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第3章第8話です。
ブクマ、コメント等よろしくお願いします。
「それは、え~っと、《世界樹の鍵》、でいいのかな~?」
香子はオレの見せた鍵をしげしげと眺めながら言った。
「はい。今はオレの瞳の中にあったこの結晶を取り出すために変形していますけど」
「それで~、この鍵がどうしたのかな~?」
「この鍵は『万物を開く』鍵です。つまり考え方によっては蘇芳の心も『開ける』、ということになると思うんです。これを使ってオレが、蘇芳の心の中、言ってしまえば精神世界みたいなものですけど、そこに行って話をしてきます」
香子はオレがあまりに断定した口調に諦めたのか、「ふい~」と可愛らしく溜め息をついた。
「分かったよ~。ゆうくんがそこまではっきり決めてるなら香子さんはもう止めないよ~。ゆうくんがその精神世界? というやつに行っている間、香子さんはゆうくんと怜ちゃんの身体を守っていればいいのかな~?」
「はい。よろしくお願いします」
オレはブレザーを脱いで蘇芳の体にかけた。オレが着ているのはびりびりで血まみれになったズボンとYシャツのみとなったけれど、蘇芳が目覚めた時に真っ裸でいるよりずっとましだろう。
「じゃあ行ってきます」
オレは香子に少し微笑みを見せてから、鍵を握った。大丈夫。これが何であるか、どのように扱えばいいか直感で理解できる。鍵がブレードの部分を自ら変化させ、持ち手の部分もデザインが改変されていく。そして数秒で銀色の小さな鍵は銅色の鍵へと変化した。これが、蘇芳の心へと続く鍵、ということなのだろう。
ゆっくりと蘇芳の胸あたりに鍵をあてがうと、何の抵抗もなく、鍵が蘇芳の体に差し込まれる。そしてオレがその鍵を回転させた途端、オレの意識はブラックアウトし、蘇芳怜という少女の中に飲み込まれていった。
* * * * *
そこは蘇芳の家だった。あの日勉強会をするために行った、がらんとした印象を受ける物が極端に少ないアパートの一室。オレは部屋の中心にあるテーブルに据えられた椅子に座っていた。
そして向かいの二つの椅子についているのは二人の怜だった。片方は一番最初に見た時のように髪をワックスで固めてボーイッシュな雰囲気を醸し出している蘇芳であり、もう一方は髪を立てずに下しており、いつか見たシャワーから出てきた時に見えた女の子らしい蘇芳であった。
「え、えっとどっちも蘇芳怜、なんだよな?」
「……そう。オリジナルとしての人格である僕も」
女の子らしい蘇芳が答える。
「……《分離実験》の一工程としてビルドされた人格である僕も」
ボーイッシュな蘇芳も答えた。
「なんか呼び分けた方がいいかな? オレも頭の中ごっちゃになりそうで」
「……実験中、オリジナルの人格を紅茶、ビルドされた人格をオレンジと呼んでいた」
蘇芳、いや、オレンジが答えた。
「なんか意味があるのか?」
「……ただ、それぞれのユーザーカラーを表しているに過ぎないよ」
紅茶が静かに答える。
「……それで、緒多君はここに何をしに来たの? ……見ての通り僕たちはほぼ切り離しが終わっている……記憶の消去は途中だったけれど……僕は諦めた。……僕はこの状況を受け止める」
紅茶は淡々と続けて言った。
「諦めたって……。そんなこと言うなよ。もう実験は続けなくてもいいんだ。研究長の能美はすぐに警察に突き出すし、もしかしたら御縞学院だってやめられる。今からだって人格を統合することはできるかもしれないんだ」
「……実験をやめて……どうするの……人格を統合して……どうするの?」
紅茶の問い返しにオレは言葉を詰まらせる。そして紅茶はさらに言葉を続ける。
「……御縞学院に残れば、特待生の奨学金がもらえる……実験に参加すれば、報酬がもらえる……僕が我慢すれば僕と母さんはお金に困らず生きていけるんだ……それに……この生まれてしまった人格をもう消すことなんてできないよ……きっと母さんはむしろオレンジ……いや、兄さんの方がいいに決まっているんだ……母さんはずっと兄さんを産めなかったことを後悔していた……。兄さんが生まれてこれなかったから、父さんは家族を見捨てた……つまり、僕一人じゃあ家族を繋ぎとめるほどの理由にならなかったってことなんだよ……」
オレは俯き加減でぽつりぽつりと話す紅茶の言葉が途切れたのと同時に椅子を立った。
「もう言いたいことは全部言ったか? 蘇芳怜」
「……え?」
紅茶は急に立ち上がったオレを訝しげに見た。
「言いたいことはそれだけかって聞いたんだよ。もしお前が思っていることがそれだけなら、オレはお前に反論する。だから言いたいことは今全部言え」
「……これだけの理由があれば、諦めるのに十分だと思うけど?」
紅茶はそう言った。蘇芳の心を救う。香子にはあんなにはっきりと言ったけれど、本当にそんなことができるか分からない。こんな記憶喪失の男が吐く言葉が人様の人生を変えうるのか、甚だ疑問でさえある。だが、それでも緋瀬が言ったように、オレは「自分のできること」を探して、こうすべきだと感じたのだ。そこに合理的な理屈なんてない。十分な可能性なんてない。それでもオレは命を懸けて言葉を紡ぐのだ。
「分かった。じゃあオレの言葉を聞いてくれ。まず最初にオレの結論として、お前の諦めるなんて選択は間違ってるよ。実験を許容していいはずがない。お金が手に入るから? お前の母さんがそんなこと喜ぶと思ったのかよ。確かにお前の母さんは実験に参加させようとした。それは事実かもしれない。でもそれは家計を楽にしようと思ったからなのか? 違うだろ。お前がMERとしてもっと幸せになって欲しいと思ったからじゃないのかよ。お前が幸せになることを信じて実験に参加させたんじゃないのかよ。でもその実験は夢の実験なんかじゃなく、偽物だったんだ。能美という男が作り出した、詐欺という名のなんの誠実さもない偽物の実験だったんだよ。もしあいつが本気でお前が《複数色者》になって、幸せになることを望んでいて、その上で必要な実験だったとしたら、それでもこんな方法間違っていたと思うけど、他の方法を目指すこともできたかもしれない。だけどその幸せを願う気持ちまで嘘だったんだよ。だからこの実験を続ける意味なんてもうないんだ」
「……でも、でも、もうここまでビルドが完成された人格を消すことなんて……それにこの新しく形成された人格の方が、きっと母さんは好きになれるんだよ……だから、消すなら僕の方を……」
紅茶は体を硬直させながら、縮こまるように言った。
「逃げるんじゃねぇよ! 蘇芳怜!」
オレは叫んだ。蘇芳の心に届くように。蘇芳が張り巡らせた心の壁を打ち砕くように。
「お前は結局、間違った現状を否定して打破しようとするのではなく、辛い現実から目を背けているんだけなんだよ。オレもそうだった。今だってそうなりそうだ。だけどダメなんだよ。そんなことしてたら、見えるものも見えない。手に入れられるものも手に入れられない。守れるものも守れない。確かにお前の母さんはお前の兄にあたる人を、言うなれば、そこに座っているオレンジを産めなかったことを後悔していたかもしれない。父さんはそのことで家族を捨てたのかもしれない。だけど、それは当たり前のことだったのか? 後悔し続けることや家族から逃げ出すことは正しいことだったのか? オレは違うと思う。お前の母さんも父さんも踏みとどまれたかもしれない。もっといい方法があったかもしれない。だけどそれができなかった。人間だから、弱いところがある。失敗することがある。だけど、その失敗をお前がなんで全部背負おうとするんだ。お前までその失敗に引きずられて、自分自身で生きることを諦めちゃダメなんだよ。自分自身で生きる辛さを誰かに預けちゃダメなんだよ」
「……だって……だって、僕は必要のない存在だから、兄さんさえいれば、母さんも父さんも……!!」
紅茶は頭を抱えるようにしてしぼりだすように声を出した。
「それはお前の兄さんが一番否定していることだと、オレは思う」
「……え?」
そう言って紅茶はオレンジを見た。オレンジは少し悲しそうな顔をして、それでもその瞳には温かい光を湛えていた。
「オレはさ、一度記憶を失っているし、そのうえ、一度世界中の記憶と記録から抹消されたんだ」
「……世界中の記憶と記録から抹消……?」
「あぁ。平たく言えば、世界から忘れられたってことだ。だから、オレは誰かに覚えててもらえることの尊さは知っているつもりだ。だからきっと、お前の兄さんはお前や母さんに覚えててもらえていることを誇りに思っていると思う。だけどさ、だからこそ、お前がそうやって自分を犠牲にするような真似はしてほしくないって願ってると思うんだ。オレには血のつながりはないかもしれないけど、居候させてもらってる年下の家族がいるんだ。兄貴ってのはそういう風に思うはずなんだ」
オレはゆっくりと手を差し出す。
「だからさ、帰ろうぜ。あの世界に。あの学園に。今度こそはちゃんと無視しないでくれよ?」
初めて蘇芳と出会ったあの日、オレの差し出した手を握り返すことはしなかった。きっとあの時には既にもう実験は始まっていて、心が壊れてしまいそうになっていたのだろう。もっと早く気づいてあげられれば良かった。でも今からでも遅くはないはずだ。まだ、蘇芳怜というこの一人の少女を救うには間に合うはずだ。
紅茶は視線を落として、自身の手を見つめた。だが、怯えたように震えながら、動かない。
その時、さっきから黙ったままのオレンジが不意に紅茶の手をそっと優しくとった。それは幼い妹に鉛筆書きを教えている兄のようにも見えた。オレンジは紅茶の手をゆっくりと動かし、そしてオレの手に触れさせた。僅かではあるが、確かに蘇芳の体温が伝わってくる。
「……冷たいんだな、蘇芳の手」
「…………」
紅茶は黙したままだった。するとオレンジが口を開く。
「……僕は、彼女の人格から切り離されたばかりの人格です。……彼女がもう少し落ち着けば、じき消滅します。……でも、緒多君には彼女を守ってもらえると信じています。……よろしくお願いします」
「ああ。次にまた蘇芳が何かに巻き込まれた時も必ず駆けつける。約束するよ」
オレはオレンジ、いや蘇芳の兄にそう言って頷いてみせた。
「ありがとう」
彼がそう言ったのと同時に蘇芳の精神世界はまぶしい光に包まれていった。手に触れた蘇芳の低い体温を感じながら。
どうもkonです。
今回は会話、というか悠十の言葉が大部分を占めるという展開になりました。
少しでも読者の方に蘇芳を助けようとする悠十の必死さ、オレンジと呼ばれる蘇芳の別人格の温かさみたいなものを伝えられたらなぁと思います。
第3章はあと2話で完結となる予定ですが、物語が収束しつつも、次の物語につながるような展開にしていきたいと思っていますので、ぜひお付き合いください。
では次回もお楽しみに!




