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五章  カエマ女王  2

 次の日になっても、空に照り輝く太陽を覗くことはできなかった。それどころか、朝から弱い雨が降り続いている。雨を降らす濁った雲は何層にも重なり、それが重みになって地上に落ちてきそうだ。小粒の雨が赤や青の屋根を打ち、一つの川と化して雫となり、地面に落ちて砕けた。時折、頭上で鳴り響く雷は幼子を驚かせたが、農夫たちは、シャンデリア風にぶら下げてある小さな電球よりは明るくて良いと小ばかにして笑った。こんな下り気な天気の日は、たいていみんな家に閉じこもって暖炉に当たるか、趣味や内職に没頭するのだが、この日だけは例外だった。カエマ女王誕生の日がとうとうやって来たのだ。

 鐘楼の鐘が城下町全体を目覚めさせる前に、人々はもうとっくにベッドから起き上がっていて、一家揃って早めの朝食をとったり、熱いココアを飲んだり、カエマ王妃への祝いの言葉を考えたりしていた。

 国民は皆、新たな国王の誕生に興奮を隠し切れないでいた。魔女が王位に就くことは前代未聞の出来事だ。しかも、魔の力を忌み嫌うヴァルハート国がその舞台に選ばれるなんて、なんと皮肉な話だろう。

 昼を過ぎても雨は降り続いていたが、顔を打っても気にならない程度に落ち着いていた。天の川通りには人々が集い始め、カエマ女王の到着を今か今かと首を長くして待っていた。子供たちはこれから何が始まるのかもよく理解していないようで、かけっこしたり、伝統ある農夫たちの歌(「土、野菜、あぜ道の向こう。俺っが畑の大王!」)を口ずさんだりしては、暇な時間を潰すのに忙しなかった。

 天の川通り付近を警護する兵士たちの中に、ディル・ナックフォードの姿はあった。兵士たちは、強張った表情のディルを見つけては軽い足取りで近づき、「俺も最初は緊張したぜ」とか「何かあったら私を呼んで下さい。すぐに助太刀します!」などと励ましてどこかへ消えて行った。兵士たちはどこから聞きつけたのか、ディルが任務に参加していることを承知のようだった。それに、ディルや女王に良い格好を見せようと、いつも以上に張り切っているのが見え見えだ。あの勇ましい表情を見れば誰にだってすぐに分かる。

 ディルはいつもの軽装な格好の上に、トワメルそっくりのサイズの大きな黒マントを雨具としてはおっていた。唯一いつもと違う箇所は、ベルトにしっかりとくくり付けてある短剣が、マントの内側でひっそりと出番を心待ちしているところだ。歩を進め、左足に鞘がぶつかる度に、ディルは任務に参加していることを実感し、またそれを心から光栄に思った。

 ディルは天の川通りを南から北へ移動しながら、辺りを警戒していた。最初の張り詰めたような緊張感は次第に薄れ、濃い霧のような雨が優しく顔を撫でるのが、気持ちいいとさえ感じられるほどになった。前方から大股で近づくあごひげを蓄えたずんぐりな兵士が、ディルの前でピタリと立ち止まるなり、しゃがれ声を張り上げた。


「広場! 異常なし!」


 兵士がしたようにかかとを揃えると、ディルは深呼吸した。


「南ゲート付近! 異常なし!」


 ディルは腹から声を出した。ほとんど叫び声だ。兵士はその大きな顔に笑みを浮かべ、人差し指と中指を立ててディルにブイサインを送った。これは兵士たちの間で行われている、いわゆる『了解』の意を表したものだ。

 その直後に聞こえてきたのは、湿った石床を早い歩調で踏みしめる誰かの足音だった。ディルの左肩あたりに姿を現したのは、ひょろりと背の高い兵士だ。両目が血走っている。


「さあ、いよいよだぞ。向こうの土手から様子が見えたんだ。広場の周囲へ移動しよう」


 広場は遠くから見ても分かるほど大勢の人で溢れていたが、それも間近になると、肩越しに向こうの景色すら窺うことができなくなった。色とりどりの晴れ着が噴水を取り囲んでいたり、広場からはみ出して狭い路地に流れ込んだりしている。普段は泥まみれのシャツとズボン姿の農夫たちも、今日ばかりはスーツを着込み、「ネクタイが首を絞めて息苦しい」と喘いでいた。


「俺は右辺を見て回る。反対を頼んだぞ」


 ノッポの兵士はそう言って、さっさと走って行ってしまった。ディルの方に向き直ったあごひげの兵士は、やれやれと首を横に振った。


「やっこさん、どうも調子が良いみたいだ。参ったね」


 二人は広場を北に向かって歩きながら、色々会話した。彼の名はショーダットといい、兵士を始めて五年目で、その前は漁師をしていたらしい。ショーダットはディルのことをもちろん知っていた。トワメルのことを「強くて人望も厚い、立派な人だ」と弾んだ声で言うと、ディルの方を振り返って「期待してるぞ、小さな兵士さん」と笑顔で言った。ディルは弱々しいブイサインを出すことしかできなかった。


「ショーダットさんは、カエマ王妃の姿を見たことがあります?」


 人々の群れを抜け出し、ガヤガヤと騒がしい声に混じってディルは聞いた。


「いや、ない。全くない。王妃は一日のほとんどを自室で過ごしておられた。しかも誰も立ち寄らせなかった。俺たちの間では、本当は王妃なんか存在しないんじゃないかって、噂になっていたほどだ」


 二人は天の川通りのほぼ端の方までやって来た。ここには兵士が数名いるだけで、住民たちはいなかった。この空間こそが、新国王の演説場所だ。住民たちが周囲十メートル以内に立ち入ることが出来ないよう、辺りは黄色の太い縄で囲まれている。それはまるで、神聖な領域を目の当たりにしているようだった。


「なあ、ナックフォード。もしかして、カエマ王妃が怖いか?」


 一見、真面目に警護に当たっているような動作をしてから、ショーダットは小声で聞いた。ディルはショーダットから少し間を置き、やはり四方八方警戒しながら答えた。


「僕は、カエマ王妃を一度だって怖いと思ったことはありません。これからもこの気持ちは変わりません」


 ディルの声は自信に満ちていた。


「さすがだ、ナックフォード。兵士たちの中には、魔法に恐怖している者も少なくはないんだ。わしはどちらとも言えんが、新たな国王に忠誠を誓う覚悟はできてる」


 ショーダットは小さな質屋のある方へ離れて行ったが、そのひそひそ声は確かにディルの耳に届いていた。ディルはふと、パルティアの不吉な言葉を思い出した。一瞬、聞いてみようかどうか迷ってしまった。


「ショーダットさん。カエマ王妃が……その……魔法でこの国を支配するなんてことはないですよね?」


 ディルは唇をほとんど動かさずに、ショーダットだけに聞こえるようにそう言いきった。さすがのショーダットも、この質問には戸惑いを隠せない様子だった。兜の上から頭をかきむしるし、突然、小石を拾い集めたりするものだから、やはり聞かなければよかったとディルは後悔した。人々がひしめき合う天の川通りをじっと注視していたディルに、やっとショーダットが重い口を開いた。


「わしは……」


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