九章 誰かのために 2
日が経つ毎に、みんなの緊張感はピリピリと張り詰め、重苦しい空気が船内を漂い始めた。ディルは不安を紛らわすため、ユンファを手伝う時以外は読書することに専念していた。
『ヘインの見た世界』の物語は、今のヴァルハート国の状況とそっくりだった。魔女が国を支配し、主人公のヘインが仲間と共に魔女の陰謀を阻止するのだ。キングニスモのような海賊も登場し、ヘインたちと敵対するあたりなんかは、ディルたちとそっくり同じだ。登場人物との境遇もまた、ディルたちと似通った点がある。読めば読むほど夢中になる、不思議な本だった。
五月最後の日はあっという間にやって来た。鉛色の空の下に群青色の海面が荒々しく波を立てており、嵐が近いことを警告していた。時折吹き付ける突風が船を波ごと大きく揺らし、その全身を低いうなり声のようにゴロゴロときしませた。波はいつもより高く、凶暴で、デッキの上まで波しぶきがやって来ることもままあった。
「明日は嵐だな。……なあに、この時期にはよくあることさ」
ベッド脇にある自分の小タンスの上に蓄音機を避難させながら、レンが不吉な声色で言った。
「きっと浜辺の方が安全だよ。この船、動かすことはできないの?」
上下左右にぐらつく部屋の中で、ディルが答えの分かりきった質問を投げかけた。
「絶対に無理。契約だからね」
レンはぴしゃりと返答した。
「おいおい。あいつらの狙いの的になれっていうのか?」
ベッドから半身を起こすなり、肝を潰したような表情でジェオが抗議した。レンは望むところだ、と言わんばかりの得意げな笑顔だ。
「俺が何のために、日夜魔法の開発に取り組んでいたと思う? この船とみんなを守るためさ。だから大丈夫だ、安心してくれ。それに、この船は絶対に沈ませないからさ」
きっと、ユンファにも同じことを言って説得させたのだろう。だがディルには、この小さくて頼りないオンボロの帆船が、到底、キングニスモの巨大戦艦にかなうとは思えなかった。レンが「魔法で強力な武器を作ったんだ」と豪語しても、高が知れているのではないか? 相手は大砲を駆使し、遠距離の攻撃を仕掛けてくるに違いない。何でも斬れる魔法の剣や、何でも防げる魔法の盾では、てんで意味がない。
「なあ、レン。もう教えてくれてもいいだろ。一体どんな魔法で戦おうってんだ?」
ジェオがぐいと迫るのを、レンはひらりとうまくかわした。
「明日までのお楽しみさ。きっとみんな驚くぜ」
その後、ジェオは「町に用事がある」とだけ言い残し、強風の中をこそこそと出発した。レンも「最後の仕上げがまだだった」と思い出し、螺旋階段の脇にある地下部屋へ鼻歌交じりに下りて行ってしまった。結局、募りつつある不安は一つも解消されないまま、ディルは一人残された。この日は朝からずっと緊張しっぱなしで、本の続きを読むことさえ出来ないでいた。
「もう夕方だ……」
明日の今ごろはどうなっているのだろう、と物思いに耽りながら、より一層暗くなった曇天を窓から眺め続けるディルの姿がそこにあった。