[アビスルートの功罪]④
ナナシはキーボードのホームポジションで手を休めた。
「おろっ。
風向きが変わった、か?」
『どうした。お嬢さんたち、またぞろ隠し球でも投入してきたか?』
フィクサーSは息をはずませている。
どこかを徒歩か駆け足で移動中なのだろう。
「うるさいな。僕を気遣ってないで、あんたは自分の役目を全うしろ」
『俺はおまえの保護者代わりだからな。世話を焼くのもアフターケアのうちだ』
「まったく、減らず口たたいてからに」
語意は愚痴であるのに反して、まんざらでもなさそうな仕草だった。
ナナシはかすかににんまりしている。
『だったらつけ入る隙を与えるな。
で、どういう局面になったんだ』
「好転したよ。やつら、虫の息だ」
『は?
情勢は悪化したんじゃないのか』
ナナシが鼻を鳴らす。
「見くびるな。僕が小娘ごときに足元すくわれるかっつーの」
『いや、おまえ、さっき一杯食わされたんじゃなかったか。
だいたい「小娘」って、あっちのほうが年上だと思うぞ。どちらかと言えば、おまえが「小僧」だろうに』
「揚げ足取ってばかりだな。
細かいことをねちねちほざいてると、遠からずハゲるぞ。
ご自慢の天パーが焼け野原だ」
『よーしよし。今のは宣戦布告とみなしていいんだな。
あとで俺がじきじきに説教してやるから覚悟しとけよ。
泣きべそかくまで正座の刑だからな』
フィクサーSは電話口で獰猛な狼のごとくうなった。
「図星だからって逆上するなよ、大人げない。
あと負け惜しみ、乙。あんたの安いこけおどしに乗るものか。
僕の根城は『天の岩戸』も同然。内側からロックしたら、他人の入りこむ余地など一ミリもない。
防犯カメラであんたの吠え面、じっくり見学させてもらおう」
『おまえの自室が開かずの要塞だと?
寝言は寝てから言え。
マスターキーの存在をお忘れでないかな、そこつ者のナナシくん』
「…………」
ナナシは口を閉じた。うかつ、と言わんばかりに唇を噛んでいる。
『カギを全とっかえでもしない限り、おまえの生殺与奪権は俺が握ってると胸に刻むことだ』
「くそったれ。だから大人はいけ好かないんだ。
ことあるごとに未成年者の首根っこをつかみたがる」
『都合が悪くなったときだけ被害者面すんな。
おまえの独善的な振る舞いがたたって、監視下に置かれたんだろうが。
己の行動を省みてから物を言え』
「うっさい。
アホしし──あん?」
『おまえ、言うに事欠いてさりげなく、年長者の俺を罵倒しかけたか』
「じゃれ合いタイムは終了だ。
ちょっと静かにしていろ」
ナナシが次から次へキーをタイピングしていく。
「ははーん、そうきたか。
兵力を分散させたわけだ。道理で抵抗力が半減したと思った」
『ナナシ、何があった。大丈夫なんだろうな』
「ああ。『まだ』っていう、ただし書きはつくけどね」
『彼女たちは何をしている』
「要するに」ナナシは舌なめずりした。「役割分担したらしい。一人は負け戦を続行。そこはかとなく『捨て駒』臭がするけど」
『もう片方は?』
「僕の居所を探索している。
ふむふむ、いい腕だ。
中継している海外の基地局を二つ、早くも見破られちゃった。こっちののど元まで、あと三分ってところかな」
『日和っている場合か。のんびりしてたら、こっちがハッキングされるんだろう。
ミイラ取りがミイラになる、なんて笑い話にもならないぞ』
「ぬふっ。確かにそりゃ笑えない冗談だ」
口ぶりとは裏腹に、ナナシは満面の笑みをたたえていた。
「でも心配には及ばない。
あんたはでーんとふんぞり返ってろ。お山の大将ってのは、往々にしてそうするもんだ」
『枕ことばに「お山」をつけている時点で、俺への反発心がダダ漏れだけどな』
「言葉のあやだって。真に受けないでくれよ、大将。
僕はあんたの忠実なしもべ。羽をむしりとられた、かごの中の鳥だぜ」
『……悪ふざけだとしても、本気で怒るぞ。
おまえは俺の相棒だ。下僕、なんて思ったことは一度たりとない』
「わ、悪かったよ。羽目を外しすぎた」
ナナシはバツが悪そうにせき払いした。
「小娘たちが戦力を二分したのは僕にとって、結果オーライだ。
おかげで事前の仕込みが功を奏する。
あんたの手を煩わすまでもないし、メンツを潰したりしないって」
『俺は体面の話をしてるんじゃない』
フィクサーSは不平を鳴らした。
「ハック対決は僕の専門分野だ。
僕にしかできないことがあるように、あんたはあんたの畑で戦え。
それが対等な〝パートナー〟ってことなんじゃないのかよ」
ぐうの音も出ないのか、フィクサーSは「ぐぬぬ」とうめいている。
『ガキのくせに一丁前な口を利いて……』
決まり悪くなったのだろう。言下に、彼との通話が途絶えた。
√ √ √ √ √
ノエルは一心不乱にキーボードを打鍵していた。
気分屋で情緒にむらはあるものの、ここぞというときの爆発力は、ミカをもしのぐ逸材だ。
「お姉さま、残り一分ほどで尻尾をつかめそうです。
そちらはいかがですか」
「恐らくノエルの足音を察知したのでしょう。微動だにしなくなったわ。
対応に苦慮しているのが透けて見えます」
「お姉さまのお役に立てて本望です」
「末恐ろしい娘だこと。あなたを敵に回したくはありませんね」
ミカの言動がお世辞なのか、ノエルには判然としない。
しかしそれもまた些末事。
たとえおべっかであろうとも、敬愛する相手からかけられた厚意は胸を温かくさせてくれるのだから。
「ねぇノエル、わたくし、いいこと閃いたの。
聞いてくれる?」
「もちろんですとも。
ミカお姉さまのお言葉を聞き逃すなど、あってはならないことです」
「あなたはいちいち大仰ね。
そこがかわいいところでもあるけれど」
ミカがくすくす笑い、ノエルは返す言葉を失った。
「あなたがクラッカーの所在を判明させた暁には、〝スケープゴート〟になっていただこうかと思ったのよ」
「スケープゴートって、まさか」
ノエルは自らを指さした。
「ご名答。
わたくしたち〈虚数輪廻〉の身代わりです」
ミカの自白を世間の人が耳にしたら、さぞかし騒然となったことだろう。あるいは、半信半疑かもしれない。
市井で賛否両論のカオスを振りまくミステリアスなハッカーが、うら若き二人の乙女──成人式さえ迎えていない女子高生だったのだから。
むしろ彼女たちはそういった盲点を逆手に取った、とも言える。
誰が思い浮かべるだろうか。
辺鄙でIT化も未発達なお嬢様学校に通う生徒が、何食わぬ顔であまたの企業をゆすっている、などと。
まさしく〝悪知恵〟だ。
「だって賊は不遜にも名乗ったじゃない。〈アビスルート〉と。
だったら落とし前つけてもらうのが筋じゃなくって?」
「具体的には、いかがなさるおつもりですか」
「手始めに敵を我が校のネットワークに幽閉し、動かぬ証拠とする。現在進行形でクラッキングしているわけですしね。
続いてノエルがあますところなくかすめ取った賊のパーソナルデータを、警察とマスコミに順次送付します。
頻度はそうね──小出しにしましょうか。脈絡なくてんこ盛りのフルコースじゃ、生贄に仕立てたのが見え見えでしょうし。
以上でなすりつけ、一丁上がりです」
ミカが屈託なく相好を崩した。罪悪感など、つゆほどもにじませていない。
そうすることがさも当然、とでも言いたげだ。
「素敵なシナリオです、お姉さま」
ノエルは大きな瞳をキラキラさせた。
彼女にも罪の意識は毛ほどもなさそうだ。
「ということは、〈アビスルート〉を卒業なさるのですか」
「そうせざるを得ませんね。
犯人が派手派手しく逮捕されたのに、同名で猛威を振るっては、元の木阿弥ですもの」
「ちょっぴり残念です。
せっかく知名度が上がってきたところでしたのに」
「ふふ、ノエルはせっかちね。
〈虚数輪廻〉を廃業するだけです。ハッカーとして『足を洗う』とは申してませんよ」
「え。ってことは」
ミカがおうようにうなずく。
「別名義で活動いたしましょう。新たな門出です。
〈アビスルート〉は所詮屋号にすぎません。いくらだってすげ替えがききます。
そうね。今度はどんな通称がいいかしら」
「ならば、あたしが温めてきた案を。
お姉さまとあたしのハンドルネームをつなぎ合わせて、『大天使ミカエル』なんていかがでしょうか」
「う~ん。露骨すぎないかしら。
いかにも『わたくしたちが犯人』と喧伝しているみたいです。瞬く間に足がつきそう」
「じゃあですね、アナグラムにして……」
「どうあってもわたくしとあなた、二人のハンドルネームからあやかりたいのね」
いえ、と否定しかけて、ノエルは頬を上気させた。
「そうです」と、もごもご打ち明ける。
ノエルの恥じらう様がツボだったのか、ミカは吹き出した。
つられてノエルも照れくさそうに破顔する。
交わしてる会話は物騒だが和やかムードの中、水面下で波乱が根を張っていた。
ひっそり、かつ着々と。
やがて芽吹いて誰の目にも異変が明らかになる。
「ノエルのノートパソコン、何か挙動がおかしくない?」
「もーう、意地悪して驚かせないでください。心臓に悪いですよ、お姉さま。
あたしの愛機は正常そのもの……」
ノエルの顔色が変わった。
「どうして」というつぶやきを連呼している。
「やはりサイバーテロを受けているのね。いったい誰の仕業──
よもやっ」
ミカが試しに、眼前にたたずむ自称〈虚数輪廻〉を相手取った。
小手調べのコマンドを流す。
されどノーリアクション。カウンターはおろか、回避すらしてこない。
「こいつ、本人に成り代わった自走式のダミープログラム?
いえ、遠隔操作の使い捨てアバターかしら。
いったいいつから!?」
電子空間に巣くう『0』と『1』の集合体は、ミカの質問に応じない。
代わりにシグナルを発したのは、
「あたしが狩る側だったはずなのに、いつの間にか後ろを取られて──
トラップだったにせよ、お姉さまとバトったまま、どうやってこっちに来れたの?
やつはソロでしょ。
分裂したわけでもあるまいに。
ちくしょう、コマンドを受けつけなくなってきた。コントロール不能に」
しどろもどろで要領を得ないノエルだった。
我が身に降りかかった災厄に、全く対処できていない。不可解なアクシデントで手玉に取られている。
無理からぬことだ。
〈アビスルート〉のブレインであるミカをもってしても、予見できなかったハプニングなのだから。
ミカが親指の爪を噛む。
「なんて……こと。してやられた。
こいつのもくろみは学校のデータを奪取することじゃない。はなから──」
√ √ √ √ √
「本命はおまえたちさ。
正真正銘の〈アビスルート〉ちゃん」
両目の下にくまのある少年、ナナシは液晶モニターへ無邪気に投げキッスした。
「といっても、二人とも倒す必要はない。
防御がおろそかな片割れのアカウントを乗っ取る。
そいつの身体に根掘り葉掘り問いただしてやんよ。おまえらの犯した罪の一切合切を、な。
これが数々の修羅場をくぐった玄人の手際ってやつさ。
用意周到だろ。こちとら、駆け出しのおまえたちとキャリアが段違いなんでね」
〈ベガ〉ゲートを突破した直後、ナナシ特製のハッキングツールをバックアップに回したことで行動の幅が広がり、余裕が生まれた。
その隙にあらかじめ待機させておいたリモートコントロールの分身にすり替わる。
本体は、相手の出方を虎視眈々とうかがっていたのだ。
張り巡らせた罠の中へ、単騎で猪突猛進してきたノエルを捕捉。可及的速やかに捕獲にかかり、今に至る。
「さあて、そっちのターンだ。お次はどんな打ち返しでくるかな。
ひよっこ特有の奇想天外な奇策がいい。
ふふん。どうせなら朝まで踊り明かそうぜ、非行少女ども」
どっちが罪人か判別つかぬよこしまなほくそ笑みで、ナナシはウェブ空間の向こう側にいる女子中高生へラブコールを送った。