六章 レンと呼ばれる男 1
トワメルとカエマは暗闇の中でいつまでも笑っていた。胸の苦しさに顔を歪め、必死の思いでトワメルを呼び続けるディルを見下しながら。
「ディル、私は情けない。お前のような弱い息子を育ててきたかと思うと」
トワメルはそう吐き捨て、どこかへ去って行ってしまう。
「愚かな者よ。お前の全てを破壊してやる」
カエマが、横たわる無抵抗なディルに向かって両手を突き出す。
もう誰も助けてくれる人はいない、そう思った。だが、薄れる意識の中で確かに声が聞こえた。どこかで聞いたことのある、優しさと、勇気でいっぱいの声だ。その時、誰かの手がディルの震える手をつかんでくれたおかげで、ディルはもう一度立ち上がることが出来た。ディルが顔を上げると、そこには笑顔のレンが立っていた。
「そうか……あれはレンの声だったんだね」
ディルは目を開けた。窓から漏れる明るい陽光が、ディルの顔を暖かく包み込んでいた。見覚えのない小さな丸い窓から、青い空がディルの顔を心配そうに窺っている。
心なしか、海の音が聞こえる。カモメの鳴き声や、波がぶつかって白い細かな泡になる音だ。それに、胸の痛みはもうすっかりなくなっていた。
『全部……夢だったの?』
まだ意識のはっきりしないディルは、カエマが女王に即位したことも、レンに出会ったことも、全て夢だったのではないかと錯覚していた。しかし、意識のなくなる寸前のことをはっきり思い出してしまうと、もう低いうなり声しか出てこなかった。カエマに洗脳されていたトワメル……握り潰されるような胸の苦しみ……。
気分を晴らそうと、ディルは上半身だけを起こし、周りを見回した。そして、やはりここはディルの知らない場所であるということがはっきりした。ディルは、壁際に置かれた小さなベッドの上で眠っていたことに気付いた。真っ白な布団とふわふわの枕の乗ったベッドが他に三つ、小さな部屋にぎゅうぎゅうに押し込まれている。壁や床、ベッド、脇に置いてある小タンスまで、全て木造だ。左手の奥に見える扉は閉まっていて、その先がどうなっているのか、さっぱり見当もつかない。
眩しい陽光に目を細めながら窓の外を眺めたディルは、驚いて何度もまばたきを繰り返した。窓ガラスに鼻がくっついても、あごが外れてしまったように口が開きっ放しになっていても、今のディルにそんなことを気に止める暇はなかった。
窓の外に広がっていた光景は、青緑色に染まる『海』だった。青空の青より濃い、もう一つの青空が、窓の向こう一面にどこまでも広がっている。空にはカモメが何十羽も飛び交い、右手にはアーチ状の大岩が顔を出し、まっすぐ前方に見える大きな山々は、ヴァルハート国の東にそびえる連山だ。
ディルは、まだ夢の続きを見ているのではないかと思った。だが、そんなはずはない。波の砕ける音、カモメの鳴き声、部屋全体がかすかに揺れるこの不思議な感覚、照り続ける南国の太陽。そして、この止まらない興奮。これが全部夢のはずがない。そうだ、間違いない。ここは船の中なんだ。
「うわあ……うっわあ!」
ディルの心臓は高鳴りっぱなしで、興奮のせいでかすれ出る荒い吐息しか耳に入らなかった。夢にまで見た木造船に、今自分はいるのだ。旅行の時に乗った、蒸気で動く鉄だらけの客船なんかとは訳が違う。木の香り、木目の感触、大海原を一望できる鉄柵のないデッキ。それらがみんなこの船にはあるのだ。だが、一体この船は誰の物なのだろうか?
ディルは冷静さを取り戻し、やっと窓から離れ、どうして自分がここにいるのか、そう考えたが答えは見つからなかった。カエマに魔法をかけられた後、レンの声が聞こえた。あの時助けてくれたのがレンだとすると、この船の主は彼なのだろうか?
しばらくして、ディルは突然思い立ち、ベッドから飛び起きた。着地した木の床がギシギシと悲鳴を上げ、今にも抜け落ちそうだった。ディルはベッドとベッドの間にある、わずかな隙間をちょこちょこと進み、扉の前までやって来た。ディルは船の中を探索しようと決心していた。いつまでも窓の景色を眺めているわけにはいかない。それに、この船の船員が、危険で乱暴な海賊とは思えなかったのだ。小タンスの上に掛けられた黒マントが、そう語ってくれている気がした。
ディルは銀のノブを回し、扉を奥に押した。扉は床と同じ、ギシギシと音を立てながら素直に開いてくれた。内心、鍵がかかっていたらどうしようかと不安になっていたのだ。いや、むしろ鍵がかかっていてくれた方が良かったのかもしれない。そうでなければ、こうして未知の探索に、震える足で出かける必要もなかったろうから。
扉の向こうは真っ暗だったが、廊下であることは確かなようだ。小さな電球が天井からぶら下がっていているのがうっすら見える。部屋から出て扉を閉めると、辺り一帯はもっと暗くなり、どちらに進んで良いものかさっぱり分からない。しかも、この廊下は暗い上にやたらと狭かった。人ひとりが通れるくらいの横幅しかないのだ。
ディルは両手を壁につけながら、とりあえず左の方へ進むことにした。わずかだが、外からの光が向こうから漏れているのが見えるからだ。デッキへ行けば、きっと船員がいるだろう。その人に詳しい話を聞かなくては。自分がどうしてここにいるのか。そして、これからどうなるのか……。
廊下の壁や床は、さっきいた部屋とは比べ物にならないくらいボロボロだった。手の平には、朽ちかけて剥がれかけの木材の破片が何度も刺さったし、靴の裏がなぜか滑るので、目を凝らしてよく床を見てみると、青黒いこけが所々に生えていた。ディルは、わざと気にしないふりをして、そのまま注意深く歩き続けた。
それからすぐ左手に現れたのは、台所と居間をくっつけたような不思議な部屋だった。
扉はなく、その入口のすぐ上に大きく『飯屋』と書かれている。中は大きな丸窓から入ってくる陽光で明るく照らし出されていた。部屋の真ん中には洒落た食卓と、それを取り囲む様々な種類の椅子が置いてある。黒い肘掛け椅子や、背もたれが異常に長い椅子、ただの丸い椅子、ソファーのようなふかふかの椅子、朽ち果てたボロの椅子(なんと、中綿があらゆる所から飛び出している)。
窓のある壁際には火の気のない暖炉があり、廊下に面した手前の壁際には、レンガで作られた巨大な調理台が置いてある。まな板の上には、大きくて真赤な魚が、調理されるのを今か今かと待っており、大きな黒い鍋の下にちらつく火が、その中のクリームシチューをコトコトと煮込んでいた。天井は豪華なシャンデリアで飾られ、その他にも魚やイカの干物、世界地図が刺繍された古汚い織物、綿のようなクモの巣が天井からぶら下がっている。この部屋もやはり、廊下と違って綺麗な作りになっている。だが、人がいる気配はまるでなかった。
シチューの美味しそうな香りを背に、ディルは先へ進むことにした。こうして立っていると、船が波で揺れるのがはっきりと伝わってくる。この船はこれからどこへ向かうのだろうか? どうしてここに停泊しているのだろう? そんなことを夢中で考えていると、ディルは気付かないうちに陽光で溢れる階段下に辿り着いてしまっていた。
この螺旋階段を駆け上がれば、デッキはすぐそこだ。しかし、わずかに見える青空を見上げながら、ディルは尻込みしていた。まさか、本当に海賊たちがいたらどうしよう。ディルは、航海途中の船が海賊に襲われたという話を何度か聞いたことがあったので、そのことを思い出すと、どうしてもこの階段を上へ進むことができなかった。
だが、ここに突っ立っていても、さっきの部屋に逆戻りしても、見つかるのは時間の問題だ。それに、いざとなれば剣を振り回して抵抗すれば……しまった!
「剣がない!」
ディルは絶望し、か細い声で叫んだ。きっと、マントと一緒にあの部屋に置いてあったに違いない。もうこうなればやけくそだ。ディルは、海賊でも怪物でも何でも相手にしてやると意気込んで、完全に吹っ切れていた。そして、階段を一段ずつ飛ばしながら突進して行った。