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五章  カエマ女王  4

 ディルは思わず叫び、反射的にマントの中の剣に手を伸ばしていた。それは一瞬の出来事だったが、それから訪れた沈黙は、一分一秒がとても長く感じられた。カエマを貫通した大矢は玉座の背もたれに突き刺さり、数秒前に起こった悲劇を静かに物語っている。当のカエマは、腹に開いた風穴をしげしげと眺め、その表情を徐々に土気色に変えていった。両手をダラリと垂らし、尾羽はたたまれて元に戻り、黄金の壇に力なく投げ出された。

 固唾を呑んでその光景を見つめていた人々がとうとう騒ぎ始めたのは、この息苦しさと何か関係があるに違いない。黒く濃い煙が、天の川通りを包み始めたのだ。

 辺りは一瞬にしてパニックに陥った。人々は我先にと押し合い圧し合いして黒煙から逃げようとするし、呆然と立ち尽くしていただけの兵士たちは、今度は自分の尻に矢が刺さったとでも言うように、慌てふためいた様子で走り回った。

 ディルはこの煙幕を見て、すぐに仮面窃盗団の二人を思い出した。あの時と同じ手口を使って悪巧みを考えているなら話は早い。一国の国王を殺してまで欲しい物品があるとすればの話しだが……。

 ディルは仮面の二人のことも気になったが、壇上のカエマのことはもっと気になっていた。もしかしたら、まだ助かるかもしれない。

 それは、ディルが馬車を目指して一歩踏み出した時のことだった。この騒ぎの中、黒と白のドレス姿の女の子がディルにぶつかり、二人はよろめいて一緒に転倒しそうになった。


「ごめんなさい」


 女の子はそう言って顔をうつむかせ、長い黒髪をなびかせて走り去ってしまった。

ディルはその子のことを心配に思ったが、今はカエマ女王のことで頭がいっぱいだった。そして、手探りしながら再度歩を進めたが、兵士の一人に足を踏まれ、更に横から強烈なタックルまでされたので、車輪に手が届いた頃には体中に痛みが走っていた。水滴でツルツルと滑るスポークに苦労して足を引っ掛けて這い登ると、そこも真っ暗だったが、カーキ色にくすんだ黄金の床が、ここは馬車の上だということを教えてくれた。ディルは四つん這いのまま中央にそびえる塔のような階段を登っていった。やがて少しずつ黒い煙幕は薄れ、辺りが空の雲と同じ透明な灰色に見えた時、ディルは視線の先の光景に、今度は目を疑った。壇上には、立ち尽くしたままのカエマの他に、もう一人誰かがいる……。

 炎のように真赤な頭髪で、顔立ちも若々しい青年だ。その様子はうっすらとしか見えなかったが、青年の手に持つ剣が、燭台の炎に照らされて爛々と眩い光を放っているのがはっきりと分かる。まさか、カエマ女王の息の根を完全に止めようとでもいうのだろうか? だとすると、あの矢を放ったのもこの青年に違いない。

 ディルは先に進もうかどうか迷った。刃先をカエマに向けるあの青年は、もしかしたらレン・ハーゼンホーク、その人なのではないかと、不安に思ったからだ。だとしたら、ディルが立ち向かっていったところで返り討ちにあうだけだ。

 それは、助けを呼びに戻ろうと、そのままの姿勢で階段を下りようとした矢先のことだった。


「これはこれは。私としたことが、少々油断しましたね。まさかあなたが出てくるだなんて」


 カエマの声は、青年に動じることもなく、また、腹部に負った傷を知らんふりするように、余裕で溢れていた。


「女王、お遊びはここまでだ。何でも自分の思い通りになるなんて、勘違いも甚だしいな」


 青年は鼻で笑い、その切っ先をカエマの喉元に突きつけた。


「俺はあんたを殺し、全てを終わらせる。何もかもが元通りってわけさ」


 青年の剣が頭上高くに掲げられ、カエマ目がけて勢いよく振り落とそうと姿勢を構えたので、ディルはがむしゃらに叫びながら、無我夢中で黒煙の中から飛び出した。壇上に立った瞬間、ディルの目に飛び込んできたのは、建物の屋根という屋根を覆い尽くす黒い煙幕と、東にそびえる山々。そして、黒いもやのようなカエマと、金色と朱色のまだら模様の派手なローブに身を包んだ、レン・ハーゼンホークだ。昨年の南十字祭で王の護衛をし、つい今しがたまで“行方不明”だった、あのレンに間違いない。

 レンはディルに気を取られ、顔を覗き込みながら呆然としていた。そして、あっという間に顔が真っ青になった。


「なぜここにいる! すぐに通りへ!」


 レンは空いている方の手でディルを追い払った。気付いたカエマは、首だけ不気味に動かし、ディルを鋭く睨みつけた。すると、ディルの体はまったく動かなくなってしまった。体全体が乗っ取られてしまったかのように、いうことをきかなくなっている。声を出して助けを求めることもできない。


「愚か者め」


 ディルは、それがカエマの最後の言葉だと思った。レンが遠慮なく思い切り剣を振り落ろし、右肩から左のわき腹まで、カエマを真っ二つに切り裂いてしまったからだ。

 紙のようにもろく崩れていくカエマを見て、ディルは吐き気をもよおした。カエマはペシャンコになったかと思うと、小さな立方体のブロック一つ一つが分離していくように粉々に砕け、そのまま跡形もなく溶けてなくなったのだ。

 ディルはへなへなとひざから崩れ落ち、額に付着した汗と雨粒を震える手で同時に拭き取った。どうやら体は自由に動かせるようになったらしい。だが、ディルにとってそんなことはどうでもよかった。今、自分の目の前でカエマ女王が殺された。間違いなくレン・ハーゼンホークに殺されたのだ。


「大丈夫か? ケガはないか?」


 レンが差し延べた手をディルはひょいとかわし、非難がましい目でレンを見た。黒煙に包まれたままのずっと下の通りから、兵士たちが住民たちを落ち着かせようと大声で先導している声が微かに聞こえる。


「どうして殺したんですか……? あなたは今、カエマ女王を……」


「女王は死んじゃいないさ。思ったとおり、あれは魔法体だった」


 レンは手に持った剣を鼻にくっつきそうになるくらい間近で見つめ、悔しそうに言った。


「死んでいない? 魔法体だったって?」


 ディルにはその言葉の意味がさっぱり分からず、目を丸くしてオウム返しに聞いた。唖然としたままのディルに、レンはもう一度手を差し延べた。ディルは、今度はレンの手を避けようとはしなかった。まだ完全に信用したわけではないが、レンの言葉にも一理ある。玉座に刺さる大矢、黄金に輝く壇上、カエマを両断した大剣、そのどれにもカエマの血がついていない。それに、カエマの亡骸は氷のように溶けてなくなってしまい、誰が見ても不自然なのは確かだ。


「言っていることが分からない。この騒ぎはハーゼンホークさんが起こしたものでしょう? どうしてこんなこと……」


 立ち上がったディルから出た声は弱々しかったが、レンはすぐに笑顔で応えた。


「あれ? 俺の名を知ってるのかい? これで俺も有名人の仲間入りってわけだ」


 この騒ぎの中でなんて陽気な人だろうと、ディルはしこたま驚いた。レンと会話するのは初めてだが、こんな気さくな性格の持ち主だったなんて、思いもしていなかったのだ。


「今日のことは、いつか話す機会が必ずやって来る。その時までは秘密だ。な? いいだろ?」


「え? あ……うん」


 レンがディルの顔を覗き込んだので、ディルはその不思議な瞳をいやというほど見せつけられた。右目はディルと同じ漆黒の瞳だが、左目はまるで、海水を流し込んだような、繊細に透き通った群青色に染まる瞳だった。その美しいことといったら、まるでピカピカに磨き上げられた極上の宝石を手に取って眺めているようだった。

 しかし、青い瞳に魅了される時間は、そう長く許されなかった。レンのすぐ後ろの空間に、通りに充満する黒煙が吸い寄せられるように集まり、やがて大人一人分ほどの塊になった。ゆらゆらと漂う黒煙のずっと奥の方で、うっすらと見えるカエマの瞳が、ディルとレンを見つめていた。


「レン! 後ろ!」


 ディルが叫び、レンが後ろを振り向く頃には、すでにその黒煙の塊からカエマの顔と両手が突き出ていた。その不可思議な光景に、ディルは度肝を抜かれた。


『女王は本当に生きていた! レンの言う通りだった!』


 レンはすぐに剣を構えたが、カエマの方がよほど早かった。カエマは手の平をパチンと合わせ、何かぶつぶつ呟くと、すぐにまた両腕を左右に広げた。

 その瞬間、地に向かって降り注ぐ小さな雨粒が、勢いよくディルの頬をかすめた。そして次にディルが見たのは、濃い灰色の雲が重なる空だった。次は通りを埋め尽くす黒煙、次はもう一度カエマだ。視界に入る光景が、目まぐるしく回転しては遠退いていく。

 ディルが、物凄く強力な突風によって吹き飛ばされたと気付いたのは、全身びしょ濡れで、ぐったりしたまま噴水の縁にへたり込んだ時だった。どうやらここは馬車から少し離れた憩いの広場らしく、あの高さから吹っ飛ばされて助かったのは、噴水の中に運良く落下したためらしい。もしも固い石床に落ちていれば、ディルの全身は間違いなく粉々になっていただろう。

ここから馬車が見えたり、あたりに人がいないとはっきり分かるのは、あの突風が天の川通りを包み込んでいた黒い煙幕をも、全部残らず吹き飛ばしてしまったからに違いない。カエマが見せつけたこの力こそが、大人たちが恐れる魔法というものなのだろう。


「……レン?」


 ディルは、水を吸って重くなったマントを引きずるようにして立ち上がった。レンは大丈夫だったろうか? どこか安全な場所に落ちたろうか?

 天の川通りは廃墟のような姿に変わり果てていた。人の気配は無く、国王即位を祝うための催し物は突風のせいで無残に破壊され、道には帽子や靴が転がっている。更に、小雨がしとしとと通りを濡らすので、その陰惨な光景により拍車をかけていた。

 凍えるような冷たさと、カエマの恐ろしい魔力のせいで、ディルの全身は震え上がっていた。任務がここまで厳しいものだったなんて……それに、その相手がカエマ女王だ。行方不明だったレン・ハーゼンホークまで姿を現した。一体何がどうなっているんだろう? レンとカエマの会話の内容は、誰にだって理解できやしない。

そんな考えで頭がいっぱいになっていた時、ディルの視界を埋め尽くしたのは黄金の馬車だった。十頭の白馬は、銀のたてがみこそボサボサになってはいたものの、突風に負けず、ただじっとその場で耐えていたらしい。何食わぬ表情で辺りを見回したり、ディルを見つめて鼻を震わせたりしている。

 そしてディルは、馬車の上に立つ、黒いマントを羽織った男を見た。それは間違いなくトワメルだった。だが、一体どうしたのだろうか? そこにいつもの厳格な表情はなく、悲しみに浸る瞳がディルをただ黙って見つめ続けている。


「お父様……?」


 震える声で呼びかけても、まるで反応がない。突如、カエマがトワメルの背後から現れたのを見て、ディルはそれ以上近づくことはしなかった。カエマの姿は、もうすっかり元通りになっていて、冷たく微笑むその表情もあの時のまま変わりなかった。


「この私に刃を向ける行為は、その者の死に値するも同然。そうよね? トワメル」


 カエマが何を言っているのか、ディルにはさっぱり分からなかった。だが、今目の前にいるトワメルが、少なくともカエマに忠誠を誓う者の一人であることに異論は無い。


「僕、あなたと敵対しようなんて考えていません! お父様なら分かってくださるはずです!」


 ディルはすがるような視線でトワメルを見つめた。だが、トワメルはだんまりを決めるばかりで、ディルの気持ちにはちっとも応じてくれなかった。


「ディル・ナックフォード。いつの日か、あなたが私にその刃を向ける時が必ずやって来る。危険な新芽を早いうちに摘んでおくのが私のやり方」


 ディルの両足は、石床に吸いついたようにピクリとも動かなくなった。壇上で体が金縛りにあった時とは違う。恐怖で足がすくんでしまったのだ。このままだと、確実に殺されてしまう。トワメルは生気を失ったようにただその場に突っ立ったままで、助けてくれる様子は微塵も感じられない。


「女王の身であるあなたが、そんな理由で僕を殺すことができますか?」


 勇気をひねり出して発した言葉は自信に溢れていたが、奥歯がガタガタと震えていたのは事実だ。カエマの表情に、もう笑顔はなかった。


「下等市民の分際で、私を脅迫するつもりか。己の弱さを認めず、浅はかな思考だけで私に立ち向かう愚かな奴は、その過去も未来も、存在をも破壊してやる」


 魔女を恐れてはいなかった。むしろ尊敬していた。本当だ。大人たちがどれほど魔女を忌み嫌っても、差別しても、それは間違いだと自信を持って言えた。つい昨日までは……つい数時間前までは。

 ディルの目には涙が溜まり、ただその時を待つしかなかった。まぶたを閉じ、真っ暗になった目の前が、これほど怖いと思ったことはない。寒さで赤らんだ頬を、涙と雨の雫が流れた時、ディルの胸に内側から締め付けられるような強い衝撃が走った。音は無かった。誰かが近づいて触れた様子もなかった。だが、全身の痛みと胸の苦しみがディルを襲ったのは、それからすぐ後のことだった。

 濡れた石床に仰向けで倒れたことははっきり分かる。小雨が顔を打つのもうっすら分かる。徐々に意識が薄れていく中、聞き覚えのある、誰かの声が聞こえた。

 誰だろう? 考えたが、もう何も分からない。

 ディルは、真っ暗な世界へ、逆さまに落ちていくのを感じた。


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