七章 ボトルシップ 3
食事が終わり、まず町へ向かったのはジェオだった。ジェオは赤と黒の刺繍入りのシャツに着替え、それは、アルマが装った真紅の上衣とショールに負けないくらい派手なものだった。ユンファは昨日と同じ、サイズの小さな青と紫の薄地の服にダブダブのズボンだったが、頭の上は黒の山高帽になっていた。その格好を見て、レンとディルは大笑いしたし、アルマは一緒に歩きたくないとうんざりしたので、ユンファは仕方がない様子で上からマントをはおった。
ディルがベルトに鞘を取りつけ、黒マントを着込んでデッキに戻っても、レンはガウン姿のまま悠然としていた。
「まさか、その格好で町に行くつもりじゃないよね?」
これならユンファと歩いた方が気楽だ、と思いながらディルは言った。レンは意地悪く笑うと、目を閉じ、指をパチンと鳴らした。すると、その指先から光輝くひも状の物体が、二本、三本とうねうねしながら姿を現し、頭からつま先まで、レンを覆い隠してしまった。レンの姿が完全に見えなくなると、その姿はまるで、爛々と光を放つ繭そのものだった。
「レン……?」
ディルは、突如目の前に現れた巨大な発光体に目をくらませながら、不安そうにレンの名を呼んだ。返事の代わりに、その中身が姿を現してくれた。しかし、ディルの目の前に現れたのはレンではなかった。ディルの二倍は高い背丈、しわの目立つ初老な表情、フードの中で鋭く光るあの眼差し……。以前、酒場の裏の路地で出会った、あの黒いローブの男だ。
「あ……ああ! ……マルコ・ポルテ!」
ディルの声は引きつっていたが、自分でもわかるほど意外に冷静で、それほど恐怖を感じていなかった。それは、そのローブの男がフードの中から鋭い眼差しでディルを睨みつけても、さほど変わりはしなかった。一体、レンはどこへ隠れたのだろうか?
「よく覚えていたな。そう、俺の名はマルコ・ポルテ。町の遊び屋だ。だがそれは城下町だけの通り名。この船ではレンと呼ばれている」
ディルの頭の中で、今までの記憶がこんがらがった。
「それじゃあ、あの時のあなたはレンで、レンは今あなたで、でもレンはここにいなくて、それで……」
レンは右手をディルの鼻先に突き出し、魔法を使ったのではないかと疑うくらい、一瞬にしてディルを黙らせた。
「詳しいことは町で話すよ。それよりも、ディルに見せたい物があるんだ」
容姿も、フードの中のいかめしい表情も、そのしゃがれ声すらも、みんな黒いローブの男のものだが、その子供のようなやんちゃな喋り方や、一つ一つの細かい仕草は間違いなくレンだ。他にレンと断定できるものはないかと詮索していたディルは、いつの間にか廊下を渡り、ディルがまだ一度も行ったことがない、中でも際立って真っ暗な廊下の突き当たりまでやって来ていたことに全く気付かなかった。
「この扉の向こうこそが、ヴァルハート城下町とこの船をつなぐ魔法の部屋」
闇の中にすっかり溶け込んでいた黒いローブの男を見つけるのは至難の業だったが、レンと同じ身振り手振りを加えて話してくれていたおかげで、手を伸ばせばすぐそこの位置に立っていることがうっすら分かった。数メートル先にぼんやりと浮かぶ金色の球体がドアノブだと分からなければ、そこに扉があることにおそらく誰も気付かないだろう。
男はディルの肩をぐいぐいと押し、扉の前に立たせると「開けてみろ」と指示した。ディルは緊張と興奮を抑えつつ、用心深くノブを回し、ゆっくりと扉を開け放った。
「あれ?」
ディルは扉の向こうの光景に、思わず首をかしげた。本当に扉は開いたのだろうか、と疑うくらい、その先の部屋も真っ暗だった。男は滑り込ませるように体を部屋に入れ、そしてまた指をパチンと鳴らした。すると、どこからともなく小さな太陽のようなものが現れて、眩い光を放ちながら天井すれすれを旋回し始めた。急に明るくなったせいでディルの目はくらみ、それはしばらく目を開けていられないほどだった。しかし、目を細くすがめて辺りを見回せるようになると、段々とその部屋の正体が明らかになってきた。そこは、椅子や本、木箱が高く積み上げられた埃っぽい倉庫だった。部屋の中は色々と物が詰め込まれているせいで、ディルと男と、あと一人分ほどの空間しかなく、とても狭苦しい場所だ。
ディルがしばらく部屋の中を見回していると、明らかにこの倉庫にはそぐわない物が置いてあることに気付いた。部屋に入ってまっすぐ正面、本来、花瓶などを置く小机の上に存在していたのは『ボトルシップ』だった。横向きに飾られた三十センチほどのガラス瓶の中には、本物のように綺麗で精密に作られた帆船の模型が一隻、海水と同じ青緑色に輝く液体の上に漂っている。耳を澄ますと、波の音や、カモメの鳴き声が聞こえてきそうだ。しかし、ディルが耳にしたのは男の雷のようなゴロゴロという低いしゃがれ声だった。
「さすがディル、目ざといな。見せたかった物ってこれのことなんだ」
「このボトルシップで、どうやって町まで行くの?」
スルスルと不気味なくらい静かに近寄ってきた男に思わず警戒心を抱きながら、ディルは質問した。男は淡々と説明を始めた。
「こいつはただのボトルシップじゃない。ある場所と場所とをつなぎ合わせる、入口と出口みたいなものだ。使い方は簡単。ただ見つめて、念じるだけでいい。集中力が大事だぞ。模型の船と一体化し、互いの心を一つに……」
「ちょ、ちょっと待って! あんまり難しいことは言わないでよ。よけい分かんなくなっちゃう」
ディルは男を沈黙させ、頭の中で整理しながら、もう一度ボトルシップの前に立った。全身の力が抜けるほどゆったりと心を落ち着かせ、マストの根元を穴の開くほど見つめ、そして念じた……そういえば、一体何を念じるのだろうか? 説明の途中で黙らせてしまったのに、もう一度質問するのは少し気が引く。だが、このまま延々とボトルシップを見つめていても、「ほらみろ、説明を最後まで聞かないから」と笑われるかもしれない。
ディルは悩み込んでいたせいで、あたりが再び薄暗い闇に覆われたと気付くのにやたらと時間がかかってしまった。ディルは違和感を察し、狂ったように辺りを見回した。そこは見覚えのない部屋だった。つい先ほどまであったガラクタ詰め当然の倉庫が無くなり、頭上を漂っていた魔法の太陽もなくなっている。壁際にはなかったはずの小窓が三つあって、それぞれから本物の太陽の陽射しが部屋の中にほんの少しだけ射し込んでいた。
どうやら移動に成功したようだが、「念じる」だの「心を一つに」だのとからかわれ、それを真に受けた自分が恥ずかしかった。
それから間もなくして、全身が青白い光に包まれた何者かがボトルシップの前に現れた。それはしばらくぼんやりと輝いていたが、やがて全身真っ黒のローブの男がその姿をあらわにした。