遠い道のり
「どうしたもんかねぇ…。」
心地よい風の中、深刻そうな、そうでもなさそうな顔で佐助は呟いた。無いはずの崖へ落ち、気がついたら見覚えのない場所で寝転んでいた。それだけでもあり得ない体験なのだが、佐助はその事よりもこの空間が異常だという事に気づいていた。
佐助は訳も分からずこの美しい森へやって来たのだが、もともといた廃工場では崖に落ちたのである。にも関わらず、佐助はすぐ右手にある地面に開いた穴から落ちてきたのだ。何を言ってるのか分からないと思うが佐助自身もよくわかっていない。落ちながら落ちるという体験は初めてである。少なくとも地球で生活していれば経験することが無いようなことを、この空間で経験してしまった。十分異常と言えるだろう。
「こういう時ってどうすればいいんだろ…。遭難した時は無闇に動き回るなって言われてるけどなぁ…。」
頬をポリポリと掻きながら佐助は困惑したように再び呟いた。倒していた上体を起こし、辺りを見回してみる。その時、首に何か違和感があることに気づいた。
「? なんだこれ?…金属のプレート…?。」
佐助の首に掛けられているのは、縦2センチ、横4センチ程の小さな二枚の金属プレートがネックレスのように加工されているものである。鉄のような重みはなく、かと言ってアルミのような軽さもない、銀色に輝くプレートと鎖。普通は名前やアルファベットを彫ったりするのだろうが、そのプレートは太陽の光を反射するだけで、何も彫られていなかった。しかしそれ以上に鎖が異常だった。繋ぎ目がないのである。どうやって首に掛けたのか気になるが、佐助はその疑問を抱くより早く、ある物を発見した。
「あっ!あれって道じゃね?」
茂る木の間から見えた、土の色。佐助は急いでそちらの方へ駆け出す。道は長年人が通ることにより踏み固められた、舗装されていない山道のようだった。だが道があるということは、少なくともどこかに繋がっていることだ。道に出た佐助は適当な勘で右へと進む。次は人と出会えたらいいのにと考えながら、意気揚々と歩み始めた。
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だが現実は非情である。休憩を挟みながら歩くこと数時間。ときどき道がうねっていたりすることはあるものの、全く変わらない景色と希望としていた『人』には全く遭遇しなかった。近くで川の流れる音がするものの、今まで歩いてきた道を外れることや、川の水を直飲みする勇気がないことなどで、この数時間は水分もなしに歩き続けた。当然体力の消費も激しく、木の影ばかりで涼しい風が吹く森の中、佐助の額には汗の玉が幾つか浮かび始めていた。
さらに一時間ほど歩き続けた佐助だが、流れる水の音の誘惑には勝てなかった。
「あああぁぁっ!!くそっ!!」
生水は腹を下す危険性があることくらい承知だった。だがそんなことはいつしか頭の隅に追いやられ、代わりに脳内にあるのは『水』の一文字だった。一本道から外れ、音のなる方へとふらつく足に力を込めて歩いて行く。数歩歩いては耳を澄まし、また数歩歩くというサイクルを数分繰り返す。佐助からしてみると、頭の中は正常なのに体が必死に水を求めているような感覚だった。頭の中で今まで生きててここまで必死になったのは初めてだ、と苦笑いしながら、それでもギラギラと目を光らせ、水を求めていた。そして見つけたのは、幅1メートルくらいの小川だった。小川を見つけた瞬間、佐助は飛ぶように走り、水の中へ顔を突っ込んで喉を鳴らした。
「っはぁーーっ!!生き返るわぁー…!!」
長時間の歩行でほ火照った体には嬉しい、冷えた水だった。生水を飲んで中毒やら下痢やらを起こしては困るが、そんなことはないだろうと根拠のない自信を抱き、再び小川へ顔を突っ込んだ。ここらで休憩しようかと、小川に足をつけるために靴を脱ぎかけた佐助だったが…
「ぐあぁぁぁぁっ!!!」
「っ!?」
悲鳴を上げたのは佐助ではない。小川を挟んで反対側から聞こえてきた、男の悲鳴である。突然の出来事に驚き、身をすくめる佐助。警戒しつつも、周囲を確認するため、悲鳴が聞こえた方へ目を凝らしたその瞬間、人が飛んできた。余りの衝撃に声も出ず、飛んできた人間の安否を確認する。
「あのー…生きてま……っ!?な、なんだよこれ…。」
飛んできた人間は痩せ細った男だった。目は虚ろで、口からはだらしなく舌がはみ出している。しかし驚くべきは、その男が上半身しかないことである。だが一切血は流れ出ておらず、その断面はまるで魚肉ソーセージか何かのようにぎっしりと皮膚の色で埋め尽くされているだけだった。血が流れていないことであまりグロッキーな光景にはなっておらず、人形と言われればそうと信じてしまいそうだった。それでも佐助が人間と判断できたのは、はみ出した舌のぬめりとした感じ、べたついて鈍い光を放つ髪などが、人間のものとしか思えなかったからだ。次々と起こる非日常的な現象に、佐助はポカンと口を開け、その場で座り込んでしまった。脳の働きがこの現状に追いついていない。混乱した佐助はただ目の前の上半分だけの男を見ているしかなかった。
そんなとき佐助が視界の端に捉えたのは、女の子だった。身長の倍はあろうかという大剣を片手で振るい、肩に担いだその赤い少女に佐助はぼんやりと目を向けた。少女もまた佐助に気づいたらしく、佐助に目を向ける。正確には、佐助の首元を見ているようだ。
瞬間、少女から吹き出したのは『殺気』だった。細められたその視線だけで、視界に捉えた者を殺すような殺気に、佐助は身を縮めるしかなかった。いつしか風も止み、静寂に包まれた森の中。少女との距離は約10メートル。少女は呟くように、しかしこの距離でもはっきりと聞き取れるような声で言った。
「お前も狼か?」
気づいた時には文字通り、脱兎のごとく逃げ出していた。先程まで放心のあまりに動かしていなかった手足をばたつかせ、必死に少女から距離を取ろうとする。全身から冷や汗が吹き出し、息を荒らげ、木の根に躓きながらも佐助は全力で走る。一本道に戻ってきてもその勢いは落ちず、兎に角背後の殺気から逃れようと、今度は反対側の森の中へと入っていった。しかし、その行動は少女に全て読まれていたようだった。
「っ!?くそっ…!」
微かな木々の間から見て取れたのは、彼女の『赤』だった。佐助は疲労した脚を必死に突っ張り、逆方向へ駆け出そうとしたが、その猶予を少女は与えなかった。
「質問に答えろっ!!」
「うぐぅっ!」
少女との距離は少なくとも一瞬で詰められるようなものではなかった。にも関わらず、逆方向へ体を向けたその時には少女は佐助の背後におり、脇腹に強烈な回し蹴りを叩き込んでいた。為す術もなく吹き飛ばされ、佐助は近くの大木に叩きつけられた。まるで車と衝突したかのような衝撃を受け、盛大に吐血する。内臓へのダメージだけでなく、蹴られた際には肋骨を、叩きつけられた衝撃で鎖骨やら諸々の骨を折ってしまったようだ。
(あぁ…このまま死ぬんかな…。)
痛みに悶えながら本気で死を覚悟する佐助。強烈な体技で嬲り殺されるのか、手に持つ巨大な大剣で両断されてしまうのか…。苦悶の表情を浮かべ、少女に目を向けると、
「え、血!?いっけない…狼じゃなかった……!?」
先程までの殺気とは打って変わり、ただただ驚愕していた。何やら自分の腰のポーチを漁り、オロオロしている。
「えっとえっと………取り敢えず…これ食べて!」
何やら目的の物を見つけたらしく、少女が差し出した物は…
「干し肉なんて今食えるわけガハァッ!!」
再び吐血する佐助。理由は無いが、このまま死なせてくれ、と切に願う佐助の目が光ったのは、痛みだけが原因ではなかった。
次回は日曜です。
ところで私、伝統派空手をやっているのですがそこの技も作中に出していけたらいいなーなんて思ってます…。