九章 誰かのために 3
次の日、ディルの目覚めはかつてない程の悪さだった。色々な思いや迷いが、嵐と共に睡眠を妨げたのがその原因だった。時計は早朝の五時を指し示していた。日の出前だとしても、窓から見える外の光景は夜のように暗く、そして、地獄を絵で描き表したような恐ろしいものだった。
大粒の雨が窓を激しく打ち鳴らし、船もろとも飲み込んでしまいそうなくらいの高波が、次々と押し寄せては船体に体当たりしてくる。強風に突風が重なり、低いうなり声を轟かせ、この嵐に拍車を掛けているようだった。ディルは身震いし、完全にすくみ上がっていた。
その時、部屋に明かりが灯り、ディルはショック状態のままゆっくり振り向いた。レンのはみ出しそうなくらいの大きな笑顔と、ユンファとジェオの憂鬱そうな顔がそこにあった。レンがいつもの調子で熱っぽく声を張り上げた。
「魔法の効能で、船の揺れは最小限に抑え込まれてる。さあ、戦闘に備えて準備を始めよう。キングニスモは待っていちゃくれないぜ」
朝食はトースト一枚という軽いものだった。というより、レン以外、みんな食欲がなかった。ディルの場合、好物であるココヤシのジャムさえパンに塗り忘れていたほどだ。ルーシラは目の下にくまを作り、白い肌のせいでそれはより映えて見えた。アルマは、自慢の露草色の頭髪もボサボサで、化粧の乗りも悪かった。そのせいか、時々レンを恨みがましく睨みつけるのだった。ユンファとジェオは、揃いも揃って抜け殻のような無表情だ。
二枚目のトーストにジャムを塗ったくりながら、レンは戦闘の作戦をあれやこれやと述べていた。だが、聴者全員が浮かない表情であることに気付くと、けしからんとばかりに立ち上がった。勢い余って、丸椅子が後ろにひっくり返った。
「冗談だろ、みんな? ここに来て怖気づいたってのかい?」
柔らかな口調には、惜しみもなく熱が込められていた。ディルたちは互いに顔を見合わせ、「そのとおりだよ、レン」と黙って認めるしかなかった。
「みんなの気持ちは痛いほど分かる」
押し黙ったままのディルたちに向かって、レンが静かに言った。
「俺も兵士になったばかりの頃はそうだった。ただ怖かったんだ。剣を持つのも、振り回すのも、そりゃあやりたくなかったさ。本当は、外でぶらぶらして遊んでいたかったし、喫茶店でケーキの大食いだって悪くない。……でも、俺は気付いたんだ。それは嫌なことから逃げ回ってるだけの、弱虫のすることなんじゃないかってさ」
みんなレンのことを直視しようとはしなかったが、ちゃんと耳を傾けていることは確かなようだった。そんな中レンは、ただ一人、ディルだけをじっと見つめて放さなかった。左目の青い瞳が、より一層、その束縛を強めているようだった。ディルは食べかけのトーストを、そっと皿の上に置いた。
「だから、俺は決めたんだ。ただ闇雲に兵士をやってるんじゃなくて、何か目的を持とうって。……そして、俺は親父のために兵士を続けようって、十五歳の時に誓ったよ。自分には一つの利益もなくったって構わない。親父が喜んでくれるなら、親父の笑顔が見れるなら、別にそれでもいいんじゃないかって、そう思ったんだ」
ディルは、レンが今の言葉を本当に送りたかったのは、自分なのではないかと、ふと感じた。トワメルのことも、自分自身のことも信用できないディルに、レンはこっそり教えてくれたのかもしれない。
「でも結局、親父とはうまくいかずに今に至るんだけどな。……つまり、俺が言いたいのは、キングニスモとの戦いを無駄にはしないでほしいってことなんだ。その中で、自分なりに何かを見つけ出してくれればいいんだ。……そして、誰かのために戦ってほしい。俺はみんなのために、みんなは俺のために。だから、頼む。みんな俺を信用してくれ」
ディルを含めた全員が、レンを心の底から信用していなかったのだろう。頭を下げたレンを、みんな申し訳なさそうな表情で見つめていた。レンはみんなのことを信用していた。だから、嫌な表情を一瞬だって見せることはしなかったのだ。
レンのおかげで、ディルは忘れかけていた大切なことを思い出したような気がした。そして、レンを信頼すると同時に、勇気まで湧いて出てきたのだ。それはみんなも一緒のようだ。今こそ、決断する時だった。
嵐が轟々と吹き荒れる中、『反・カエマ派』全員がデッキに姿を現した。その姿は勇姿そのもので、自信に溢れる表情のどこにも、もう迷いはなかった。カエマの野望を阻止するための第一歩、それが、彼女の配下にあるキングニスモを倒すことだ。
南の方角から、黄金の馬車にも勝るほど巨大なキングニスモの戦艦が、雨風気にせず突き進んでくる姿がはっきりと見えていた。