四章 赤い帽子と黒いローブ 4
ディルが広場を出る頃には、もうすっかり白煙は消えてしまっていた。通りを歩く人々は、一体何が起こったのかと口々に囁き合っている。仮面の二人組みは、人々でごった返す通りの中に消えていったが、見失うことはなかった。仮面の一人は非常に足が遅く、心配そうに見つめ返す仮面の一人に、歩くことも出来ないと言いたげな様子だった。どうやら、カメを盗んだ仮面窃盗団は、その重量を計算に入れていなかったらしい。人々は全速力で走り抜けていく三人を寸でのところでかわし、呆気に取られた表情でその光景を見つめていた。
やがて窃盗団の二人は、天の川通りから狭い迷路のような路地へと滑り込んだ。ディルも迷うことなく路地へ足を踏み入れ、間の距離を少しずつ縮めていった。路地に人通りはなく、陽が入らないので日没時のように薄暗かったし、じめっとした空気がディルの頬をなで続けていた。
二回ほど建物の角を曲ったあたりで、ディルの体力はすでに限界だった。両足の裏から地面を蹴る感覚がなくなり、目の前の視界は先程の白煙が漂っているかのようにぼやけ始めていた。喉はカラカラに渇き、呼吸することすらも苦しくなってきた時、前を疾走する二人は建物の突き当たりを左へ旋回した。ディルは二人の曲った先が行き止まりであってくれることを願った。これ以上無理に追いかければ、呼吸難で意識を失いかねない。
差の開いてしまった距離を縮めようと、ディルが急いで左折した時、そこは本当に行き止まりだった。しかし、あまりに急な行き止まりだったので、ディルは壁のようなものに顔面からもろに突っ込んでしまい、その反動で後ろへ吹っ飛ばされてしまった。まだ意識がもうろうとしていたが、自分が冷たい石床に仰向けに倒れていることも、激突したものが壁ではなく、黒いローブを身にまとった“人”だったということも、すぐに判断できた。
ディルはくたびれてガクガクと震え続ける頼りない両足で立ち上がった。目が汗をかいたように視界がぼやけていた。そこは表通りに面した陰気な路地だった。酒瓶の入ったダンボールや、泥水の溜まった小さな桶がいくつか乱暴に投げ出されている。ディルの前からも後ろからも、表通りから漏れてくる陽光や人々の陽気な会話が聞こえてくる。
「大丈夫か? ケガはないか?」
フードに隠された顔から低いしゃがれ声がそう尋ねた時、ディルは初めて気付いた。
あの仮面の二人組みを見失ってしまった!
「僕は平気。それより、今、うさぎの仮面をかぶった、二人を見ませんでした?」
荒い息遣いのまま、ディルは祈るような視線で男を見た。男はすぐに答えた。
「さあね。知らないな」
そんなばかな。ディルは猛抗議しようとしたが、フードの中からこちらを覗くいかめしい表情にひどく面食らってしまった。
「そう……ありがとう。その二人、動物を盗んだ悪い人たちで、後を追ってたんだ」
「へえ」
男は少し前かがみになり、ディルの肩に血管の浮き出たしわしわの大きな手をそっと置いた。
「その話、もっと詳しく教えてくれないか?」
男は肩をぐいと引っ張り、ディルを強引に連れ出そうとした。ディルは反射的に抵抗し、肩にある男の手を、ハエを払う時のようにサッと払い除け、数歩後ずさりした。呼吸は落ち着き、意識もはっきりとしたところで、ディルはこのローブの大男が妙だということにやっと気付いた。
頭のつむじから足のつま先まで、真っ黒のローブ姿だなんて絶対におかしいし、二人組みの窃盗団のことだってしらを切っているのは確かだ。あの二人の仲間なのだろうか?
ディルは大男を気にしつつも、あれやこれやと考えを巡らせていたが、その必要はすぐになくなった。
「俺の名はマルコ・ポルテ。町の遊び屋だ……またどこかで会おう、少年」
大男はそれだけを言うと、表通りへ回れ右をして足早に立ち去り、道を行く人々に紛れて見えなくなった。何かに怯えて逃げて行く素振りだ。しばらく呆然と立ち尽くしていたディルが、背後に何者かの気配を感じたのはそれから束の間のことだった。まずは首を、それから体をゆっくり後方へ回しながらディルはその気配の正体を知った。
こちらに歩み寄ってくるその人は、全身が血のように真赤なドレスで覆われている。年齢は五十代ほどだろうか。深いしわの目立つ口元に冷笑を浮かべ、目が合った者を凍りつかせてしまいそうな灰色の瞳が、路地の向こう側をただまっすぐ見つめている。説明するのは難しいのだが、ディルは、この女性から逃げなければ絶対に危険だと直感した。
『あのローブの男も、この女性を見て逃げ出したんだ、きっとそうだ』
しかし、ディルは動くことが出来なかった。今逃げたら、今度は自分が追いかけられる側になると不安に思ったからだ。言い知れぬ恐怖は、女性がディルに一歩一歩近づく度に募った。心臓は大太鼓のように、低音で激しく鳴り響いている。
ディルはその場で身じろぎもせずにじっとしていたのだが、女性は脇を通り過ぎて行っただけだった。ローブの男の後を追うように表通りへ向かった以外、他は何もなかった。
とっさに、ディルは、女性とは反対の方向へ走り出し、勢いよく通りに飛び出した。ひと気の無い薄暗い路地にたたずんでいるより、一刻も早く人の大勢いる表通りに出たかったからだ。
「一体、この町はどうなってるんだ?」
ディルは忙しく行き交う人々を凝視しながらそうぼやいた。今日あった色々なことを思い出すだけで、くたくたになりそうだった。
ディルは通りを眺めた。西日に照らし出されたレンガの建築物が連なり、背の高い街灯が通りの端を縫うように立っている。ディルは、ここはどこだろうと不安になりながら、屋敷のある方角を目指して歩くことにした。古時計屋の前を通り過ぎ、世間話で盛り上がる夫人たちの脇を抜け、その先にある散髪店の角を左へ曲がった。
『あんた知らないのかい? 王妃様はずっと自分の部屋に閉じこもっているのよ。黒魔術の研究をしてるって聞いたわ』
『ああ恐ろしい。兵士のディップズが言うには、女王即位の日も近いだろうって……』
ディルは、夫人たちの立ち話から聞こえた会話の内容を思い返していた。町の住民がどうしてあのようにカエマ王妃を怖がるのか、ディルには理解できなかった。魔法を使えるなんて、とても素晴らしいことじゃないか。非難がましい偏見な目であの人を見るのは間違っている。
これこそディルの意見だった。
ディルのすぐそばを、農夫を乗せた小さな荷馬車がゆっくりと追い抜いて行った時、見覚えのある純白の車が酒場の前に駐車されているのが見えた。無言の車に寄って集って抗議しているのは、広場を行進していた演奏団で、「古き香り、古き町並み大切に」を眉間にしわの寄った険しい表情で激しく連呼している。演奏団の一人がバイオリンを使って、騒音に近い音色の曲を奏で始めたので、酒場の前はちょっとした見物人と演奏団たちとで騒々しくなった。
入り口横にある、大きなガラス窓から中を覗くと、一番奥の薄暗い席にトワメルとビトが座っているのを確認できた。酒場の外もかなりうるさいが、中はもっとどんちゃん騒ぎだった。町一番の畑主テイオに、腰抜け農夫のビリーが酔った勢いでケンカを吹っかけたのだ。周りの農夫たちが煽ったり、酒を賭けて双方を応援したりするので、中はまるで闘技場のような騒ぎだった。これでは店外の光景に気付かないのも無理はないとディルは納得した。
バイオリンのひどい音色から逃げるようにして歩き出したディルは、そこからそれほど離れていないベンチに腰掛けてトワメルを待つことに決めた。ここなら、入り口のある正面と側面が見渡せるので、置いてけぼりになることはないだろう。酒場の裏には、さっきまでディルがいたあの薄気味悪い路地がある。あの路地から漂ってくる不気味な雰囲気のおかげで、ディルの中に様々な疑問が膨らんだ。
『あの路地はここにつながっていたんだ。ということは、さっきの気味の悪いローブの男と会った場所は酒場の裏……一体そんな所で何をやっていたんだろう? やっぱり、仮面の二人と何かしらの関係が? あの二人がネズミとカメを盗んだ目的って? そういえば、シュデールさんとハムさんは大丈夫かな……あの後どうなったんだろう? それにしても、真赤なドレスの女性はもっと気味が悪かった……』
その時、ディルの左腕に走った激痛が、そんな疑問たちを一瞬でかき消してしまった。火でじわじわとあぶられるような感覚に襲われ、それが肘から手首に向かって移動しているのが分かる。痛みと焦りの入り混じった、低い小さなうなり声が喉の奥から漏れ出てくる。
ディルは歯を食いしばって痛みをこらえ、恐る恐るゆっくりと袖を捲し上げた。痛みで震える左腕には、七色に輝く文字が刻まれていた。文字は光を放っていて読みづらかったが、やがて七色の鮮やかな光沢は消え、炭のような黒く細い字体だけが残った。
すでに痛みはなく、震えも止まったが、理解し得ない恐怖心がディルの中に芽生え始めていた。路地で女性に出会った時の、あの気分とそっくり同じだ。ディルはなるべく落ち着いて、自分に言って聞かせるようにその文を読み上げた。
「オマエタチ ノ タクラミ ハ スベテ オミトオシ」
翌朝、ディルが目を覚ますと、その文字は跡形もなく消えてなくなっていた。