五章 カエマ女王 1
キングニスモの到着から一週間が過ぎた頃、ヴァルハート国全体が『カエマ王妃の国王即位』の話題で盛り上がっていた。城下町はいつも賑やかだったが、掲示板に国王即位の知らせが貼り出されると、毎日が『南十字祭』の時のようなお祭り騒ぎになった。相手が魔女であろうと、怪物であろうと、ヴァルハート国民にはおかまいなしだ。おめでたい時に、盛大で尚且つ派手に祝うことがみんな大好きなのだ。
家々の窓には十字刺繍の国旗が飾られ、国の象徴花である『ヴァルハレン』の白い花が、庭の花壇や通りの植木の周りに可憐に咲いている。天の川通りには、一日中踊り続ける踊り子たちや、派手な服と化粧でめかし込んだ曲芸を披露する芸人たちがいたし、陽気な音楽が止まることなく演奏されていた。
街灯から街灯へ縄が架けられると、そこに鈴蘭の形そっくりな提灯が吊るされ、夜道を淡い光で明るく照らした。誰かがイタズラをして、酒場の主人のワースが愛用しているメガネのコレクション一式をその提灯と一緒にこっそりぶら下げてしまったものだから、ワースは恥ずかしさと悔しさと怒りで顔を真赤にして、誰がやったんだと怒鳴り散らしていた。テイオが「メガネ無しのやっこさんは、俺のおふくろにそっくりだ」と呟いたので、周りのみんなが腹を抱えて笑った。
ディルの住む屋敷は、北西にある野花の咲き乱れる小高い丘の上に建っていて、裏手は大海を見渡せる海岸になっている。先祖代々引き継がれてきた屋敷は、貴族たちの出入りするミュージカル劇場そのものを見ているようで、巨大で、おごそかで、歴史ある豪華な造りだった。町から遠く離れたこの丘にも、『カエマ女王』の誕生を祝う町民の暖かな声援が聞こえてくるようだ。
「いよいよ明日だ」
いつもの朝食の席で、トワメルは、ナイフとフォークを空になった皿の上に置き、上ずった声を出して静寂を破った。ディルは苦手な焼きトマトを水と一緒に胃袋へ流し込み、紺色のナイトガウン姿のトワメルを見た。そのガウンも、いかめしい表情も、いつもの朝のトワメルだ。
「まあ、何だったかしら。レーナン夫妻のワインパーティーは来週よね?」
ディルの実母であるパルティアがとぼけた声を出し、ディルとトワメルを交互に見つめた。パルティアはいつだってこんな調子だ。些細なことから大切なことまで、すぐに忘れてしまう。ワインパーティーのことだってあと二、三日もあれば綺麗サッパリ忘れてしまうだろう。
「明日はカエマ王妃の即位式の日です、お母様」
ディルがとっさに助け船を出した。パルティアはベージュ色のテーブルクロスの上に食べかけの焼きトマトを取りこぼし、そのことをすっかり思い出した。
「新国王、誕生の日ね。忘れていたわ」
パルティアは笑顔だが、少しも嬉しそうではなかった。トワメルの凄みのきいた咳払いが広間に響いた。
「式の後、天の川通りにて王妃による演説が行われる」
トワメルの言葉に熱がこもった。
「私は王妃の護衛に付く。これは当初予定外だったのだが、最近はやたらと物騒なことが多い」
ディルは仮面窃盗団のことや、怪しいローブの男のことをその日の帰り、トワメルに話していた。だが、腕に浮かび上がった文字のことは一切口に出さなかった。なぜなら、あんなことは普通じゃない。まるで魔法を使ったとしか……。
「ディル」
スープの中にスプーンを突っ込んだままボーッとしていたディルに、トワメルは静かに声をかけた。ディルは自分でも驚くほど大きな声で返事をした。
「しっかりしろ、ディル。お前にも明日、任務を用意しておいたんだ。初任務だ」
ディルの心は躍った。その心中で、汗と涙の苦労の日々が次々と浮かび上がっては消えていった。
仮面の二人を追っている時は無我夢中だった。だが今思い振り返ると、それはディルにとって素晴らしい体験であった。運動もからっきしで、いつも弱気だった自分が、二人の悪党をたった一人で追跡した……思い出すだけで胸の高ぶりが増してくる。任務の内容がいかなるものでも、引き受ける覚悟も、勇気も、今のディルにはある。だが、パルティアは心配そうな面持ちでトワメルを見つめたままだった。
「どのような任務です? 僕、何でもがんばります!」
大そう嬉しそうなディルを見て、トワメルの眉間にしわが寄った。ディルもパルティアも、この顔が説教を開始する前準備だということを知っていた。ディルの表情から笑顔が消えた。
「いいかディル、任務は遊びではない。意欲を持つことは大切だが、中途半端な心構えではい
つか失敗する。任務での失敗は絶対に許されないのだ」
ディルに謝罪させる隙も与えず、トワメルは声を張り上げて続けた。
「ディル、お前には天の川通り全域の警護をしてもらう。だが、民衆たちの先導をしろというわけではない。危険と思しき人物の早期発見が任務内容だ。前のように深追いはするな」
「はい。心得ます」
ディルの表情から浮かれた感情はなくなった。その代わり、責任感で体中が満たされていくようだった。その傍らで、パルティアはずっと気の乗らない様子だった。
「ディルにはまだ早過ぎるわ。それに、絶対に安全とは言えないんでしょう?」
「任務とはそういうものだ」
トワメルは極めて短く、極めて冷たくあしらった。しかし、パルティアはひるまない。
「何を慌てているの? 最近はずっとそう。ディルを城下町へ連れ回したり、急に任務に参加させたり……」
パルティアがトワメルの仕事に文句を言うのは珍しいことだった。いつものパルティアは、トワメルの仕事の話には聞く耳持たずで、町に出回る服の話や、他国原産のワインの話ばかり持ちかける。トワメルはことさら気に止める様子も見せず、ガウンをマントのようにひるがえしながら席を立った。
「ディルには生まれ持った才能がある。何もせず恐れることは、腐っているのと同じ。大切なのは一つでも多く場数を踏むことだ」
トワメルが広間から出て行くのを黙って見送ったパルティアが、不安気にディルの方を向いた。
「お母様、僕なら大丈夫です。それに、お父様の期待は裏切れません」
ディルの言葉に迷いはなかった。本当だ。漆黒の瞳の奥深くにだって曇りはない。
「ええ……ディル」
パルティアの弱々しい返事だ。
「私が本当に心配しているのは明日のことじゃない、その先のことなのよ」
パルティアは窓の外にぼんやりと見える、石肌の城を見据えた。ディルも窓から外を覗き込んだ。空は灰色の絨毯を敷き詰めたような曇り空で、森の木々が風で煽られ、葉と葉がこすれてざわめいている。パルティアの憂鬱そうな表情とディルの戸惑いの表情が、窓にうっすらと反射してこちらを見つめ返していた。
「明日からこのヴァルハート国は変わるわ……とても嫌な予感がする」
ディルは窓の外を眺めるパルティアの横顔を食い入るように見つめた。
「お母様。それはもしかして、カエマ王妃が魔女だからですか?」
パルティアが魔女・カエマを恐れている者の一人だということをディルは知っていた。大抵の大人たちは魔女を恐れていたが、純粋な子供たちは魔法の恐怖を知らない。広場や通りで大人たちの癇に障るのは、無知な子供たちが『魔女ごっこ』をしてはしゃぎ回ることだった。子供たちは絵本に出てくる魔女を知っているらしく、家から黒い布切れを持ち寄り、コウモリのような姿になって遊ぶのが最近の日課なのだ。パルティアは、魔女という言葉を耳にしただけで背筋が凍ってしまうほどの重症だ。
「カエマ王妃は素晴らしい人よ。女王の座にふさわしいのは私にだって分かる。だけど彼女は……そう、魔女。魔の力を持った人。私たちを魔法で支配する日が、いつかやって来るのかも分からないわ」
ディルはもう一度、森の中にそびえる城の尖塔一つ一つまでしっかりと見た。ディルには分からなかった。あのいずれかの尖塔にいるであろうカエマ王妃の本当の姿が。