七章 ボトルシップ 4
「ねえ、レン。ここはどこなの?」
大きな足音で歩き出した男の背中に向かってディルが声をかけた。
「おっと! 町でその名は絶対に禁句だ。俺がこの姿の時はマルコで頼むぜ。それに、ここがどこかはすぐに分かるさ」
二人は薄暗い部屋を隅まで移動し、そこから今にも崩れ落ちそうな木造の古階段を登って上の階へ上がった。次に二人が辿り着いた部屋は、ディルの背丈ほどの樽が並べられた小部屋だった。樽の一つ一つには、「チュジャ地方」「ヤッベル国産」「地元」などの名前が書かれたラベルが貼ってある。それに、さっきの地下もそうだったが、この小部屋もお酒の香りが充満していて、あと五分もここにいればほろ酔い気分になってしまいそうだった。樽の迷路を抜けると、すぐに赤い扉が現れた。レンは何のためらいもなく扉を押し開け、ディルと一緒に建物の外へ出た。
その先は路地だった。しかも、ディルはそこの光景をはっきりと覚えていた。雨水の溜まった桶が数個、投げ出された酒瓶、この陰気な雰囲気。ここは間違いなく、ディルとマルコ・ポルテが最初に出会った場所だった。そして、ユンファとアルマが扮していた仮面窃盗団を見失ってしまった場所でもある。なるほど、これで様々な謎が解明された。
「ここを覚えているだろ? 俺とディルが出会った、最初の場所さ」
「あの時、ユンファとアルマを追っていた僕は、ここでマルコとぶつかったんだよね。その隙に、ユンファとアルマはアジトである船へと逃げ込んだ。マルコが僕を連れ出そうとしたのは、その時すでに、お父様に頼まれていたから。お父様が、キングニスモを出迎えに僕を同行させたのも、任務に参加させたのも、マルコたちが僕をアジトに連れて行かせるための手助けをするためだったんだね」
ディルが言うと、フードの中の厳格な表情がにんまり笑った。レンにそっくりだ。
「本当はとても苦労したんだぜ? キングニスモの出迎えをトワメルさんが命じられた時、そう、それが最初の機会だった。俺たちは変装して、南ゲートに集まった住民たちの中に紛れていたんだ。当初の計画だと、トワメルさんが首領のビトを酒場に誘うはずだったんだけど、まさか相手の方から誘ってくるとはね。けどまあ、計画通りディルは一人になったわけだ。そして、あのまま馬車に乗って屋敷に帰っているはずだった……」
「だけど、ジプイとラーニヤが僕に道案内を頼んだ」
ディルが続けた。
「そのとおり。俺たちは帰りの馬車を襲う手はずだったんだ。トワメルさんは酒場に行っていて、対処のしようがなかった、と言い訳できる。つまり、あの人は汚れ役を買って出たんだ。が、まさかあそこで邪魔が入るとは思わなかった……けど、ディルがシュデールたちと運良く出会ったことで新たな案が浮かんだのさ。ユンファとアルマが、あいつらの所持してるカメとネズミを奪う計画が同時進行していたから、ついでにディルもアジトへ連れて行こうってね。俺はトワメルさんの性格を良く知ってるから、彼と血のつながってるディルは、挑発すればきっと二人の後を追いかけるだろうって、そう思ったのさ」
「……うん、そのとおりだったよ」
はにかみながら、ディルは素直に認めた。するとレンはローブをひるがえし、人々が行き交う通りを静かに見据えた。
「けど、それも失敗だった。ディルを連れ出す寸前のところで、女性が路地に現れたからだ。俺たち『反・カエマ派』にとって、アジトの入口を悟られるのはあまり好ましいことじゃない。それに、ディルがここでいなくなったことがばれてしまうと、アジトが見つかるのも時間の問題だ。こればかりはトワメルさんも対処のしようがないからな」
不意に、レンが視線の方向へ歩き始めたので、ディルは早足になってレンの横にピタリと付いて歩いた。
「そして、次の機会はカエマ女王の即位式の日、演説をするために広場へ姿を現したその時だった。ディルを警護兵として町に送り込んだトワメルさんは、俺たちの『カエマ暗殺計画』にも乗ってくれた。あの時、トワメルさんがカエマの護衛についていなかったのは、俺とカエマが一対一になった時に俺と敵対しないためだったのさ。そうでもしないと、俺が壇上に登った時点で、トワメルさんと本気で斬り合いをしなくちゃいけない状況になっちまうだろ? カエマに裏切りを悟られるような行為は厳禁だからな」
なるほど、とディルは首を縦に振ったが、その後、何も知らずに自分が壇上へ這い登って行ったことを思い出すと、すっかり滅入ってしまった。
「ごめんね。僕がカエマ女王を助けに行っていなければ、計画はちゃんと進んでいたんだよね」
あの時、レンが通りへ戻れとディルを追い払った理由が、今ならよく理解できる。
「だけどな、ディル。俺たちにも落ち度はあったんだ。『ディル誘拐作戦』を考える時、俺はいつもトワメルさんのことを考えていた。トワメルさんならここでどう行動するんだ? どう考えるんだ? ってね。ディルには分からないかもしれないけど、二人って本当にそっくりだからさ。……でも、まさかカエマを助けようと上まで這って来るとは思わなかったぜ。本当はあの時、煙幕の中で、昨夜にあらかじめ調合しておいた眠り薬を使ってディルを眠らせて、ジェオがアジトまで連れて来る計画だったんだ。だけど結局それも失敗だった……その後の状況はディルも知ってのとおり、悲惨を絵に描いたようなものだった」
二人は路地を出て、明るく賑わう表通りに出た。ディルの前を大型の荷馬車が通り過ぎると、二人はその後を追うようにして、天の川通りの方へ再び歩き始めた。
「お父様はどうしてそこまでして、僕をレン……マルコたちと一緒にいさせたかったんだろう?」
石畳をしっかり踏みしめながら、ディルは独り言のようにそう呟いた。
「何かしらの危険を感じていたのかもしれない。国王の反逆者なわけだから、自分のそばにおいて、ディルを巻き添えにすることを極力避けようとしていたんだと思う。カエマがトワメルさんの裏切りに気付いていたかどうかは分からないけど、彼女はなぜかディルを殺そうとした」
レンはひそひそ声でそう言った。ディルも、辺りで聞き耳を立てている人がいないかを確認しながら、ふと思い出したカエマの言葉をレンに言って聞かせた。
「カエマ女王は僕に、その刃を向ける時が必ずやって来る、だから、早いうちに僕を消しておくんだって、確かにそう言ってた」
あの時のことを思い出すとまた胸の内側が痛み始めるので、ディルはそれ以上考えないように専念した。
「きっとカエマは、ディルがこうして『反・カエマ派』になることを予想していたのさ。ただそれだけのことだ」
やがて二人は、昼前の慌しさで混雑する天の川通りにやって来た。ディルがこの通りに顔を出すのは、あの演説日以来、初めてのことだった。通りには黄金の馬車も、祝いのために催した物も、すべて跡形も無く消えてしまっていた。ただ、ヴァルハート国民の明るさだけは、今も尚そこに在り続けていた。人々の笑い声は絶えないし、広場では子供たちが元気よく走り回っている。喫茶店の店員数名が、客寄せのために始めた『トランペット隊』の演奏はひどいものだったが、効果はてき面のようだった。
「カエマの演説日から、国民たちは前にも増して明るい日常生活を送るようになった気がする。そうでもしないと、カエマへの恐怖心を忘れることが出来ないからだと俺は思う」
「……ねえ、マルコ。これからこの国はどうなってしまうの? カエマ女王は、何を始めるつもりなの?」
レンは玩具店の前で立ち止まり、ディルはその後ろで、塔のように小高いその男を見上げた。四、五人ほどの夫人らが大声で会話しながら二人の脇を通り過ぎた時、レンは重々しい沈んだ声で言った。
「すぐには分からない……だけど俺が確信していることなら一つだけある。カエマは他の者を利用し、自分の手は汚そうとしないってことさ」
レンは一呼吸して、囁くような静かな声で続けた。
「そして今この瞬間、カエマに支配され、裏でコソコソと活動する手下の一人が、俺たちの目の前にいるとしたら? そして、俺たちの探している人物が、その手下たちだとしたら?」
ディルは、こちらに大股で歩み寄るその人物を見つけて、思わず息を呑んだ。ずんぐりした体格、黄色いバンダナ、毛皮の上衣、ベルトからぶら下がる大小様々な革袋……。
レンはその人物から片時も目を離さず、呆然としているディルに声をかけた。
「カエマがなぜ映画撮影隊キングニスモをこの国へ呼んだのか……これがその答えってやつさ。……いよいよ、決着をつける時が来たんだ」
ディルがはっきりとした意識を取り戻した時、突き刺さるような鋭利な視線で二人を見つめる、一人の男の姿が目の前にあった。
シュデールがそこに立っていた。