五章 カエマ女王 3
ちょうどその時、天の川通り全域を埋め尽くす大きな歓声が沸き上がったので、ショーダットの言葉はそれ以上出てはこなかった。ディルとショーダットは左手にある小さな通りから右折してくる巨大な何かを見た。辺りには、いつの間にか何百という数の兵士たちが集まっており、通りの両端に横一列に並びながら、胸を張って互いに敬礼している。ディルは、住民たちの凄まじい歓声と、どこからか聞こえてくる豪快で華麗な音楽のせいでひどく動揺し、兵士たちを見よう見まねで行動するしかなかった。次にディルが目にしたのは、銀色のたてがみをなびかせる十頭ほどの白馬が、黄金色に輝く巨大な馬車を引いている光景だった。
大人の背丈ほどある八つの巨大な車輪がディルの目の前でピタリと止まった。馬車の至る所に金箔が施されており、陽光が当たっていないにも関わらず、目を背けたくなるほどの輝きを放っている。しかもその大きさといったら、ディルのすぐ後ろの玩具店よりはるかに大きく、七、八メートルほどの高さはあろうか。馬車そのものの基盤は、まるで劇場の舞台のように広く、その四隅には十字架を手にした女神の像が立っていて、それらもまた黄金だ。中央にはピラミッド状の横幅の広い急な階段が天に向かってそそり立っている。
そしてその頂には、ヴァルハート国の新国王、カエマの存在があった。
誰かに聞かなくても、本人が名乗らなくても、玉座に腰をかけるその威風な姿だけで、その人物がカエマ女王であることは誰にでも分かった。四隅に立つ大きな燭台に灯った炎が、彼女の姿を明るいオレンジ色に照らし出している。
裾の長い、タイトな黒いドレスが全身を覆い尽くし、首周りや袖には黒い羽毛が雲のようにふわふわと巻きついている。黒髪にかぶせられた王冠は煙突のように長く、様々な種類の宝石が点々と輝き、紺色のヴェールが頭を包むように垂れ下がっている。やせてほっそりとした顔つきに、厳格さと、もの悲しさを併せ持った表情を浮かべ、どこか遠くを見据えるその瞳はコバルトグリーンに輝いている。カエマは、美貌と呼ぶにふさわしいその顔立ちで、その場に集まった者全てを虜にさせた。
ディルもそうだが、兵士や住民たちの多くは、カエマの姿を今初めて目にした。これほど美しい女性だ……ロアファン王が、カエマが魔女であるにもかかわらず妃にしたかった理由がはっきりと分かる。ディルにはカエマの横顔をかすかに見ることしか出来なかったが、それだけでも、魅力的な雰囲気が十分伝わってきた。国民たちは両手をちぎれんばかりに振ったり、その場で飛び跳ねたりしながら歓声を送り続けていた。
やがて演奏隊の音楽が終わり、辺りが黄色い声と「カエマ女王万歳!」という叫び声だけになった時、カエマはゆっくりと起立し、数歩前に出た。この時、住民たちの歓声は更に大きくなったが、カエマが両手を曇天にかざし、霧雨を全身に受け止める煌びやかな姿勢になる頃には、全員すっかり押し黙ってしまっていた。
今や誰もがしんとなり、カエマに注目が集まっている。カエマの両手が静かに下ろされた。
「壇上に立つ私を見なさい……そうです、私の子供たち」
にごりのない高く澄み切った声が天の川通りに反響した。カエマの両腕が鳥の翼のように左右に大きく広がり、静かに空を抱いた。小雨が地を打ち続けるまばらな音が、これほど騒々しいと感じたことはない。
「私はヴァルハートの母であり、未来の創造者。また、人々が恐れ、存在を否定されてきた魔女。深き森の奥にひっそりと身を隠し、人々の夢の中だけで生きてきた魔女。その名はカエマ・アグシール」
紫色の唇がほのかに笑み、宝石のように鮮やかに輝く瞳が大衆を見つめ返している。
「ロアファン王のいない今、この国は私の手によって統治される時代を迎えるのです。恐怖色の血が流れる、昔から恐れられてきた魔女によって。しかし、人々の思想、恐怖、憎悪、破壊。それらはみな、私の前では過去の異物となる」
果てのない沈黙の中で、カエマを見つめる大衆に緊張感が戻りつつあった。カエマは更に続けた。
「何も存在しない無の空間。そこから始まる新世界。万物を築き上げる絶大なイメージ。する者がされる者を超越するハーモニー。これらはすなわち、私が女王となる証。全世界が尽くせる限りの忠誠心でヴァルハートを崇めるその日が来るまで、私の手により、この国は変わり続ける」
聞き惚れるとはまさにこのことだ。広場の全員が……いや、ヴァルハート国民全員が、カエマの言葉に圧倒され、ただ黙って見つめることしか出来なかった。気を抜き取られ、人形のようになってその場に立ち尽くしている。燭台の炎のはぜる音が波紋のように広がっては消えた。
「さあ、私のかわいい子供たち。覚醒する時が来ました」
ディルはカエマの腰から伸びる、美麗で鮮やかな光沢を放つ、クジャクの尾羽のようなものを見た。カエマの瞳と同じ、コバルトグリーンに輝く羽が少しずつ開いていく様子は、まさにクジャクそのものを見ているかのようだ。
しかし、ディルがもっと気掛かりなのはトワメルの姿が見当たらないことだった。昨日、確かにカエマ女王の護衛に付くとそう言ったはずなのに。何か予期せぬ事故でもあったのだろうか? いや、もしかしたら、これから何かよくないことが起こるのかもしれない……。ディルの心の中は、またも緊張と不安でいっぱいになった。トワメルがこれから起こることを予知していたとすれば、それはきっとただ事では済まないだろう。
ディルは目だけを動かして辺りを見回したが、天の川通りに何ら変わりはなかった。小雨は降り続いているし、通りに集まる人々が視線を上に向けたまま、まばたきすらしていないところも変わりはない。ただ一つ違う点を上げるなら、カエマの姿がさっきより綺麗で華やかになったことだろう。背部の尾羽はおうぎ状に広がり、全身を包み込むような派手な装いになっていたのだ。
カエマは両手の平をもう一度曇天にかざし、さっきよりもっと冷淡に微笑した。
「ヴァルハートが世界に新たな歴史を刻むのです。かつてないほどの惨劇と、味わったことのない恐怖を、私が教祖となり世界へ贈りましょう。ヴァルハートが、世界を支配する王国となるのです」
『なんだって?』
ディルは自分の耳をしつこいくらい疑った。しかし、どうやらディルだけではないらしい。通りに集った人々の口から、低いどよめきの声が次々と漏れた。
「かわいい子供たちよ。あなた方は、ただ見ているだけでいい……」
カエマはざわざわと騒がしくなった足元の大衆を黙らせるようにそう言い放つと、開いた両手を拳にし、今や満開の尾羽を、黄金色の馬車に勝るほど強く輝かせた。まるで雨雲の上の太陽が、カエマの背後に姿を現したようだ。
だが、カエマの言葉も、その行動に関しても、それ以上深く考えている暇は与えられなかった。一本の巨大な矢が、空を切り裂く鋭利な音を奏でながら、人々の頭上を目にも止まらぬ速さで通過し、カエマの腹部をいとも簡単に貫いたのだ。