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第1話の続きです
オレこと緒多悠十は正直に言って一般的とは言い難い状況下にあった。
第一にオレには未来を見ることができた。先ほどのように何秒か先の未来を先んじて経験し、未来を変えることもできる。ただしそれは無償というわけにもいかないものだった。未来を見るためにはそれ相応の《記憶》という代価が必要であった。未来を得るために過去を捨てる。そういう取引なのだ。そしてそこで失われた記憶が戻ることはない。もし、その記憶の中に含まれる情報が何らかの物的証拠として残っていればもう一度その証拠から情報を得ることは可能であるが、その情報を得たときの状況などをそのままの記憶として取り戻すことはできない。さらに厄介なことにどの記憶を失うかどうかという決定権はオレの管理下に置かれていない上、先ほどのようにオレの同意なしに能力が行使されるという始末であり、使いこなしているというよりは振り回されていると形容したほうがおそらく正しいのだろう。それにオレはこの能力を使うことを快くは思っていない。「未来は分からないから面白い」などという楽観主義的思考は持ち合わせていないが、未来を覗くことに、思い出を捨て去るほどの価値を到底見出すことなどできないからだ。
そして第二にどういう訳か、オレには今から約三か月前、一二月二五日のクリスマス以前の記憶が全くない。いや、言語能力と一般的な知識といった生活に絶対不可欠な情報は存在しているので、「思い出」が完全に失われているといったほうがいいだろう。そして驚くべきことにオレが存在していたというすべての証拠、すなわち戸籍や住民票はおろか、すべての人の記憶の中にも「緒多悠十」という人間に関する記憶は残っていない。それはヒサも例外ではない。形式上オレはヒサの兄という形で通しているものの、ヒサもオレも互いのことを誰なのかという記憶はなく、緒多家の住民とその居候というのが相応しい関係性なのである。そうした状況にいたるまでにある程度の経緯があったとはいえ、オレとヒサの間には敷き詰めて考えれば何の関係もないのだ。それはヒサがオレのことを「悠十さん」と呼ぶあたりにも表れているのだろう。
とにかくオレは、非常に不本意ではあるが、普通とは言い難い状況にあった。そしてその状況を創り出しているのは他でもないこの少女なのであった。
オレは恨みを込めて少女を見下ろした。
「なんだよ、ユウ。そのロリコンが幼女を見て興奮しているみたいな顔は?」
「オレはロリコンでもないし、興奮すらしてないよ。ただお前が出てくるようになってからろくなことが起きないなと思ってさ」
「ワタシが出てくるようになってからと言ったって、そもそもそれ以前の記憶がないじゃないか」
それは確かに間違いない。ただオレが記憶を失っている要因になんとなくの推察はしている。そうなるとやはりこいつが関係しているとしか考えられないのだった。記憶を消去する代わりに未来を見るというこの取引を抜きにしてこの状況を説明することなどできようか。答えは否である。それに記憶を失って最初に出会ったのはこの少女なのである。俗にいう精神世界(とオレが推測している)という場所での中であるものの、オレの記憶の中の最初の登場人物なのである。それがこの歪なストーリーに関係していないはずがないのだ。
「何を深く考え込んでいるんだ?」
少女が怪訝そうな顔をして尋ねてきた。別になんでもない、とあしらってから、オレはこいつと出会った時のことを思い出していた。
* * * * * * * *
目覚めるとオレは白い蛍光灯が数本輝いている天井を仰向けに見ていた。腕には点滴用のチューブが伸び、心電図の一定のリズムを刻む音と薬品の匂いがやけにはっきりと感じられた。そこは病院だった。それ以上でもそれ以下でもない、病院であった。衰弱状態の人間が病院に運び込まれることに別に何も問題はない。だが、そもそも何故オレは衰弱状態などになっているのか、それこそが問題だった。とにかく誰かに話を聞かなくてはならないと思い、重たい身体を起こし、ベッドから降りるとスリッパを履いた。すると急に立ち上がったせいか立ちくらみに襲われ、足が絡まってよろける。次の瞬間、視界が半透明のシートを被せたかのように水色を帯びる。
『よろけてしまった身体を支えようと伸ばした手が心電図測定器のケーブルを掴む。しかし測定器まで引っ張ったまま転んでしまい、床に寝そべる形になったオレの頭めがけてその箱型医療電子機器が落ちてくる』
そして視界が元通りになると、オレはよろけて転び始めていた。オレは何も掴もうとせずに無抵抗のまま床に打ち付けられた。
「いってぇ……」
オレはじんじんと痛む背中を摩りながら今起きた現象について首をかしげた。しかし若干三〇秒ほど考えて何も分からないと結論に達した。オレは気を取り直して、今し方しようとしていたことを再開しようと膝に手をあてて、立ち上がろうとした。
「オレ今、何しようとしてたんだっけ……」
冷や汗が体中から噴き出る。いや、そもそも……。
「オレは……」
どこで何をしていたんだ? どこに住んでいたんだ? 家族は? 学校は? 年齢は?
そしてオレは一体誰なんだ?
意味がわからなかった。呼吸が乱れ、心拍数が上昇し、激しい頭痛が襲う。声にならない悲鳴が漏れ、頭を抱えて、目を瞑った。その瞬間何かのスイッチが入ったかのようなカチッという音を聞いた気がした。瞼の裏の黒い視界の中で、オレは怯えていた。これから何が起こるのか分からなくて、自分の辿ってきたはずの人生が何も思い出せなくて、前にも後ろにも道がない、黒い空間に独り残されたような気がして、小動物のように恐れていたのだった。
「おい、いつまでそうやってうずくまっているんだよ」
少女の声がした。オレは恐る恐る目を開いた。そこは真っ白な空間だったが、さっきいた病室とは違い、何も置かれていなかった。そして壁が存在せず無限に広がっているように思えた。
「おい、無視するんじゃないよ。いつまで放置するつもりだ」
背後から聞こえた先ほど少女の声に振り返ると、少し人間離れした容姿を持つ少女が腕組みをしてこちらを睨んでいた。肌は透き通るように白く、水色のリボンをほぼ真っ白な長い髪と一緒に編み込んで左肩にかけている。そして何より特異なのは瞳の色だった。欧米人のブルーのそれよりももっと明るい、作り物のような水色の瞳がまっすぐにオレを見つめていた。
「オ……オレは……えっと……名前は……」
「オダユウト」
「?」
少女が言った言葉が何を表しているのか、その五文字の音の連なりが何を示しているのか理解できず、ただ目を見開いて少女の顔を見つめるオレに対し、少女は一瞬憐れみを含んだ表情を浮かべて、もう一度口を開いた。
「緒多悠十。お前さんの名前だよ。鼻緒の『緒』に、多い少ないの『多』に、悠悠自適の『悠』に、漢数字の『十』で緒多悠十。理解できたか?」
平然と、当然のことのようにつらつらとオレの名前を説明した少女を相も変わらずオレはただ見つめている。
「まだ呆けたままなのかい? 人間ってのはつくづく情弱な生き物だよ」
「人間って……お前は人間じゃないのかよ」
「ふふふ、よくぞ聞いてくれたね。ワタシは《クロノス》、この世界を構成する《核》のうち、《時》を司るものだよ」
えっへんと手を腰に当ててベタなドヤポーズを取る少女をオレは先まで違う意味で理解できず、黙したまま少女を見つめた。
「お、お前信じてないな!」
「い、いや、信じるも何も……」
「じゃあさっきお前に起きたことを説明してやろう! お前さんがこけたとき、心電図測定器の下敷きになって大けがをする未来を見せてやった! そのおかげでお前はただ背中を打っただけで済んだんだぞ! ワタシは《時》を操る能力を持つ、神に等しい存在だからな。ワタシさえいればお前は未来さえ改変できるんだよ。どーだ、ワタシに感謝する気になっただろう? ワタシを認める気になっただろう?」
大声でまくし立てる少女に、オレは先ほどの何も分からない恐怖の代わりに、何か取り返しがつかないことが起きているのではないかという不安と、非常に面倒なことになっているのではという危機感を感じ始めていた。
「とりあえずお前が《時》を操れるクロノスちゃんだとして、だ。じゃあなんでオレに記憶がない? そっちを先に教えてくれよ」
「そ、それは……」
クロノスはまずいことを聞かれた、という顔をして、くるくると髪を指で弄び始めた。
「その、未来の記憶を手に入れる料金として過去の記憶をちょこっとだけいただいたわけだよ」
「はぁ!? 心電図が落ちてくる未来を見るためだけにオレの全部の記憶持ってったってのか!?」
オレが驚愕のあまり大声でまくし立てるとクロノスは急にキョトンとした顔つきに変わった。
「何を言ってるんだ? ワタシが取引に使ったのはお前が『これから何をしようとしていた』という記憶であって、全記憶を奪ったわけではないぞ?」
「な……だってオレは名前すら忘れて……」
「あぁ、そのことか」
クロノスは再び当然のことのようにこう言った。
「それならお前が決して欲しいって言ったから消したよ。ついでに言うとお前の記憶の消失に伴って、この世界中の全ての生きとし生けるものの記憶と、世界中のあらゆるものの記録からお前についての記憶と記録は消失してるよ」
オレはあまりに突拍子もないこの説明に何も言い返すことができなかった。強いてできたのはこのにっちもさっちも行かないこの状況に辟易してため息をつくことだけだった。一方のクロノスの方はというと、いつの間に現れたのか分からないが、真っ白なキューブ状の物体に腰掛け、幼い子供のように足をぶらつかせながら、オレを不思議そうな顔をして見ていた。
「まぁお前の記憶がどうなったかは置いといてだ。とにかく早く現実世界に戻って、看護師に連絡したほうがいいんじゃないのか? 寝ていた患者が起きたんだからさ」
クロノスは言う。オレの困惑など気にも留めず。そんな態度がなんとなく気に食わなかったオレは少し語調を強めて言い返す。
「分かってるよ。……あとお前って言うんじゃねぇよ」
「じゃあなんて呼べばいいんだい?」
「勝手にしろよ」
「ならお前でいいじゃないか」
「お前っていうのだけはむかつくんだよ」
「そうか……じゃあユウはどうだ? 悠十のユウ? なかなかいいだろ? 二文字だし呼びやすいだろ? あぁ、それならばユウもワタシのことをクロと呼べ。クロノスのクロ」
急に少女らしいキラキラした目で嬉々としてしゃべりだしたオレはさっきまでむかついた気持ちを挫かれたような気分になって、「お、おう……」と返すしかなくなった。
「じゃあ、また後で会うことになるだろうが、しばらくお別れだよ」
オレの気持ちを乱すだけ乱してクロはさっきまで座っていたキューブ状の物体から降りてニヤリと笑った。そしてクロが指を鳴らした瞬間、視界がブラックアウトし、オレは『現実世界』とやらに戻っていった。
どうもkonです
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