六章 レンと呼ばれる男 2
広々と開放感のあるデッキの上で、太陽の放つ光と、あたたかい潮風がディルを出迎えてくれた。あまりの眩しさに、ディルは目を細めながら辺りを見回した。すると、目の前に音もなく現れた真っ白な少女に驚いて飛び上がってしまい、階下に向かって転げ落ちるところだった。
「おばけ!」
腰を抜かしたディルの、思わず飛び出した言葉だった。その少女は、本当に全身真っ白で、まるで幽霊のようなのだ。髪の毛、肌、絹地のドレス、靴……全て汚れの一つも見当たらない純白だ。ただ、ディルを見つめ返すその瞳だけは青く輝いていたが、今のディルにはそんなことを気にしている余裕はなかった。ディルは、いっそこのまま本当に転げ落ちて、暗い廊下へ逃げてしまおうかと思った。まさか幽霊が出てくるなんて、夢にも思わなかったのだ。だが、どうやらその必要はなさそうだった。
「おばけなんかじゃないわよ、失礼な子ね!」
少女の声は、洗濯を終えた後のように綺麗で澄んでいた。ディルは、叩くように鳴り響く心臓の音が情けなく感じた。なんて失礼なことを言ってしまったんだろう。
「ごめんなさい。僕、てっきり……」
ディルは立ち上がり、冷たく見下ろす少女に弁解しようと急き込んだが、遥か上の方から降り注ぐ笑い声のせいで、それ以上言葉は出てこなかった。マストから二重縄を伝ってスルスルと下りてきたのは……間違いない、彼だ!
「レン!」
ディルは、軽快な足取りで近づく笑顔のレンを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
『やっぱり、この船にレンがいた! そして、あの時助けてくれたのも、きっとレンなんだ!』
レンはカエマの命を狙っている。だが、そんなことはどうでもいい。レンなら、きっと僕を守ってくれる……ディルにはそんな気がした。
「だいぶ元気そうだな、ディル」
レンはディルの髪を撫で回し、にんまり笑った。ディルも満面の笑みを返した。
「ありがとう、レン。あの時レンが助けてくれなかったら、僕、今頃どうなっていたか……」
レンの表情から笑顔が失せ、真剣な眼差しでディルを見つめ返す、深刻そうな表情に変わった。
「あの時は……正直に言うと、もうダメかと思った。だけど運が良かったよ。あの日も言ったけど、ディルを襲ったあのカエマも、魔法体だったんだ。だから魔力は弱まっていた。それでも、ディルにかけられた呪いが完全に治癒するのに、こうして四日もかかっちまった」
「四日も? ……そういえば、同じ夢を何度も見た気がする」
夢の内容を思い出すと気分が悪くなるので、ディルはあまり考えないようにした。
「あなた、ここに来てからずっとうなされてたのよ。見るに堪えなかったわ」
少女はそのことを思い出し、すっかり気落ちした様子でディルに言った。押し黙ってしまった二人を見兼ねて、レンが顔に笑みを戻すと、「よし!」と威勢よく両手を叩いた。
「そういえば、ディルにみんなを紹介しないとな。積もる話しもあるだろうけど、そいつは後回しだ。それじゃ、まずは改めて俺からな」
レンは咳払いして、黒と白のパンダ柄のローブからパッパッと埃を払い、ディルに敬礼した。
「レン・ハーゼンホーク。十八歳。ヴァルハート国の元兵士。今はこの『海底船』の船長だ。趣味は音楽鑑賞。レーインクァで活躍中のシルヴァの歌声は最高だぜ!」
少女が一歩前に踏み出した。
「私はルーシラ。十七歳よ。趣味は波の音を聞きながらの読書と編み物。好きなことはお芝居を見ること」
「僕も本は大好きだよ。船や、魔法が登場する本は特にね」
ディルが言うと、レンは胸を張り、快晴の空に向かって高々と両腕を広げた。
「じゃあ、この船も気に入ってもらえるといいな。ちょいとボロだけど、素晴らしい我が家さ」
「もちろんだよ!」
ディルの心は雲一つ無い青空より晴々しかった。どうしてこの船にいるのかは分からずじまいだが、ディルの夢の実現にこうして一歩近づいたわけだ。もう嬉しくてたまらない。
「来いよ、ディル。ここで立ち話しってのも悪くないけど、他に紹介したい奴らがいるんだ」
レンはさっさとデッキの向こうへ行ってしまい、ルーシラは、ここに残って本を読むから騒がないでねと、ディルに釘を刺した。ディルは階段裏に置いてある肘掛け椅子に腰を掛けるルーシラを見て、ここが船首であることにようやく気付いた。ルーシラのすぐ脇には、人魚をかたどった船守の像があったのだ。ここで本を読むなんてとても贅沢だなと羨ましく思いながら、ディルはレンの後を急いで追った。その途中にディルが見たのは、大木のように太いマストが三本、束になって投げ出された頑丈そうな縄、干からびた海草やヒトデ、それにボロボロの黒ずんだ大きな布だ。
やがて、ディルが辿り着いたのは船尾だった。そこはディルの背丈分ほど高くなっていて、登るには階段を使えばあっという間だった。
「ディル、こっちだ」
レンが声を張り上げてディルを手招きしていた。ディルは小走りで近づきながら、レンの足元に座っている男に気付いた。紺のタンクトップに白い短パン姿の男は、右手で釣竿を持ち、左手で口ひげをいじりながら、少し不機嫌な様子で、両足のかかとを使って床を何度も叩いていた。男が尻に敷いているのは何だろうか? 大きな岩のようにも見える。
ディルが二人のそばまで行くと、男は釣竿を置き、仏頂面のまま立ち上がり、ディルを見下ろした。ディルは少しビクビクしながらレンを窺った……青空を眺めている。
「ディルか、そうか」
男は興味津々でディルを覗き込んだ。男はレンよりも遥かに背が高く、図体もがっしりしていて、その二の腕の太さといったら、ディルの首ほどはある。歳は二十代の後半くらいだろう。
「あの……ディル・ナックフォードです。初めまして」
ディルがもう一度男の顔を見ると、歯を剥き出して笑っていた。ディルはほっとした拍子に、また腰が抜けそうになった。
「元気になったな、ディル。俺の名前はジェオだ。ジェオって呼んでくれてかまわない。よろしくな!」
ジェオはディルの手を掴み取り、上下に振り回して握手した。ディルは笑顔で応じたが、ジェオがあまりに強く握るので、やがて苦痛の表情を出すまいと我慢するのに苦労した。
「俺はいつもここで釣りをやってんだ。今日はまだ一匹しか釣れてないけどな。こういった不調な日は、こいつの上に座って気長に待ったり、大声を出したりして邪気を飛ばすのさ……こうやって……」
ディルは間違いなく、鼓膜が音を立てて破れたと、そう確信した。ジェオの爆発のような叫び声は船尾にとどまらず、デッキ全体を駆け抜け、読書中のルーシラがいる船首を突き抜け、大海原の向こうへと響き渡った。
その後すぐ、ルーシラの怒声と罵声がやまびこのように返って来たし、レンの非難めいたかすれ声がジェオの足下から聞こえてきた。レンはデッキにうつ伏し、まるで弾丸でも避けるかのように身を伏せていたのだ。
「この野郎……人がそばにいる時はあれほどやるなって言っただろう」
レンはよろよろと立ち上がりながら、苦し紛れに文句を付け足した。ディルの耳はしばらく使い物にならなかったが、意識ははっきりとしていた。大丈夫、鼓膜は無事だ。
ジェオはさっきまで尻に敷いていた黒い大きな塊に座り直し、何事もなかったかのように再び釣竿を握った。ディルはその『黒い大きな塊』を見て、ピンときた。この大きさ、この六角形模様。こいつはもう間違いない。仮面窃盗団がシュデールたちから盗んだあのカメだ。
「ねえ、ジェオ。僕、このカメを知ってるような気がするよ」
ディルはごつごつした甲羅をさすりながら言った。カメはあの時のように、甲羅の中に閉じこもってじっとしていた。
「きっと、ディルとお知り合いのカメのはずだぜ」
カメが気になって仕方がない様子のディルを見兼ねて、レンが朗らかに言った。だが、まだジェオの行為が許せないとでも言わんばかりの表情だ。
「これまでのこと、これからのことは今日の晩にでも話すよ。ずっと気になってたんだろ?」
ディルは小刻みに何度もうなずいた。左目の青い瞳で、レンに何でも見透かされているような気がした。
「一体ここはどこなの?」
ジェオが釣りに興じている傍らで、眩しい陽光に背を向けながら、ディルとレンは床に座り込んで小さめの声で会話を始めた。ジェオは、釣りに集中したいから話すなら小声で、しかも、釣れる瞬間を見せつけたいからその場を動くなという、むちゃな要求を持ちかけたのだ。
「あれ? ここがどこだか、まだ気付かないかい?」
レンはもったいぶって、ニヤニヤしながら言った。ディルは首を横に振って応じた。
「城下町を騒がせた“東の沖に幽霊船が出た!”っていう噂はディルも知ってるだろ? その幽霊船っていうのがこの船なわけだ」
それを聞いて、ディルは驚くことしかできなかった。そして、次にとった行動は、その場から見える船のあちらこちらを狂ったように眺めることだった。
「僕、噂は聞いたことあったけど、その幽霊船っていうのを一度も見たことがなかったんだ。でも、聞いた話によれば、その船はボロボロで、いつ沈没してもおかしくないってことと、男の叫び声が聞こえたり、白いドレスを着た女性の幽霊が……」
ここまで言って、ディルは絶句した。そして、レンと、聞き耳を立てていたジェオが大笑いした。ジェオはカメから尻が滑り落ちても構わず笑い続けたし、レンはその場を転がり回って腹を抱えて息苦しそうに笑った。
「そうさ、ディル。察しのとおり、その大声の主はジェオ、女の幽霊ってのはルーシラのことさ」
レンは顔を赤くして、ヒーヒーしながら言った。
「俺の言ったとおりだろ、レン? 特別、何もする必要はねえってな」
ジェオが甲羅に座り直しながら、振り向きざまにそう言った。ディルは訳が分からず、二人を交互に見つめて「どういうこと?」と尋ねた。レンは息を整え、冷静さを取り戻してディルを見た。
「俺たちは、この船をどうにかして人目から避けさせたかったんだ。この船は、俺たち『反・カエマ派』のアジトだ。だから、俺たちが見つからないように、そして、誰も近づけさせないようにって、幽霊船を装った。いや、というよりこれは全部……」
「偶然」
ジェオが横から突然口を挟んだ。レンは笑いの波を押しこらえるのに息を詰まらせた。
「そう、偶然だった。見物に来た住民たちは、船首に立っていたルーシラを見て幽霊と勘違いした。さっきのディルみたいにね。こいつを利用して、定期的にルーシラを船首に立たせ、更に……これもまた偶然なんだけど、ジェオは魚が釣れないと、さっきみたいに大声で叫んで気分を晴らすのさ。とんでもなくでかいあの声でだぜ? それらが偶然に重なって、幽霊船が誕生した。俺たちの思惑どおり、誰もこの船に興味を持たなくなった」
「しばらくの間はな」
ジェオはもう完全に会話に入り込んでいたので、小声で話す必要がなくなっていた。ディルは、兵士たちの立ち話をふと思い出した。
「これも聞いた話なんだけど、幽霊船の探索に出発したまま戻ってこない二人がいたみたいなんだけど、どういうことか分かる?」
レンは、よくぞ聞いてくれましたと言いたげにディルを見た。
「このアジトに住んでいる人がまだ他にいるとしたら? それが理由で帰って来られないとしたら? そしてそれが、このやかましい足音の持ち主だったら?」
ディルはカモメたちの愉快な鳴き声に混じる、ドタドタと騒々しい足音を聞いた。三人は一斉に階段の方を振り向いて、そこから現れた真っ青な顔に注目していた。ディルはギョッとして、その人をただじっと見つめた。青と紫の薄地の服はサイズが小さくてヘソが丸出しだったし、その代わりズボンが大きくて、足を動かすたびにダバダバと音を立てていた。頭の上のバンダナがずれていて、まるで掃除途中の不器用な家政婦を見ているようだった。
「どうして誰もシチューを見ていなかったんです? アルマの奴、底の方が丸焦げだって、カンカンに怒っていましたよ!」
男は出し抜けにそうなじると、服の裾を下にぐいと引っ張り、元気よく飛び出たままのヘソを慌てて隠した。レンとさほど変わらない年頃の男で、その身なりを別とすれば、言葉遣いや仕草から紳士的な男であることがディルにも分かる。
レンとジェオは顔を見合わせて、どうしてお前が見ていなかったんだ? と無言で責め合っているのが見え見えだった。ディルは、あの奇怪な部屋で見たクリームシチューのことを言っているんだなと確信した。
男が困ったように腕を組んでいると、やがてデッキを足早に踏みしめる大きな足音が聞こえ始め、もうすっかり諦めたようにがっくりと肩を落としていた。階段から現れたのは、ディルがこの船の中で出会った、誰よりも若々しい年頃の女の子だった。
露草色の縮れた短髪は後ろで結ってあり、その容姿は、キングニスモの七女・ラーニヤを思わせるような派手なものだった。着重ねた服にはスパンコールがキラキラと輝き、スカートには小さな真珠が散りばめられている。金や赤の派手な腕輪が、片方の腕に少なくとも十個は巻きついていて、腕力を鍛えようとでもいうのだろうか?
女の子は化粧の下から怒りの表情を覗かせ、今すぐシチューに謝ってこいとでも言うかのように、一人一人睨みつけている。
「あたしが言ったこと、どうして忘れるの? あれほどシチューをかき混ぜといてって言ったじゃない。これじゃあ、落ち着いて町へ買い出しに行くことも出来ないわ」
しかし、女の子はレンの横に座るディルを発見すると、目を丸くし、穴の開くほどじっと見つめた。そのことに気付いたレンが勢いよく立ち上がり、ディルの腕をぐいとつかんで立ち上がらせると、女の子の前に引っ張り出した。ディルは、されるがままに行動しておくべきだと素早く察した。
「ユンファ、アルマ。ついさっき、ディルが四日間の悪夢から復活したんだ。ということで、今宵は宴の席でも設けようじゃないか!」
レンが意気込んでそう言うと、ジェオは釣竿を放り出し、芝居の演技をするように「名案だぜ、レン! 早くアルマの作るうまいご馳走が食べたいなあ!」と涙声で賛成した。ユンファという名の男も「では早速、準備に取り掛からないと! もちろん僕も手伝います!」と、アルマのご機嫌取りに参加した。
アルマは「話をごまかされた」とずっと腑に落ちない様子だったが、レン、ジェオ、ユンファの三人がお世辞を連発するので、とうとうシチューのことを許してくれた。ユンファに肩を押されながら階段を下りていくアルマを見届けたディルが、満足そうにほくそ笑んでいるレンに視線を移した。
「ねえ、レン。ユンファとアルマは城下町へ出かけていたんだよね? この船からあの浜辺まで、どうやって行くの?」
船から最寄りの浜辺まで、二キロ程の距離はある。小船に乗り、オウルを漕いで行くのだろうか? 考えるだけで、とても疲れそうだった。
「まさかあそこの浜辺まで、手漕ぎの小船で行くと思うかい?」
ディルはギクリとしたが、レンはその方法でも満更でないという表情で海を見つめた。
「実は、もっと効率の良い方法があるんだ。どんなものかは、その時が来るまでのお楽しみ」
レンは相手の好奇心をかき立てる方法を知っているらしく、わざと意地悪くにやついてディルにウインクした。