一章 ヴァルハート国
南海の孤島にその身を置くヴァルハート国には、昔から伝わる様々な言い伝えやおとぎ話が
たくさんある。それも他国にはない、人々を魅了する独創的なお話ばかりなので、ミュージカ
ルを公演したいという他国の劇団がたくさん名乗り出たのはそう最近の話ではない。
親たちが、中でも際立って子や孫に読み聞かせたがったのは人魚の物語に決まっていた。上
半身は人間、下半身は魚の尾ひれという姿を持つ人魚は、ヴァルハートの国では昔から親しま
れてきた空想上の生き物だ。言い伝えやおとぎ話などには、空想上の動物や生き物はなくては
ならないものだったために、ヴァルハート国の人々が人魚のような存在を信じてしまうのも無
理はなかった。
『幽霊騎士団伝説』に登場する翼の生えた空飛ぶ馬や、『冬咲く花の妖精』に登場する身長
が十センチほどのかわいらしい小人ですら、人魚ほど人々の関心を引きはしなかった。
これほど人魚という架空の生き物に思い入れをする理由の1つに、『人魚は実在する』とい
うものがあった。これまでにも、漁船の船乗りによる目撃例はいくつかあったのだが、網で捕
まえた者も、カメラにおさめた者もいないので、はっきりとした確信を誰も持てないでいた。
暖かな風が吹き始め、人々が春の兆しを感じ始めて間もない頃、東の沖に突如現れた『謎の
帆船』が注目を集めていた。海岸からでもはっきりと見えるその帆船は、全体が木造で、黒く
薄汚れた帆はピンと張っているというより、たれ下がってダラリと弱々しく、船体は所々腐っ
て黒緑色に変色し、大小の穴が開いていて、どうして浮いていられるのか不思議なほどだ。帆
船のすぐ近くには、船にも負けないくらい巨大なアーチ状の大岩があり、今にも沈没しそうな
船を支えているかのように見える。次々と押し寄せる波が船底を叩き、船体を左右に揺らすた
びに転覆してしまうのではないかと、人々は息を呑んで見守っていた。
『バロンの天舞う船』というおとぎ話に登場する、海に墜落した空飛ぶ船に違いないと言い
出す者もいた。東の海辺に集まる人たちは口々に自分の見解を言い合ったが、それも時が経つ
につれ一人二人と減っていった。ボロボロの帆船からは人影さえも見えず、元気よく動き出す
様子もなく、ただ近くを舞うカモメの羽を休めるための止まり木のような扱いになっていった
からだ。
更に時が経つにつれ、人々は『謎の帆船』を不気味がるようになっていた。白いドレスを着
た女性が立っているのを見たとか、昼夜問わず男性の叫び声が聞こえるという奇妙な噂が流れ
たせいだ。『謎の帆船』は『幽霊船』に改名され、その海辺に近づく者は誰一人いなくなって
しまった。
『幽霊船』の見物人の多くは手に職を持った、町でいう『立派な大人』の人たちだった。国
民の多くは農家で、畑で野菜を栽培したり、他国にはない珍しい野菜を作るために研究し続け
て止まない人もいる。牛や豚を食用飼育する家畜業や、ここら近海でしか捕れない珍しい魚貝
類を目当てに漁に出る者、東山の中腹にそびえるいくつもの風車を管理している者。
それに、若者の中では故郷を離れて旅立って行く者もいる。自動車製造工場で働きたくて、
海を越えた東にあるドラートラック国まで足を運ぶ者。もっと色々なパンを作りたいと、修行
を積むためにファープール国を目指した青年もいた。
ヴァルハート国はそれなりに歴史の深い、古くから存在する国の一つだ。国の最北には王様
の住んでいるお城があり、赤屋根の尖塔がいくつも突き出ていて、その先端では黄色い布地に
青い十字架の刺繍がほどこされた巨大な国旗が風にひるがえっている。石造りで所々傷だらけ
の、大きくて立派なお城は、森の木々に囲まれながら堂々と建っていた。城下町からお城に通
じる一本の林道がとてつもなく長いせいで、王様に謁見しに来る人はめったにいなかった。だ
が、王様の誕生日やお祭りの時などは例外で、花束や祝いのカード、おいしい芋酒を持った人
たちで林道はとてもにぎやかになるのだった。
城下町にはたくさんのお店が軒を連ねていて、欲しい物に不自由することなど決してなかっ
た。レンガ造りの建物がほとんどだったが、なかには杉の木で出来たおしゃれな喫茶店や、西
の大陸に広がる、砂漠地帯にその身を置く『サンドラーク国』の住居の真似をして、テント張
りの中で占いをやる者も数人いた。
城下町の西には延々と田園地帯が広がり、東には背の高い山々が連なり、南には城下町と港
をつなぐ『南ゲート』と呼ばれる大きな門があった。ゲートの見張りを行うのは、主に城に仕
える兵士たちの役目だった。ゲートの脇にある石造りの小さな見張り小屋に交代制で兵士が住
み込み、不審な人物が出入りしてはいないかとか、運ばれてきた貨物が安全なものかどうかな
どを昼夜監視している。
城下町の中央には『天の川通り』と呼ばれる大きな通りがあって、そこに店を構える競争率
が特に激しかった。住宅街からもほど近く、『十字の噴水』のある憩いの広場や『大事なお知
らせ掲示板』(先代の王様が設けた、その名の通り国に関する大事なお知らせを通知するため
の、木目の粗い大きな立て看板)もあるので、ここの通りには自然に人が足を運ぶのだ。
中でもとりわけ人気があったのは本屋だった。『天の川通り』から1ブロック離れた土地に
その本屋はあり、老夫婦と去年三十歳になった息子が、一緒に店を営んでいる。
それほど広くない店内は、まるで図書館の本や本棚がそっくりそのまま移動してきた具合に
出来上がっていた。本棚はどれも二段重ねで、天井をかすめるくらいに高かったし、そのせい
で明かりがほとんど遮られてしまい、店の中は昼夜関係なく薄暗かった。店主である老夫婦は
共に人柄がよく、会話好きなのでよく客達と話が弾んだ。
老夫婦が決まって最初に口にするのは、我が子の嫁探しのことに定着していた。ヴァルハー
ト国では、二十代での結婚はまだ身を固めるには早すぎると言われていたため、母親も父親
も、三十路を迎えたばかりの息子の嫁を探し出すのに余念がないというわけだ。仕事を持ち、
ある程度の財を築けるくらいにならないと、順風満帆な生活を送る事は出来ないと古くから教
えられてきたのだ。
ヴァルハートの国民は、他国民から見れば異常と思われるほど本に対する執着心が強かっ
た。『書物は世代を渡る家宝』とまで言われるくらい、大切にされ、読み継がれていくのはど
の本にしても当然の運命であるといえる。本をゴミ箱に放り込んだり、もしくは、まき代わり
として暖炉の火にくべようものなら、そいつを処刑すべきだと言い立てる者もいるに違いな
い。
歌や音楽のレコードを扱う店もなかなか繁盛した。ラジオやテレビの無いこの世界では、歌
や音楽などの娯楽は手軽だし、仕事にも身が入ると豪語する者も少なくはなかった。
ヴァルハート国の音楽家といえば、『シルヴァ』という女性歌手が他国で活躍しているのは
国中で有名なことだ。町で一番にぎやかな酒場のバーテンを勤めるワースは、店内に流れるシ
ルヴァの歌を聞いて、故郷のおふくろを思い出すんだよなあ、と目頭を熱くして鼻をすすっ
た。そんなこともあってか、ワースによる“シルヴァびいき”は筋金入りで、他の追随を許さ
なかった。
シルヴァは十八歳で『レーインクァ』という国に独り立ちし、そこで劇的な歌手デビューを
果たした女性だ。それもかれこれ七年も前の話になる。
ヴァルハート国から他国に渡るには船を使うしかない。最近では、定期船は料金が高すぎる
からとファープールからの貿易船に低価格で乗せてもらう者も現れるようになった。最南端に
ある港にはいつもたくさんの木造船が停泊しているが、どれも年代物のオンボロ旧型船で、ス
ピードもパワーもどこか物足りず、乗らされる側にとってはまさに手ごきボートに尻を据える
ようなものだった。
月に数回『ドラートラック国』の鋼鉄製の大型船が燃料・食糧補給に立ち寄る事がある。そ
の数時間の間、町の男たちはどこから聞きつけたのか、その巨大な黒い船体を一目見ようと港
にこぞって集まってくる。白と青のセーラー服を着込んだ船員に握手を求めたり、酒を勧めて
最近の戦況を聞こうとしたり、写真を撮ろうとカメラを構える者もいた。ドラートラック国は
ファープール国よりも更に強大で、軍事力も世界一と称されるほどの大国なのだ。
また、自動車を製造する国の一つでもある。ドラートラック国が一年ほど前から生産を始め
た『レウレウ』という車が、新聞などにも大題的に取り上げられたのは有名な話しだ。鉄製の
タイヤは直径が一メートルもあり、椅子や天蓋に用いる布地や木材なども世界中から取り寄せ
た高価な素材であしらわれている。今までになかった新しい型と、パワフルな六気筒エンジン
が注目を集めたのだ。お金に余裕のある貴族たちですらなかなか手の出せない高価な代物であ
る。
『幽霊船』の一件から数週間が過ぎ、人々の間からうっすらとその記憶も薄れかけていた
頃、ヴァルハート国を統治するロアファン王が行方不明になるという、ヴァルハート建国以来
の大事件が発生した。
ロアファン王は四十三代目の王様で、歳は今年で四十七を数える、まだ若人の面影の残る男
だった。彼には『経験』『信頼』『決断力』など、ほぼ全ての面で欠けていて、まだまだ若す
ぎるという声も上がっていた。先代の王が病により早くに亡くなられ、次期王として決まって
いたロアファンが即位したのだ。
国民は『王様行方不明事件』のことを噴水広場の掲示板に貼られた、贅沢な羊皮紙に黒のイ
ンクで書かれた文字でしっかりと確認した。『〜カエマ王妃からの重大な報告〜』から始まる
文章は、脇を通り過ぎる犬の散歩途中の老夫婦や、買い物帰りの夫人たちの視線を釘付けにし
た。
これによるとロアファン王は、一年に一度ファープール国で開かれる会食へ出席し、その帰
り道に行方が知れなくなったのだという。ファープール国はヴァルハート国より何倍も大きい
領土と人口を持つ、世界でも有数の大国だ。
城下町の人々は口々に囁き、噂し、話しの尾ひれに色々くっつけて盛り立てた。
「イノシシに馬車ごと襲われた」とか「その後クマにも襲われて食われちまった」だとか。
中には、森でひっそりと暮らす魔女『ファッグレモン』にまじないの実験に使う大とかげに化
かされたと言いだす者もいた。
終いには「ファープールの奴らが襲ったに違いない。この国を配下に置くつもりだ」と主張
する者もいたが、これにはみんな賛同しなかった。「カエマ王妃を前にそんなことできっこな
いよ。誰もおっかなくて近づけないんだから」というのが反論派の意見だった。
ロアファン王の妻であり、王妃であるカエマは『魔女』である。何者にも厳しく誠実であ
り、知らないことなど無いのでは? というくらい知的で賢才だった。しかし、『魔法使い』
『魔女』などという魔の力を備える者は、昔からひどく恐れられてきた存在だった。
魔女や魔法という言葉はおとぎ話や逸話、神話にもよく出てくるものなのだが、やはりその
中でも忌み嫌われていたものに違いはなかった。だがそれは、全て人々の偏見でしかなかっ
た。そういった魔の力を持った者たちは決して魔法を乱暴に扱ったりはしなかった。極めて穏
やかに、“普通”の人間たち同様、何ら変わりない生活を送ってきたのだ。
魔法使いや魔女の数はごくわずかで、起原や歴史もまだあまり知られてはいない。魔力を持
つ者は世界中にいるとされるが、ヴァルハート国ほど魔法を嫌う国は他にないだろう。
国民は皆、その未知の恐ろしい力に日々怯えているのだ。
魔女カエマの存在が、人々の記憶の中に焼き付けられたその瞬間から、この“おとぎ話”は始まっていた。
初めまして、南の二等星です。
この作品は二年前に僕が書いたもので、この場をお借りして掲載させてもらいました。
姉妹編として制作した作品「空へ、未来へ」も掲載しましたので、時間があればそちらの方もどうぞ。どちらから読んでも楽しめる内容になっています。
長編作品ですが、すべて読んでもらえれば嬉しい限りです。