六章 レンと呼ばれる男 4
夕食が終わるまで、誰も口を利こうとはしなかった。ディルは空になった皿を重ねながら、心の中で自分にひどい悪態をついていた。せっかくみんなが、自分のために盛大な夕食を用意してくれたのに……。今になって思い返すと、あんなむきになってレンに喰い付いていた自分が恥ずかしく感じられる。目覚めた初日からこのザマだ。この調子だと、明日にはみんなから毛嫌いされ、明後日にはデッキから海へ放り出されるかもしれない。恩を仇で返すつもりはなかったのに……。
詫びしい気持ちで一杯になりながら、ディルは一人、部屋に戻って眠ろうとはしなかった。デッキで風に当たりながら、みんなが寝静まるのを待つつもりだったのだ。それに、四日間も眠っていたのだから、ベッドにもぐって熟睡したいとも思わなかった。
何やらゴソゴソと物音がするので、音のする方へ静かに歩み寄ってみると、カメと小ネズミが夕食の余り物を二匹仲良くつまんでいた。二匹の頭上には小さな満月がぐるぐると旋回していて、その場を青白く照らし出していた。きっとレンが用意したものだ。
「やあ、やっぱり君もいたんだね」
とうもろこしにかじりついている小ネズミに向かって、ディルは優しく呼びかけた。小ネズミは食べるのをやめ、ディルの方を向いて歯を突き出したが、またすぐに夢中になって食べ始めた。
「ねえ、どうしてここにいるの? あの仮面の二人に連れて来られたの?」
返事が返ってこないのは百も承知だが、今のディルには構わなかった。不安な気持ちや寂しい孤独感を少しでも紛らわしたかったからだ。二匹はディルの気も知らず、狂ったように食べまくっていた。
「僕と一緒なんだね。僕もね、何も分からないままここへやって来てしまったんだ。これからどうしたらいいのか、教えてくれないか?」
二匹からの返事は、食べ物を口にかき込む音と、飲み込む音くらいだった。さすがに飽きてきたので、ディルは船の縁にもたれて海面を眺めることにした。昼間と変わらず、小さな波は船底を叩いて船を揺らしていたが、カモメの鳴き声は無かったので、とても静寂だった。
ずっと向こうに見える島がヴァルハート国だ。新国王のカエマが国を治めており、その人を護衛するトワメルがいる。それに、母親のパルティアはディルの帰りを待っているに違いない。
トワメルはどうだろうか? トワメルは今この瞬間も、屋敷に帰らないディルを心配して、探し回ってくれているだろうか? ディルには、そうは思わなかった。
「眠れないのか、ディル?」
ディルはどこからか聞こえてきた声に驚かされて、弾かれたように立ち上がっていた。
「レン? どこ?」
返事はなかった。だが、確かに今レンの声が聞こえた。レンへの罪悪感が、妙な錯覚を引き起こしたのだろうか? しかし次の瞬間、レンがディルの目の前に現れたかと思うと、不意にディルを肩車し、そのまま手を使わず、マストを足だけで軽快に登っていった。ディルは体験したことのない目の前の情景に仰天し、思いつきもしない叫び声を上げてレンの頭にしっかり抱きついていた。それは、目が覚めるような、あっという間の出来事だった。
「ディル・ナックフォード様、ご到着致しました」
レンはマストのてっぺんまで登り、ようやくピタリと止まった。ディルが途方に暮れていると、レンが声を低くして紳士的に挨拶した。
「この場所こそ、我が幽霊船、最良の絶景ポイントでございます」
レンはそう言って、「空を見上げて下さい」と丁重に言い添えた。言われるがまま空を見上げると、そこには今まで見てきた中で最も美しい夜空が存在していた。大海原のようにどこまでも広がる夜空には、針で穴を開けたような小さな光の粒々がそれぞれしっかり輝いている。ヴァルハートの連山の頂から水平線の彼方まで続くヴェールのような星々の集合体は、まさに天の川だ。屋敷の部屋の窓から覗き見る天の川とは、また別格だ。ずっと見つめていると、あの輝きの中に落っこちてしまいそうな、そんな不思議な感覚がディルの全身を駆け抜けた。
「素晴らしい眺めだろ、ディル」
「うん! 最高だよ!」
ディルは、ダイヤを散りばめたような美しい夜空に見惚れたまま狂喜した。レンはそこから見える星座を、指でなぞって色々教えてくれた。二人は、南十字座が水平線の向こうから姿を現したことで共に喜んでいたが、やがてしばしの沈黙が続いた。
「信じたくなかったんだ」
ディルは、南十字座が天の川の中でより綺麗に輝く様を見つめながら、囁くような小声で言った。レンは黙ったまま、ディルの次の言葉を待っているようだった。
「カエマ女王が世界支配を始めるなんて、そんなこと信じられなかった。お父様はそんな女王の味方をするし、僕にはこの先、もうどうしたらいいか分からないよ。ねえレン、教えて。どうして僕はここに来たの?」
レンは海を眺めていたかと思うと、突如、マストの真ん中あたりにある見張り台まで飛び降りた。これにはディルも、目玉が飛び出そうになるくらい驚いた。驚きすぎて、叫び声すら出てこなかった。
「ディル」
呆然としたままのディルを肩から下ろし、やはり海を眺めたままレンが言った。こんな物思いに耽るレンを見たのは一度としてない。
「君がここに来た本当の理由は、頼まれたからなんだ」
「誰に?」
ディルはぶっきら棒に質問した。レンは一度ディルを見て、すぐにまた視線を海に戻した。レンの態度は、どこかうしろめたそうだ。
「トワメル・ナックフォード……ディルの親父さんに」
ディルの心臓は見張り台に落ちてきた時の衝撃でまだバクバクと跳ねていたが、レンの一言を聞いてからは、もっと早く、もっと大きく鼓動した。
「お父様が僕をここへ? ……じゃあ、お父様は初めから、ヴァルハートがこうなることを全部知っていたっていうの? カエマ女王が企てていたことも?」
ディルはレンの腕をぐいぐいと引っ張りながら、未だに信じられないとばかりにまくしたてた。レンはディルの腕を握り返しながら、首を小さく横に振った。
「そこまでは分からない。だけど確かなのは、トワメルさんは今、たった一人で戦っているということ。あの人だってバカじゃない。カエマのやっていることが凶悪極まりないことくらい承知のはずだ」
レンはディルを見つめていた。偽りのない、真実だけを伝えようとするその瞳で。
「演説の後、トワメルさんがディルを助けてやれなかった理由を分かってほしい。カエマに味方しなくてはならなかった、あの時のトワメルさんの悔しさを分かってほしい。トワメルさんがどう望んでいるかは分からない……だけど、ディルもトワメルさんのように、俺たちと一緒にカエマと戦ってほしい」
あの雨の日、トワメルがディルに見せた、悲しみに溢れる表情の意味が、今のディルには痛いほどよく分かった。全てディルの誤解だった。トワメルはあの時、耐えていたのだ。本当は、ディルを苦しめるカエマが憎かったのに。それでもじっと耐えていたのだ。
「ごめんなさい……お父様……ごめんなさい」
ディルは大粒の涙を流し、しゃくり上げながら、何度も繰り返し繰り返し、トワメルに謝っていた。今までの不安だったことや、怖かったことが、目の奥から溢れ出てくる涙に混じって外へ出て行くのを、ディルは感じた。
ベッドに横になる頃には、ディルはもうすっかり自分に決心が付いていた。もうそばにトワメルはいない。稽古がうまくいかない時、いつも励ましくれていた母親のパルティアさえも。だがその代わり、これからは『仲間』がいる。どんな時も一緒で、たまに喧嘩して、でもすごく仲良しで、とっても信頼できる『仲間』だ。
「きっとやれるさ、ディル」
ディルは自分にしっかりとそう言い聞かせ、『反・カエマ派』の一員になることを誓った。
ディルがうとうとと眠りかけていたその時、コソコソと部屋に入ってきたのは、デッキで食事をしていたカメと小ネズミだった。二匹は、ユンファの熟睡しているベッドの脇で落ち着くと、そのままぴくりとも動かなくなった。ディルは、シュデールたちからカメと小ネズミを誘拐した、あの二人組みの正体が分かったような気がした。
だが、そんなことはどうでもよくなるくらい、今は眠かったのだ。
その晩、ディルが悪夢を見ることはなかった。




