二章 ディル・ナックフォード 2
東の空が朝日で白み、赤や黄色の陽光が町の家々の隙間を縫って通り抜けた。暖かな春風が港を通り、南ゲートをくぐり抜け、町で一番背の高い建物である教会の鐘楼にぶつかった。
それとほぼ同時に、町中には巨大な黄金の鐘の音が鳴り響いた。酒場で酔いつぶれた兵士、暖炉前の肘掛け椅子でつい眠ってしまった人、夢を見て寝言を言っていた人。
みんなこの鐘の音で朝を迎えるのが日課になっていた。家の外の花壇に水をやりに行ったり、垣根越しに井戸端会議を繰り広げたり、仕事の時間までコーヒー豆の香りを楽しんだり、天の川通りの『野菜市』まで足を運んで朝食の仕入れをしたりする。
次第に通りは人々で賑わうようになる。農具を肩に担ぎ畑に向かう男たち、学校へかけっこしながら向かう子供たち、路上のほんの一角に店を開く者もいる。『路上屋』と呼ばれるその店では、自分で作った漆器や貝殻のネックレスが売られていたり、詩人や占い師、見たこともないような他国の楽器を使って上手に演奏するおじいさんで営まれていた。
そんな路上屋でこの日、動物に芸を仕込んだ見世物屋が天の川通りで商売を始め出した。花柄ですみれ色のボロ汚い絨毯の上にその店を構える主人は、どうやら男女の二人らしい。
女の方は、茶寄りの黒の短髪を後ろで結い、タイトなヒョウ柄シャツの上に赤の派手なジャケットを着こなし、太ももの見える短く切ったパンツを穿いている。眼光は鋭く、口元は常にへの字で、生まれてから一度も笑ったことがないといった表情だ。その冷たい瞳は、すぐ右横でハーモニカを演奏する大柄の背の低い男をじっと睨んでいる。
男の方は、ツルツルのはげ頭の上に黄色いバンダナを締め、肩の見える鹿毛の上着をはおり、つぎはぎだらけの薄汚れたズボンを穿いている。ここ数日ほったらかしのひげは顔の下半分を覆っていて、小豆のような小さな瞳はあごの無精ひげと同じくらい真っ黒だ。黒と白のしま柄の太いベルトからは、こぶし大の茶色の革袋がいくつもヒモでぶら下げてある。
誰が見ても、この二人は商売をするような格好ではないこということがすぐに分かる。普通、商売に見合った格好をするのが客に対する礼儀であり、常識であったのだ。
ところがこの二人は、いかにもそれらしくない。動物を扱うなら褒美のエサを持っていたり、汚れても構わないような軽装をしていたりするのが一般的だった。この二人の場合、どちらかというと危険な香りのする輩であることは誰にでも分かる。身なりや持ち物を見るに、どうやら他国からやって来た二人らしいが、かなり旅慣れしているらしく、人を相手にする商売にも長けているようだった。
疑いの目で客たちが見つめる中、二人の足元には、子供一人が悠々と座ることができそうなほど大きな甲羅を持ったカメと、狭い檻の中を元気に走り回っている小ネズミがいる。ネズミとカメの組み合わせとは、なんて奇抜な発想だろう。
男がハーモニカでひとしきり客寄せをすると、二人の周りには大勢の人たちが集まって来ていた。噂を聞いて駆けつけた者もいれば、その陽気な音楽につられ、興味本位で足を運んだ者も少なくはない。男は頃合を見計らって元気よく一歩前に踏み出すと、両手を晴れ空いっぱいに広げて注目を集めた。
「皆様! ここにおられまするは、何と不思議な大ガメと、何と元気で芸達者な小ネズミにございます。皆様が今からお目にかけるものは、種も仕掛けもありはしません。私、ハーモニカ男シュデールと、カスタネット女ハムが天に誓いましょう。真実のみを明かすということを!」
シュデールの小演説が終わると、ハムは面倒くさそうにどこからか鍵を取り出し、檻の扉を開けた。客たちはもっとよく見えるようにと、身を乗り出したり、背伸びをしたりして色々奮闘した。ハムは、手の中でじたばた嫌がるネズミを両手で押さえ込みながら、「早くしろ」と言いたげにシュデールを睨んだ。
「ハムが魔法の言葉を言って聞かせますと、あら不思議。この小ネズミはかつてないほどの力と、身軽さを手にすることができるのです! 世界中の素晴らしいサーカス団を呼び集めたって、これほど身軽で華麗に芸をする者がいましょうか? これほど天才的な動物がいましょうか?」
シュデールは身振り手振りしながら大げさに動き回ると、リズムを加えて更に大声で言葉を続けた。
「さぁ皆様! くしゃみ・まばたき・咳・あくび、これら御法度承知して、見るも見ないもこれ次第、後戻りはできません! さあ、シュデールとハムの小物芸、これにて始まり始まりー!」
集まった客たちはまばらに拍手し、目を凝らしてハムを見つめた。ハムは客たちの期待に応える様に、小麦色のネズミを口元に近づけ、小声で何か囁いた。きっとこれが『魔法の言葉』に間違いない。あれほど手足をばたつかせて暴れていたネズミは急におとなしくなり、糸のほつれた絨毯の上に置かれても、客たちがしんとなって自分を見つめていても、何も感じないといった様子だ。
次にハムは、すぐ脇で石像のように固まっていたカメの甲羅を足で小突き、何か合図のようなものを出した。するとどうであろう。ピクリともしなかったカメはノソノソと歩き出し、首をぐいと前に突き出したかと思うと、小ネズミの前で静止したではないか。小ネズミは前足を浮かせ、小さな後ろ足だけで立ってみせると、カメの頭を伝い甲羅の上まで駆け上ってみせた。
シュデールはベルトからぶら下げてある皮包みの一つからフルートを取り出し、唇に当て、リズム良く陽気に奏でてみせた。すると、カメは曲に合わせてノソノソと行進を始め、客たちから小さな歓声が上がった。カメは絨毯の端切れまでくると、軽快なステップで踵を返し、口をパクパクさせながら満足そうな表情を浮かべた。
甲羅の上の小ネズミは、まるでカメを自在に操るヘビ使いならぬ、カメ使いになりきっているようで、前足を上下左右に器用に動かしてはその愛嬌を客たちに振りまいている。長く毛の見当たらない尾で甲羅を叩く様子は、まるでムチを手にしているかのようだ。客たちが尚も喜ぶので、小ネズミは気を良くしたのだろうか。低く身をかがめ、その場で宙返りを決めてみせた。
悲鳴に近い歓声が上がったので、近くを通り過ぎる人たちは何事かと驚いた様子だ。シュデールの演奏はテンポが速まり、ハムもカスタネットを取り出して嫌々演奏に加わったので、小ネズミとカメは更に息を合わせて、仕込まれた芸を披露してみせた。




