない。溶かしたのだ。その時の、ジュッという音を耳にし、風穴から立ち上る黒煙を見ればすぐに理解できる。鳥はしばらく海面すれすれを飛行し、再び翼を広げ上空に舞い戻った。
鎧の兵士は、泡と渦を作りながら海底へゆっくり沈み、やがて姿が見えなくなった。最後に、兜の赤いたてがみが渦の中に消え去ると、レンがそれに続くようにして仰向けに倒れ込んだ。ジェオは「アルマを呼んでくる!」と船内へ駆けて行き、ディルはレンの様態を見守った。顔は青白く、漏れてくる吐息は荒く、全身は小さく震えていた。きっと、魔力を使いすぎたのだろう。魔力の使用量には限界があるのだと、何かの本で読んだ記憶がある。
「ごめんね……レン」
レンの顔が雨粒で濡れていく様子を見て、レンは悔しくて泣いているのではないかと、ディルはいたたまれない気持ちになった。父親の仇をとることがカエマを倒す本当の理由なら、ディルはきっと賛成しなかったろう。
だが、自分ならどうだろう? もし、トワメルがカエマに殺されたら、自分ならどうするのだろう? レンと同じようにするだろうか。それとも、別の解決方法を見出すだろうか。
トワメルが前に言っていたことを、ディルは思い返していた。
『人の死は、自分にとっては他人事だ』と。
レンの父親が殺されても、それでレンが仇をとろうと自分の命を懸けても、それはやはり他人事なのだろうか?
「そんなのいやだ……僕は、レンと一緒に戦う」
気付くと、ディルは船の縁によじ登り、珊瑚の道へ降り立っていた。強い横風が雨と共に全身を打ち、ディルを荒れ狂う海の中へ突き落とそうと企てているようだった。
「ディル! 何やってんだ! 戻って来い!」
ジェオの声だ。
「あんた、落ちたら死んじゃうわよ!」
医療箱を振り回しながら、アルマが怒鳴り声を張り上げている。二人は目を丸くし、船の縁から身を乗り出して叫んでいた。ディルは全身で珊瑚礁にしがみ付きながら、首を横に振った。
「今度は僕が行かなきゃ! お父様も、レンも、カエマ女王と戦ってる! 僕が行かなきゃ駄目なんだ!」
ジェオとアルマが喉を枯らして呼び止める声が聞こえても、ディルはもう振り返らなかった。カエマに対する、自分との葛藤に決着が着いた瞬間だった。強風は相変わらずディルを突き落とそうとするし、おぼつかなげな足元に何度も足をすくわれたが、決して自分への強気な思いを絶やすことはなかった。自分なりのやり方があるならば、一か八か、それに賭けてみるしかない。