桜の花弁
今回は少し緋瀬未来のストーリーを少し紹介する番外編です。
奇跡というものは案外起こるものだ、と緋瀬未来は思う。
今日は入学式で、自分は引っ越したばかりで、絶対的に憂鬱だった。小学三年生になるまでいた街とはいえ、小学校の頃一緒に遊んでいた女の子たちは、この学園に入学できない「NOR」だった。そもそも人見知りで臆病で舌足らずな性格の自分は友人が何人もいるようなタイプでもない。嫌気がさすような引っ込み思案の自分が、小学三年生から中学卒業までの六年間、なんとか当たり障りのない友達もいて、それなりに楽しかった《第三学区》の生活から離れなくてはならないと知った時、そして戻ってきた《第十二学区》には同じ学校に行く女の子の友達が一人もいないと知った時、未来は一つだけ淡い期待をした。
緒多悠十。
もう二度と会うことなどないはずの、初めてできた異性の友達であり、幼い未来を救ってくれた恩人であり、そして大切な「約束」をした初恋の相手。
もしかしたら。何かの間違いで。彼がこの学校に入学していたら。こんな絶対的憂鬱だって消しとばしてくれるだろうに。そんなこと、あるわけないのだけど。だって彼は――。
そう思っていたのに。あの大量の名前が書かれた電子掲示板に彼の名前を見つけた。見間違えようがなかった。私は子供の時から物覚だけはよかった。どんな分厚い本だって一回読めば理解はできなくとも一字一句間違えずに暗唱できるし、道行く人の顔だって覚えている。何月何日に何が起こったかも覚えている。そしてそうした記憶は何があろうと忘れることはできなかった。
「超記憶症候群」。それが未来の持っている症状の名前だ。原因は不明、処置法も不明。この病気のせいで未来はどんなに辛い記憶も忘れることはできない。でもこの病気のおかげで彼のことを忘れずにいたとも言える。他人からすれば気味が悪いのだろうと思い、友人に隠し続けたこの病気が初めてあってよかったと未来は思った。
彼が彼女を救ってくれた、大切な記憶を。
* * * * *
他人とは異なる特徴を持つということは、生き方の工夫を強いられる。幼い子供がそんなことを悟ることができることなどそうそうない。未来も幼い頃、それを知らなかった。それを知らないことが自然なのであり、そう思わせることがいいことであるわけもない。でもどんな人間、いや、生きとし生けるもの全てが自らの本質に素直に生きられる世界というのは、絵空事、綺麗事にしかなり得ない。
未来も特異な症状を持って生まれた。どんなことも記憶し、そしてそれを忘れることができないという「特徴」。それを「病」と呼ぶのか、「能力」と言うのか、そんなことは関係のないことだ。ここにおいて大切なのは彼女が他人とは異なる特徴を持つということなのだから。
そして特異な点を持つ者を攻撃し、痛ぶり、締め上げてしまうのは、何か凶悪な悪役のようなものではなく、平和を願っているような善良で無知な大人と、純粋無垢で残酷な子供なのである。
隠されることのない「異常」はすぐに見つかる。きっかけは些細なこと。未来が公園で遊んでいる時、一緒に遊んでいる子供が言った。
「未来ちゃんって何でも覚えてるよね! ヘンなの!」
そしてその子供は親にこういうのである。
「ねぇねぇママ! 未来ちゃんってねヘンなの! 葉っぱの数全部覚えてるんだって!」
そうしてその母親はまた違う母親にヒソヒソ声で言うのである。
「山口さん、聞きました? 緋瀬さんの所のお子さんね、サヴァン症候群なんですって」
「そうなの? サヴァン症候群ってことは発達障害とかあ
るのかしら?」
「いや、私詳しくないから分からないんだけどね? でも緋瀬さんが隠してるのかもしれないわね」
人の話は不明確なまま、歪んでいく。歪みに歪みが重なってもう原型すら分からない形に変わり、歪みから生じた鋭さが最後、子供のその純粋無垢さゆえの残酷さにより、ナイフへとなり傷つけるのだ。
「未来ちゃんってビョウキなんでしょ? ママがビョウキの人にはそっとしておいてあげなさいって言ってたから、違うところで遊んでて!」
実に単純、チープな構造だ。こうして緋瀬未来という少女は他人との距離が極端に遠い子供になっていった。
小学校の入学式の日、彼女は母親に連れられ、うつむき加減で歩いていた。体育館に着くと上級生が新入生を椅子へと誘導し、保護者は保護者席へ向かうことになっていた。母親の手を離すのを不安そうにする未来に、母親は優しく頭を撫でてから手を離し、微笑みながら手を振った。未来は諦めたように手を離すと、今度は「しのはら」というネームプレートを提げた、おさげの上級生の手に引かれ、他の生徒たちがいる席に向かっていった。
「じゃあ緋瀬さんはこの席だから、静かに座って待っててね」
そう言ってその上級生は未来の服に「あかせみき」と書かれた名札を安全ピンで止めると先ほどの窓口の方へと歩いていった。それをぼうっと眺めていると、未来はどうすればいいか分からなくなり、目に涙が溜まり始めた。
「……ぁ」
「なぁ」
「なぁってば!」
いきなり後ろから大きい声が聞こえて振り返ると黒髪の男の子がイラついたような顔でこちらを見ていた。
「ふあ、は、はい!?」
怯えと驚きで声がひっくり返った未来は体を硬直させながらその男の子を見た。黒い瞳に何か強さのようなものが宿っているように見えた。それは目力とかそういうものではなく、ずっと見ているとこちらの心が見透かされるような、静謐で透明な、「しなやかさ」のようなものだった。
「頭」
その男の子は男の子自身の頭を指差し短く言った。
「?」
未来は何を意味してるのか分からず、首を傾げた。するとまた余計にイラついたような表情を見せた。
「ひっ!」
怒りのピークに近づいている男の子とは対照的に怯えのピークが間近の未来は引きつった声を出して、両の瞳に溜まった涙はもう溢れんばかりになった。
「あぁ、もうめんどくせー!」
男の子は小さく叫びながら未来の頭に手を伸ばした。未来はぶたれるかと思い、思いっきり目をつぶって身構えた。その弾みに溜まった涙が頬をつたって落ちた。しかし思ったような衝撃はなく、男の子の指が未来の頭から何かを摘み上げた。
「これが付いてたんだよ」
男の子はぶっきらぼうにそれを見せた。桜の花びらだった。たった一枚。それでも男の子の手のひらに乗ったその花弁は窓から入ってくる日の光に照らされた異様に美しく見えた。
「え、えっと、ありがとう……」
ぶたれなくてよかった、という安堵と、あまりに桜の花弁が美しかったのとで、未来は頬が涙で濡れていることを忘れお礼を言った。
「いいから、頬っぺた拭けよ。俺が泣かせたみたいになるだろ?」
「あ、う、うん」
ゴシゴシと未来が頬を服で擦っていると男の子は少し迷ってから躊躇いがちに言った。
「名前は?」
「え?」
「だーかーらー! 名前はなんだって言ってんだよ!」
「は、は、はい! ごめんなさいぃぃ! ……緋瀬未来です」
「一回で理解しろよ、全く。俺は緒多悠十」
そこまで言って急に言葉が止まる悠十はやや赤くなっていた。
「その……同じクラスだし、お前が友達欲しいって言うなら、俺が友達になってやらんでもない」
「む、無理です!」
「は……はぁ!?」
「だ、だって私は……その、ビョウキっていうか、その、変っていうか……だから嫌われちゃうから……だから……」
未来は自分の言葉に情けなさを感じ、そして拭ったはずの瞳には涙が再び溜まり始めた。涙が見られないように下を向いた。すると後頭部に鋭い痛みが走った。
「いっ!?」
痛みで顔をあげると、悠十がチョップした右手を見せびらかすようにぶらぶらさせながら呆れた顔をしていた。
「嫌うか嫌わないかは俺が決めんだよ、ていうか俺も変だし」
「そうなの?」
「おう、聞きたいか?」
「き、聞きたい……」
「じゃあお前が俺の友達になったら教えてやるよ」
いたずらっぽく笑った悠十に未来は心のしこりみたいなものがほぐれていくのを感じた。そして、小さく頷いた。
* * * * *
あの日悠十に出会って、あの日悠十の友達なったからこそ、今の自分があるのだ。
そして二人で過ごした日々が今の未来を支えているのだ。
だから彼は彼女にとって、ヒーローだった。悪者をやっつけるわけでも、何かに変身するわけでもなくても。
未来は篠原先生の講義を聞きながら、隣にいる悠十を見た。小学二年生の頃の悠十と比べて、背が伸び、肩幅が広くなった悠十と思い出を語り合えたなら。
それはとても些細で、美しい時間なのだろう。いつかの桜の花弁のように。
どうもkonです。
今回は番外編を掲載させていただきました。未来の生い立ちと悠十と出会ったシーンと言うことで、未来の人物像というか、そういうものをお伝えできればと思い書きました。
まだまだ開示していない設定等がありますが、話の展開と共に明らかにしていきたいと思っていますので、お付き合いください。
また作中サヴァン症候群についての言及がございますが作者は特にサヴァン症候群の方に差別意識を持っているわけではございません。ご不快に思われる方がございましたら、大変申し訳ございません。
次回からは再び本編に戻りまして、物語を進めていく予定ですので、どうぞお楽しみに。