[アビスルートの功罪]②
『なあナナシ、こないだ飲み屋に寄ったら、店の姉ちゃんが言うわけよ。
「〈アビスルート〉ってご存知ですか。手口がクールですよね」だとさ。
俺も空気読んで、適当に合いの手を入れたりなんかしてな』
ナナシは相づちすら打たない。
『口が裂けても言えないだろ。
「あんたには表側しか見えてないから、カッコいいなどとぬかせるんだ。本性は狡猾でえげつないんだぜ」なーんてな』
おのずとフィクサーSの自画自賛めいた独白になる。
『不法を告発された会社、あんなものは氷山の一角にすぎない。
なぜなら報道されてないアストロン商事だって、〝ハッキングの被害者〟なのだから』
ナナシは馬耳東風とばかりに、聖カトレア女学院の資料を読みふけっている。
アストロン商事の情報とは比べ物にならないほど分厚い。
『〈虚数輪廻〉の守備範囲は手広く、多岐にわたる企業につばをつけている。
にもかかわらず公開処刑になるところと、おとがめなしのところがあるのはなぜか。
答えは単純明快。口止め料を支払ったか否か』
フィクサーSの弁舌は熱を帯びてきた。
『おたくの脱法行為、黙認してあげようか。ただし相応の対価を払ってくれればね。
交渉決裂なら、誠に遺憾ながら公表しちゃいま~す』
矢継ぎ早にしゃべって息切れしたのだろう。一拍の間をあけた。
『〈虚数輪廻〉と裏取引する会社側には二つの選択肢しかない。
泣き寝入りして示談金を工面するか、断固拒否してイメージダウン必至の恥部を白日のもとにさらされるか。
第三セクターからの政治献金が発覚し、芋づる式に辞任に追いこまれた汚職議員の往生際の悪さには、抱腹絶倒させてもらったがね』
ナナシはイスのひじかけを、リズミカルに指でたたきだした。
『マスコミ連中が真相を嗅ぎつけるのは、当面先だろう。
警察でさえ逮捕に至る根拠をつかみあぐねている体たらくなのだから。ざまあない。
確たる足跡すら残さず情報をかすめ取る手腕には、俺も脱帽するよ』
「ふんふんふふ ふんふんふふ ふんふんふふふーんふふーん」
とうとう歌いだすナナシ。
メロディはベートベンの交響曲第九番第四楽章『歓喜の歌』だ。
『胸に秘めておくってのもストレスだよな。たまに洗いざらいぶちまけたくならないか。
今なら「王様の耳はロバの耳」と井戸へ叫んだ少年に共感できるよ。
けど現代じゃ、情報は武器になる。
根も葉もない風聞が飛び交うくらいだ。どうせ吐露すんなら、いっそのことパパラッチに高値で売るというのも一考の余地ありかもしれない──
ってナナシ、俺の話聞いてる!?』
ナナシは小気味いいハミングを邪魔され、眉をひそめる。
「あんたのうんちくはあくびが出る。聞く耳を持つに値しない。
少しの間だけでも静かにしていられないのか。おしゃべり星人め」
『恩をあだで返す、とはこのことだな。
いや、飼い犬に手を噛まれる、が適切か?』
自問自答するフィクサーSを、ナナシは眼中に入れない。
それどころか唐突に、
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」
と資料の文字を順繰りに指さし始めた。
用紙には三つの単語、〈アルタイル〉、〈ベガ〉、〈デネブ〉と書かれている。
『おまえ、何してんの?』
「見て分からないか。陥落させるゲートの選定だ」
『サウンドオンリーの通信だぞ。視認できるものか。
勇姿を見せつけたかったら、カメラ機能をオンにしやがれ』
「こ、断る。貴様の間抜け面など拝みたくない」
ナナシは狼狽した。
おまけに映像がオフになってるか、念入りに調べている。
『出たよ、対人恐怖症の内弁慶が。
案ずるな。仕事終わりに、とっておきのお土産持って訪ねてやるから。
首を洗って待ってるといい』
「ぜ、絶対に来るなよ。
顔を出したら、ただじゃおかないぞ」
『引きこもりくん、具体的に何してくれるのかなぁ?』
ナナシには手に取るように想像できた。
ろくでなしフィクサーSが部下をいたぶって、愉悦に浸っている姿が。
不服なのでナナシが口をつぐんでいると、
『見守れなくて残念だけれど、選別の儀式を続けてくれたまえよ、ナナシくん』
「はっ、そうだ。こうしちゃいられん。
八割無駄口のあんたにしては有益な指摘だな。褒めて遣わす」
『おまえな……』
何を言っても徒労と諦めているのか、フィクサーSは深く追及しない。
ナナシが再び紙の上で指を行ったり来たりさせる。
「て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」
先刻の続きからスタートした結果、〈デネブ〉で指が止まった。
『おーい、どこを落とすことにしたんだ』
フィクサーSを黙殺し、ナナシは指を再度用紙にはわせる。
「な・の・な・の・な」
予定調和と言うべきか、指が指し示したのは──
「〈ベガ〉だな。
うむ。薄々そんな予感はしていた」
『予感がした、ね。そりゃあピンとくるだろうよ。
だって茶番の出来レースだもの。作為的に〈ベガ〉を選んだんだろうが』
「な、難癖つけるな。
厳正なる占いの果てにたどり着いた、偶然の産物だ」
ナナシはムキになって反論した。
『あー、はいはい。
おまえがイカサマまでするからには、何かしら合理的な理由があるんだろうよ。素人の俺にゃ、皆目見当もつかないけどな。
いいさ。ドンパチはおまえの領分だ。
俺は尻拭いする監督役として、傍観に徹するよ』
「ふんっ。高みの見物とは、いいご身分だな」
ナナシは毒づきながら、キーボードをたたき始めた。
√ √ √ √ √
どこから調達したのか、ミカは優雅に紅茶を堪能していた。
黄昏時のティーパーティー。芳醇な香りと湯気がコンピュータルームに拡散する。
「お、お姉さま!」
ノエルが血相変えて声を荒らげた。
「どうしたんですか、騒々しい。
せっかくの平安なティータイムが台なしです」
「それどころでは──
いいえ、お姉さまに盾突くなどもってのほかでした。反省」
ノエルはティーカップを傾け、一息で嚥下した。
気品もへったくれもない。ビール一気飲みのノリだ。
ソーサーに空のカップを置き、報告を再開する。
「現在何者かによって、我が聖カトレア女学院がサイバー攻撃を受けています」
ミカの柳眉がぴくりと動く。
「クラッキング、ですか。
三つの門のうち、アタックされているのはどこ?」
「〝三つとも〟です」
事態の深刻さを認識したのか、ミカはティーカップを置いた。
直ちにデュアルディスプレイへ体の向きを変える。
「こしゃくなマネをしてくれますね。同時多発テロのつもりかしら」
「み、ミカお姉さま……あたしは何をすれば」
「まずは落ち着きなさい。
大方賊は取るに足らぬクラッカーでしょう。わたくしたち二人がかりなら、返り討ちなど造作もない。
違いますか?」
「違いませんっ。
あたしとお姉さまは一心同体、最強のコンビです!!」
ノエルのつぶらな双眸から動揺の色がすっかり消えうせた。
ミカは首肯し、華麗なキーさばきでコマンドを打ちこんでいく。キーボードを打鍵しているというより、ピアノを弾いているかのようだ。
二つのモニターに映しだされたウィンドウが、息もつかせぬ速度で流転していく。
「なるほど、ね」ミカがキータッチを中断し、吐息を漏らした。「誤算、と認めざるを得ないようです。わたくしもまだまだ未熟と痛感しました」
「お姉さまが計算違いなさるはずありません。
あったとしても、それは問題自体が論理破綻しているんです」
「わたくしとて一介の女子高生ですよ。過ちくらい犯します」
依然として物申したそうなノエルの唇を、ミカが人差し指で封じた。
ノエルはほっぺを紅潮させ、チャックを閉められたかのごとく押し黙る。
「いいこと、ノエル。
このハッカー、ザコなんてとんでもない。相当な手だれです。
わたくしに匹敵──いえ、凌駕しているでしょうね」
ノエルの顔が青ざめる。
「そんな……バカな。
【ウィザード】級のお姉さまより上となると、【デミゴッド】か【グル】になってしまいます」
「【グル】は過大評価ですよ。
しかしながら【デミゴッド】には達しているはず」
「だとしても、充分に脅威です。
それほどの化け物がなぜ、うちの学校を襲うのですか」
ミカが拳を口元に当てる。
「わたくしもそこが解せないの。
だって聖カトレア女学院には、躍起になるほど金目のデータはないのだから」
聖カトレア女学院はITの全面導入に消極的だ。
従って貴重な電子データはほぼ絶無に等しい。いきおい、ネットワークのセキュリティもざるに近かった。
そこで白羽の矢が立ったのがコンピュータ部だ。
ミカとノエルのITスキル頼りで、強固な防衛網を構築している。取りも直さず、学内のネットワークは彼女たちが牛耳っている、といっても差し支えない。
だからこそミカは釈然としないのだろう。
ハイリスク・ローリターンにもかかわらず、あえてサイバー戦争を仕掛けてくる無鉄砲ぶりが腑に落ちない。
「力を誇示したい、わけでもないでしょうに……。
ふむ、きな臭い。何か裏がありそうね」
「敵の真意がどうであれ、駆逐してやればいいだけの話ですよ。
お姉さまが頭脳で、あたしが手足。
以心伝心のコンビネーションで、目にもの見せてやりましょう」
ノエルがガッツポーズをした。から元気に見えなくもない。
「うふふ、心強いですね。
全くもってあなたの言う通り。
やられてもただでは起きないのが、わたくしたちの流儀です」
「はい。
それで、お姉さま。手合わせして、賊のプロファイリングはできましたか」
「おおむねってところかしら。
まずクラッカーは複数犯じゃない」
ノエルがきょとんとした。
「えっと、ゲートが残らずハッキングされてますよ。
単独で同時攻撃は、至難の業じゃありませんか」
「無論です。
けれど敵の狙いは十中八九〈ベガ〉。
〈アルタイル〉と〈デネブ〉は陽動である可能性が極めて高い」
「な、なぜです。どうして囮と言いきれるのですか」
ミカがノエルのノートパソコン画面を指さす。
「〈デネブ〉と〈アルタイル〉をご覧なさい。
アタックに一定のリズムがある。巧妙に偽装は施してありますけど、ワンパターンの感が否めない。
恐らく、自律思考型のクラッキングAIか、ハックの際補助的に用いる自動アルゴリズムといったところでしょう。
どの道、わたくしたち相手ではデコイに使うのが関の山です」
ノエルは液晶モニターを食い入るように見つめた。
やがて「あぁ」とため息をつく。
「〈ベガ〉に照準を絞ったことで、賊の人となりもおおよそ分かります。
性別は男。セクハラ常習の中年オヤジか、油ギッシュで二次元厨のオタクです」
「お、お姉さま──その心は?」
「わたくしたちが組んだ三枚のゲートは、言わずと知れた『夏の大三角』になぞらえています。
〈ベガ〉は何座ですか?」
「織姫、です」
「グレイト。
脇目もふらず姫を毒牙にかけるなど、性欲の権化である男ならではの暴挙です」
単に最も手薄だからでは、という反ばくをノエルは飲みこんだ。
〈ベガ〉は他の二つに先駆けて作成した門。プロトタイプゆえに〈デネブ〉と〈アルタイル〉より脆弱で、欠陥も多い。
さりとてノエルにとってそんな理屈は些事だ。
ミカが「キモオタ」と断定するのなら、敵はキモいオタクに相違ない。
女神のお告げは唯一無二なのだ。
たとえ「カラスの羽が白い」と耳打ちされても、『漆黒ではありますまいか』と疑念を抱くなど無作法を通り越して、おそれ多いのだから。
「防護壁の一つや二つ、固執せずにくれてやりましょう。本丸さえ守り抜けば、どうということもありません。
もっとも、土足で上がっておいて、おめおめ帰れると思わないことね。
代償は高くつくと心得なさい」
ミカが防御を放棄するや、門のソースが徐々に変容していった。
「あら、ウィルス注入とはセオリー通りね。
セキュリティホールを広げて突破するつもりかしら。
どうぞおいでませ。そして醜悪な形相をさらしなさい。
あなたはどこの何者?」
後手に回っているにもかかわらず、ミカは喜色満面だった。
デートの約束の場所で恋人を待ちわびる淑女というより、強敵とまみえるのを心待ちにした武芸者さながらだ。
「なん……だって。
こいつ、いったい何をしているの!?」
一方で驚愕の表情を浮かべるノエル。
彼女は〈ベガ〉の破壊を予期していたのだ。
短時間で全壊は無茶としても、基幹プログラムの破損くらいは覚悟していた。
だのに〈ベガ〉は健在。門は無傷で鎮座ましましている。
「お姉、さま」
ノエルは不安げにミカを見やった。
ミカはソースの破損具合を吟味している。
「最小労力で最大効果を得る。敵はそれを実践してみせたのでしょう。
プログラムの一部分が微妙に書き換わっています。
通行の制限を緩めて、特定ユーザーが自由に行き来できるようにしたみたい」
「と、特定ユーザー、というのは──っ!!」
ノエルも変質箇所を目視し、絶句した。
「わたくしたちが手塩にかけた織姫を蹂躙し、あまつさえたぶらかすなんて卑劣この上ない。しかもあろうことか、〝かのハッカー〟を標榜するとはね。
『いい度胸』と言いたいのはやまやまですけど、こうまであからさまだと稀代の阿呆じゃないかしら」
「お姉さま、この身のほど知らず、徹底的にすり潰していいですか」
目の色を変えたノエルが、チュッパチャプスをくわえた。砕きそうな勢いで乱暴に噛む。
彼女にとって戦闘モードになるための典礼、に近い。
「許可します。
完膚なきまでに殲滅してやりましょう」
ミカが手首のシュシュを外し、黒髪を一房に束ねる。
これも彼女なりの臨戦態勢へ入るための切り替えスイッチだ。
聖カトレア女学院コンピュータ部二人による反撃ショーが、厳かに開演された。