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第5章第3話です。
ブクマ、コメント等よろしくお願いいたします。
――ここに閉じ込められてから、どれほどの時間が経っただろうか。
未来はなんとか記憶を辿ろうとしてみるが、自分が一番最後に見た時刻が思い出せない。
思い出せない。
その忘却という現象は本来特殊なことではない。それは人間の体が自らを守るために備えた性質の一部であり、損傷などにより一度に大量の記憶を失う場合を除いては、むしろ必要なことだと言える。
しかしながら、この黒髪と赤眼を持つ緋瀬未来という少女に限って言えば、それは不自然なことであった。
少女は記憶を失うことがない。
否。
少女は記憶を失うことが「でき」ない。
それは一種の呪縛ではあったけれど、一種の災厄ではあったけれど、それでもなお、未来はただ一つ、忘れないでよかったと思うことがあった。もちろんそんな能力なしでそのことを覚えていられたならそれはそれ以上嬉しいことはないのだが、しかし、多くは求めまい。
――緒多悠十との思い出。
彼は自分のことを忘れてしまっているようだったが、世界は彼のことを忘れてしまっているようだが、しかし未来は悠十のことを忘れたことなど一度もない。
本来持ち合わせている記憶能力が失われ、長時間の監禁で疲弊が体の底に沈殿しているような気さえする状態であっても、はっきりと覚えている。
未来は静かに目を閉じる。そして未来の脳に刻まれた、悠十との思い出を瞼の裏に投影する。フィルムがスクリーンに投影されるように。
*****
その日は手先もかじかむほど、体も凍るほど、寒い日だった。
そんな凍えるような日に当時小学一年生だった未来は白い息を吐きながら、一人の黒髪の少年を追いかけていた。
彼は足が速い。そして、いつまでも走り続けた。そういう力みたいなものをその身に宿していた。
その力は単純に瞬発力とか持久力といったフィジカルな言葉に言い換えてしまうと、どうも違うような気がした。
彼のそういう強さは同じ年頃の他の少年少女にはあまり感じられないものだった。
彼の名は、緒多悠十。
彼と出会ってから約一年が経とうとしている。そしてその一年の中で未来は彼のある意味特殊な強さに触れた。
そのせいだろうか。
緋瀬未来は緒多悠十に恋をしていた。
こうしてはっきりと書いてしまうと、どうも大仰に聞こえてしまう。いささかあっさりとしてしまう気もする。
けれどもこれ以上どんな語を付け加えても、
あるいはこれ以上どんな語を取り除いても、
当時小学一年生の緋瀬未来という少女の緒多悠十に対する心情を端的かつ正確に伝える文章は作れない。
しかし、その時の未来にはその感情が恋と呼ばれるものだということぐらいのことは認識していたのだけれど、かと言ってそれをどうすればいいのか、ということまではよく分かっていなかったのかもしれない。
だからこそ、結局最後の最後まで思いを伝えられなかったのだけれど。
「未来! 何やってるんだよ!? 早く来ないと置いていくぞ!」
「あうう……ちょ、ちょっと待ってよ、悠十くん!」
いつの間にか十メートルほど前を走っていた悠十が立ち止まり、振り返って叫んだ。
二人が向かっているのは、小学生時代の未来と悠十が放課後の時間の大半を費やした、いわゆる「思い出の場所」だった。
二人が通っていた小学校から歩いて約十五分という距離を、二人はほぼ毎日通い続けた。
そしてその凍えるような日もまた二人はそこに「変わらず」に向かっていたのだった。
未来と悠十が立ち止まったのは古びた時計屋の前だった。
五六時計店。
悠十はつま先立ちになってドアノブを回すと、何のためらいもなくドアを押した。
「こんちわー」
「こ、こんにちわ……」
二人が挨拶すると、店の奥の方で何やら修理をしているらしい五〇歳ぐらいに見える店の主人が顔をあげて小学生二人を見た。
しかし主人はそれに応えるでも微笑むでもなく再び作業に戻った。だが未来も悠十も今さらそれに驚きも怖がりもしない。
ここの店主は無愛想ではあるけれど、無慈悲ではないのだ。ニコリともしないが、嫌な顔もしないで二人がここに入り浸っているのを許容しているのである。
逆に言うと、未来と悠十以外の小学生はここに寄りつかない。
ここには最新のゲームもなければ、安価なお菓子が売っているわけでもない。
あるものと言えば、いくつもの時計と、本棚いっぱいに入った小難しい本と、無愛想な店主くらいのものだ。
それゆえ「普通の」小学生はこの時計屋に立ち寄ることなどない。逆に言えば、この時計屋へ毎日のように通っている未来と悠十はそれぞれ、ある意味で「普通の」小学生ではなかったのである。
未来は昔から持ち合わせている異常なまでの記憶能力のせいで、他人との距離の取り方がすっかり遠くなってしまっていた。
忘れられない、というのは恐ろしいもので、彼女が幼少期に受けた好奇、珍奇の目は未だに彼女を怯えさせていた。
下手に関われば、悪意的な注目に晒されることをこの頃の未来には痛いほど分かっていたから。
それにそんな状況に置かれている未来と周りにいる他の同級生達の感性には、個人差というレベルではないほどの差が生まれてしまっていたので、そんな友人達との会話は未来を疲弊させてしまう。
ゆえに未来は他人との距離を、それこそ必要以上に取るようになってしまったわけである。
そんな未来は店内に入ると、端に並べられた小さなテーブルの一つに鞄を置き、見るからに小難しい本がぎっしり詰まった本棚へと駆け寄る。
本来なら、一小学生が読むようなレベルの本ではないのだが、未来はその記憶力の副産物として、かなりハイレベルな語彙を持ち合わせていたので、これらの黴くさい本すら読了できてしまうのだった。
もっとも、好奇と珍奇の目を恐れていた未来がその語彙力を他人に見せびらかすような真似をするわけがなく、それゆえそれを知る者はほとんどいなかった。
未来は踏み台に登って上の方にあった臙脂色の装丁の本を引き抜いた。
そして鞄を置いたテーブルに戻るとそれを開いて早速読み始めようと表紙を開いた。
と、その時、カチャンと陶器が触れ合う音が聞こえる。
未来が顔を上げると、そこには湯気立つ紅茶がなみなみと注がれた白いティーカップが置かれていた。
これを置いたのが誰かなんてことは見なくても聞かなくても分かる。
無愛想だが無慈悲ではないこの五六時計店の店主は毎日のように通ってくる未来達に必ず一杯の紅茶を出す。
それはいつもホットで、ストレートで、かつ一杯こっきりの紅茶だった。
アイスだったことは一度だってない。ミルクティーやレモンティー、ましてやピーチティーだったことはない。コーヒーやオレンジジュースだったこともない。おかわりがあったこともなければ、出されなかったこともない。
いつだってここの店主は同じように一杯の湯気立つ紅茶を一杯だけ出すのだ。
店主はどこにでもいそうで、何かに寄るわけでもなく、そしてずっと変わらないように思える。
普遍で不偏で不変な店主が営むこの店は未来にとって居心地のいい場所でもあった。
未来は目の前のティーカップを両手でゆっくりと持つと、ちびちびと猫のように――まぁ実際に猫舌であったけれど――飲んだ。
ほう、と思わず吐息を漏らしながら、それとなく未来は首をひねり、腰をひねり、後ろを見た。
視線の先には悠十がいた。悠十を見ようと思って後ろを向いたのだから当たり前なのだけれど。
店の間取りとして、若干出っ張ったようになっている場所に悠十は座っていた。
その場所は周りに掛時計やら、腕時計やら、置時計やらがぐるりと囲むように配されており、小さな窓から僅かに光が差し込んでいるのもあってか、随分と絵になるのであった。
そして悠十はこの時計店に来ると必ずそこに行くのだった。
中央にちょこんと置かれた椅子に逆向きに座り、店主から渡されたティーポットを持ったまま時針と分針と秒針をそれぞれのペースで動かし、カチカチという心拍を響かせるのを、ただ悠十は静かに、身じろぎもせずに、見続け、聴き続ける。
悠十の中にはある種の人格という物が存在するのだと言っていた。
しかし、その《存在》は悠十の中に棲みつきはしているけれど、かと言って、未来にとっての記憶力のように外的にこれといって何かをもたらすわけでもないのだそうだ。
ただそこにいるだけ。強いて言えば、悠十の中で、悠十はその《存在》と語らうのだと言う。
その語らう内容もさして劇的でもなければ、運命的でもないらしい。
本当に平凡なことを語り合う。
その語らいの中で、その《存在》は自分は時計が好きなのだ、と言ったという。
ゆえに悠十は毎日のように、足繁くこの五六時計店に通っているのだ。
自分の中に住まう、その《存在》に、未来には見ることも聞くことも触れることも叶わないが、確かに存在しているというその《存在》にこの数多の時計達を見せるためだけに。
しかし、それもまた、「普通の」小学生からすれば、異常なことなのであった。
悠十としても自分だけにそんな《存在》がいるということが、あるいは自分以外の人間にはそのような《存在》などいないのだということがある種違和感だったのだろうか。
悠十もまた、他人との距離が遠い人物だったのである。
未来のように嫌な記憶がリフレインされてはいないがゆえに、未来のような内気さこそ持っていないが、むしろ冒頭にも述べたようにある種の力を持っているのだが、それと彼が自分の異常さゆえに他人と距離を取ることは別問題である。
未来と悠十が出会ったあの入学式の日、悠十がわざわざ未来に声をかけてきたのかというのは、同じような距離感を持つことを悠十が直感的に感じ取ったからなのかもしれない、と未来は推察する。
二人は距離感を長くとる癖はあるけれど、別に孤独を好んでいるわけでもなかったわけである。
――だ、だって私は……その、ビョウキっていうか、その、変っていうか……だから嫌われちゃうから……だから……。
――嫌うか嫌わないかは俺が決めんだよ、ていうか俺も変だし。
この会話のおかげで未来と悠十は友人となったのであり、同時に孤独ではなくなったのだ。
二人は同じ問題を抱えているわけではなくても、同じ孤独を抱えていたからこそ、互いに必要としているところはあると思われる。
未来が悠十に抱くような恋心を、悠十が未来に抱いているわけではないかもしれないけれど。
そんな風にして、これからもこんな風に続いていくのだと、未来は思っていた。
どうもkonです。
前の更新からだいぶ経ってしまっていますが、よろしくお願いします。
次回ももう少しだけ未来の回想が続きます。
では次回もお楽しみに!




