【短編版】学校一の美少女は、金曜日だけ幼なじみに戻る
学校一の美少女が、俺の古いジャージを着て、肉じゃがの人参だけを先に食べている。
文章にすると妙な光景だが、俺にとっては金曜日によくあることだった。
「袖、邪魔じゃないのか」
「邪魔」
相沢琴音はそう答えながら、余った袖を肘の辺りまでたくし上げた。
中学のときに使っていたジャージなので、今の俺が着ても少し小さい。琴音ならちょうどいいかと思ったが、手の半分まで袖に隠れている。
「颯馬、中学のころから無駄に大きかったもんね」
「無駄は余計だろ」
「だってバスケもバレーもやってないし」
「棚の上の物を取るときに役立つ」
「それ、私にしか役立ってなくない?」
「なら無駄じゃないだろ」
答えてから、妙なことを言った気がした。
琴音は人参を箸で挟んだまま、こちらを見る。
「何だよ」
「別に」
口元だけ少し緩め、三つ目の人参を食べた。
相沢琴音は、人参が嫌いだ。
本人は頑として認めない。好きなものを最後に食べたいだけで、人参を嫌っているわけではないらしい。
嫌いではない食べ物を毎回真っ先に片付ける理由については、まだ聞いたことがない。
「今日、人参小さくない?」
気づかなくていいことには、よく気づく。
「たまたま」
「全部同じくらい小さいけど」
「包丁の調子がよかった」
「何それ」
琴音は笑いながら、じゃがいもを箸で割った。中から立った湯気に目を細める。
学校では、こういう顔を見たことがない。
同じ高校の二年生ではあるが、クラスは別だ。廊下ですれ違っても、せいぜい目が合うくらいで、わざわざ声をかけることはなかった。
琴音の周りには、たいてい誰かがいる。
入学直後から目立っていた。肩より下まで伸びた栗色の髪と整った顔立ち、それに誰に対しても態度を変えない性格まで含めて、今では学校一の美少女などと呼ばれている。
本人に言えば、確実に嫌な顔をするだろう。
俺にとっては、小学生のころから人参を先に食べる幼なじみだ。
少なくとも、金曜日の夜だけは。
「それにしても、急に降ってきたな」
窓の外では、まだ雨が続いている。
天気予報では夕方から小雨と言っていたはずなのに、琴音が家へ着く少し前から、屋根を叩くほどの雨になった。
徒歩五分の距離でも制服は濡れた。乾燥機へ入れる前に着替えが必要になり、母さんが昔用意した琴音用の部屋着を探したものの、見つからなかった。
代わりに出したのが、俺の古いジャージだった。
「私の服、どこにやったの?」
「母さんに聞いてくれ。俺は知らない」
「この前まであったよね」
「この前っていつだよ」
「中二くらい」
「二年以上前じゃん」
「このジャージは残ってるのに」
「俺の家だからな」
琴音は袖口をつまんだ。
「これ、持って帰っていい?」
「何でだよ」
「雨の日用」
「自分の着替えを置けばいいだろ」
「それはちょっと」
「俺のジャージを置いておくのはいいのかよ」
琴音は答えず、味噌汁に口をつけた。
都合の悪い質問には、たいていこうする。
「今日、茄子入ってないね」
「話を変えるな」
「茄子、高かった?」
「高かった」
「やっぱり」
会話がすっかり別の方向へ流れたので、俺も追及するのをやめた。
毎週金曜日、琴音は俺の家で夕飯を食べる。
俺の母親は市民病院の看護師で、琴音の父親は同じ病院に勤める技師だ。二人とも金曜日は帰りが遅い。
俺たちが小学生だったころ、子どもだけで夜を過ごさせるのを心配した親同士が、一緒に夕飯を食べさせるようになった。
高校二年にもなれば、留守番くらいできる。
それでも習慣だけは残った。
母さんは冷蔵庫へ食材を入れながら、「金曜日は琴音ちゃんも食べるから」と言う。俺は二人分より少し多い夕飯を作り、琴音は十九時前になると玄関のチャイムを鳴らす。
扉を開けると、「ただいま」と言って靴を脱ぐ。
俺も「おかえり」と返す。
続ける理由を考えたことはなかった。
金曜日だから。
今までは、それで足りていた。
◇
翌週の月曜日。
「なあ、高瀬」
向かいで弁当を食べていた佐々木が、箸を止めた。
「何」
「それ、自分で作ってるんだよな」
「そうだけど」
「料理できるの、普通にすごいよな」
急に褒められると、何か裏があるように聞こえる。
俺は弁当箱を少し遠ざけた。
「やらないぞ」
「取らねえよ」
佐々木が見ていたのは、卵焼きだった。
端の方が黒く焦げている。
金曜の夜、琴音が「卵くらいなら焼ける」と言って作り、見事に失敗したものだ。捨てるほどではなかったので、半分ずつ弁当へ入れた。
「相沢さんの弁当にも、同じ卵焼き入ってない?」
箸が止まりかけた。
「知らない」
「いや、あれ。窓側」
視線だけを向ける。
隣のクラスの琴音が、友達に連れられて俺たちの教室へ来ていた。机を二つ借り、四人で弁当を広げている。
琴音の弁当箱にも、端を黒く焦がした卵焼きが入っていた。
「似てるな」
「焦げ方まで同じじゃない?」
「世の中には似たような焦げ方もあるだろ」
「あるかな」
「ある」
琴音がこちらを見た。
佐々木の声が聞こえているらしい。
卵焼きを箸で持ち上げ、焦げた面をわざわざ俺へ見えるように向ける。そのまま口へ運び、視線だけで笑った。
腹立たしい。
「今、相沢さんと目が合った」
佐々木が姿勢を正した。
「よかったな」
「ちょっと笑ってなかった?」
「焦げた卵焼きがまずかったんだろ」
「まずいのか、これ」
「俺に聞くな」
実際、少し苦かった。
琴音は朝、半分だけ味見して「食べられなくはない」と言っていた。自分で作ったくせに、残りはこちらへ押しつけようともした。
結局、同じ数ずつ弁当へ入れた。
「そういえば、相沢さんも料理するのかな」
「しないだろ」
答えてから、佐々木がこちらを見る。
「何で知ってるんだよ」
「見れば分かる」
「見ただけで?」
「卵焼きをあれだけ焦がすやつは、普段から料理してない」
「焦がしたのが相沢さんだって、何で知ってるの?」
まずい。
佐々木は弁当箱と琴音を交互に見た。
琴音はこちらの窮地を助ける気はないらしい。澄ました顔で焦げた卵焼きを食べている。
「高瀬」
「何だよ」
「お前と相沢さん、知り合い?」
「家が近い」
「どのくらい?」
「徒歩五分」
「距離じゃなくて、仲が」
「家が近いだけだって」
嘘ではない。
全部でもないが。
「ふうん」
佐々木は納得していない顔で、唐揚げを口へ放り込んだ。
琴音を見ると、今度は向こうが先に視線を逸らした。
ただし、口元はまだ笑っていた。
◇
次の金曜日。
琴音は自分専用の茶碗に御飯をよそいながら、何でもないことのように言った。
「お父さん、春から担当が変わるかもしれないんだって」
「担当?」
「仕事の。夜勤がほとんどなくなるらしい」
「よかったじゃん」
「うん」
その返事にしては、声が平らだった。
俺は鍋から生姜焼きを皿へ移し、琴音の前へ置く。琴音は礼を言ったものの、すぐには箸を持たなかった。
「金曜日も早く帰ってくるのか」
「たぶん」
「じゃあ、この夕飯も終わりか」
言ってから、フライパンを流しへ置いた。
後ろで、陶器が小さく鳴る。
振り返ると、琴音が茶碗を持ったまま食器棚を見ていた。
「どうした」
「これ、どうしようかなと思って」
「何が」
「茶碗」
白地に小さな青い花が描かれた茶碗だ。
小学生のころ、母さんに連れられて行った店で、琴音が自分で選んだ。うちにある食器だが、琴音以外が使ったことはない。
「置いとけば」
「使わないのに?」
「母さんが使うかもしれない」
「絶対使わせないで」
琴音はすぐに茶碗を胸元へ引いた。
「何でだよ」
「私のだから」
「うちの食器だけど」
「選んだのは私」
「金を出したのは母さん」
「じゃあ、おばさんからもらう」
「どうぞ」
琴音は茶碗を見下ろした。
「持って帰るとは言ってないけど」
「何なんだよ」
「置いておいていいなら、置いておく」
「最初からそう言ってるだろ」
琴音はようやく椅子へ座った。
茶碗をいつもの位置へ置き、生姜焼きへ箸を伸ばす。
少し機嫌が直ったように見える。
「あと二十四回」
「何が?」
「金曜日の夕飯。春休みまで」
「数えたのか」
「カレンダーを見ただけ」
「わざわざ?」
琴音が箸で肉をつまんだまま、こちらを見る。
「悪い?」
「悪くはないけど」
どうして数えたのか。
聞こうと思ったが、その前に琴音が生姜焼きを口へ入れた。
「思ったより少ないね」
「半年くらいあるだろ」
「週に一回しかないから」
そう言ってから、琴音は味噌汁へ視線を落とした。
俺も箸を動かす。
残り二十四回。
数えたことはなかったが、数字にされると妙に短い。
春になれば、琴音の父親は金曜日も家にいる。
琴音がうちへ来る理由はなくなる。
俺が二人分の夕飯を作る理由も。
「春からも、ここで勉強していい?」
唐突に琴音が言った。
「何で」
「一人だと集中できないから」
「学年六位が言う台詞じゃないだろ」
「七位から上がったの知ってるんだ」
「順位表に載ってたからな」
「私の順位、見てるんだ?」
「目に入っただけ」
「ふうん」
さっきまでとは違う理由で、琴音の機嫌が直った。
「とにかく、家でやればいいだろ」
「颯馬に数学を教えてあげられる」
「頼んでない」
「次の試験、私より二十一点低かったよね」
「何で知ってる」
「佐々木君が言ってた」
箸を止めた。
「佐々木とそんな話するのか」
「文化祭の集まりで、たまにね」
「ふうん」
「またその顔」
「普通だって」
「そういうことにしておく」
琴音は口元を隠すように、味噌汁の椀を持ち上げた。
俺の心境など、すべてお見通しだと言いたげで気に入らない。
「それで、勉強は?」
「別に来てもいいけど、夕飯代は取るぞ」
「数学を教える」
「一回五百円」
「生々しい」
「毎週来るなら月二千円」
「お父さんに請求していい?」
「夕飯代を父親に払わせるのかよ」
「じゃあ、洗い物する」
「それは今もやってる」
「おかずを一品作る」
「焦げた卵焼きは料理に含まれない」
「食べたくせに」
「捨てるのもったいないだろ」
「私の分まで弁当に入れようとしたよね」
「気のせいだ」
「卵焼き半分に切って、三対一に分けようとしてた」
「数えるなよ」
琴音は笑った。
春からもここへ来る理由を探している。
そう考えそうになり、すぐに打ち消した。
勉強する場所など、いくらでもある。
それでも琴音がここを選ぶ理由については、聞かないことにした。
聞かなければ、金曜日の続きを期待していることにもならない。
◇
翌週の木曜日。
五時間目が終わり、購買へ向かう途中で琴音を見かけた。
階段の踊り場で、男子生徒と向かい合っている。
三年生だ。名前は知らないが、バスケ部のレギュラーだったと思う。
二人だけだった。
琴音は困ったように眉を下げ、それでも相手の話を遮らずに聞いていた。
「告白じゃね?」
隣にいた佐々木が足を止めた。
「知らない」
「絶対そうだろ。うわ、見ちゃった」
「行くぞ」
「気にならない?」
「何が」
「相沢さんの返事」
「俺には関係ない」
佐々木は何も言わなかった。
代わりに、俺より先に階段を下り始める。こちらがついてこないと気づき、途中で振り返った。
「高瀬?」
「今行く」
足を動かす。
購買でパンを買い、教室へ戻った。
午後の授業中、黒板に書かれた文字をノートへ写す。教師がページをめくる音や、窓の外で鳴く鳥の声まで聞こえるのに、授業の内容はほとんど残らなかった。
明日は金曜日だ。
琴音は来るのだろうか。
彼氏ができた翌日に、幼なじみの男の家で夕飯を食べるものなのか。
そこまで考え、シャープペンシルを置いた。
まだ返事も知らない。
そもそも、告白だったと決まったわけでもない。
放課後、スーパーへ寄った。
明日の夕飯に使う鶏肉と野菜を籠へ入れる。乳製品の棚で、二個入りのヨーグルトを手に取った。
琴音がよく選ぶ桃味だ。
しばらく眺め、棚へ戻した。
明日来るか分からない。
一人なら一個でいい。
隣に並んだ一個売りのプレーンヨーグルトへ手を伸ばす。
そのまま数秒止まり、結局、桃味の二個入りをもう一度籠へ入れた。
母さんも食べる。
そういうことにした。
◇
金曜日は、朝から琴音と目が合わなかった。
探していたわけではない。
普段なら渡り廊下ですれ違う時間にいなかったので、少し気になっただけだ。
放課後、中庭で文化祭実行委員が集まっていた。
琴音は模造紙を抱え、別の女子と何か話している。昨日の男子は見当たらなかった。
声をかける用事はない。
そのまま帰宅した。
鶏肉に下味をつけ、キャベツを切る。
包丁の切れ味が悪いのか、千切りがいつもより太くなった。途中から細くしようとしたが、余計にばらついた。
味噌汁を作り、御飯をよそう。
二人分。
十九時になった。
チャイムは鳴らない。
文化祭の集まりが長引いているのかもしれない。
十九時五分。
まだ来ない。
スマートフォンを確認する。
連絡はない。
そもそも遅れると連絡する決まりなどなかった。毎週十九時前に来ていたから、必要がなかっただけだ。
十九時十分。
味噌汁の表面から湯気が見えなくなり始める。
先に食べればいい。
琴音が来なければ、残りは明日の朝に回せばいい。
箸を取ったところで、玄関のチャイムが鳴った。
立ち上がるまでに、少し間が空いた。
急いでいたと思われるのも癪だった。
玄関の扉を開けると、琴音が立っていた。
「ただいま」
いつもどおりに言う。
「遅い」
我ながら、最初に出す言葉ではなかった。
琴音は靴を脱ぎながら、壁の時計を見る。
「十三分だけでしょ」
「連絡くらいしろよ」
「待ってたの?」
「待ってない」
「じゃあ、先に食べた?」
「今から」
「待ってるじゃん」
「料理を冷ましてた」
「御飯まで?」
「俺、猫舌だから」
「熱い方が好きでしょ」
余計なことばかり覚えている。
琴音はリビングへ入り、食卓を見た。
二人分の皿。
二人分の茶碗。
二人分の味噌汁。
そこまで確認してから、こちらを振り返る。
「待ってたんだ」
「しつこい」
「待ってたなら、そう言えばいいのに」
「たかが十三分だろ」
「十三分も」
「十三分しか」
琴音は自分の席へ座った。
鞄を脇へ置き、太さのばらついたキャベツを見ている。
「今日、キャベツ太いね」
「包丁の切れ味が悪かった」
「機嫌悪いとき、いつも太くなるよ」
「そんな統計ないだろ」
「私の中にはある」
「食わなくていいぞ」
「食べるけど」
琴音は箸を持った。
食べ始める前に、こちらを見上げる。
「昨日のこと、聞かないの?」
「昨日?」
「階段」
「見られてたの、気づいてたのか」
「目立ってたから。颯馬が」
「俺は何もしてない」
「急に歩くの遅くなってた」
佐々木だけでなく琴音にまで見られていたらしい。
「別に、俺には関係ないだろ」
「そう?」
「そうだろ」
「先輩に告白された」
思ったよりあっさりと言われた。
味噌汁へ伸ばしかけた手を、そのまま椀に添える。
「ふうん」
「返事、気にならない?」
「琴音のことだし」
「そう」
琴音は鶏肉を一口食べた。
こちらを見ない。
食器が触れる音だけが続いた。
味噌汁は冷めかけている。
それでも、さっきより喉を通りにくかった。
「何て答えたんだよ」
結局、こちらから聞いた。
琴音はすぐには答えず、鶏肉を飲み込んだあとで顔を上げる。
「お断りしました」
急に丁寧な言葉になった。
「そう」
「それだけ?」
「何か言うことあるか?」
「別に」
琴音は味噌汁に口をつけた。
少し笑っているように見える。
「何で断ったの」
「聞くんだ?」
「話の流れだろ」
「好きな人がいるから」
今度こそ、箸が止まった。
琴音は何でもない顔で味噌汁を飲んでいる。
それ以上の説明はなかった。
学校内の誰か。
琴音と普段から話している男子。
佐々木のような、俺とは違って気軽に人の輪へ入っていけるやつ。
思い浮かべようとして、一人も具体的な顔が出てこなかった。
琴音の学校生活を、俺はほとんど知らない。
「誰」
短く尋ねる。
琴音は椀を置いた。
「言わない」
「何で」
「本人にまだ言ってないから」
「そう」
「気になる?」
「話題にされたら多少は」
「多少」
「何だよ」
「別に」
琴音の機嫌は、すっかり直っていた。
今度は俺の方だけが、太いキャベツを口へ運ぶ。切り方が違っても味は変わらないはずなのに、妙に青臭かった。
「颯馬」
「何」
「ヨーグルトある?」
「ある」
「桃?」
「二個入り」
「何で二個入りにしたの?」
「安かったから」
「一個売りの方が安いよ」
「よく知ってるな」
「いつも買ってるから」
「なら聞くなよ」
琴音は声を立てずに笑った。
「私が来ると思って買ったんでしょ」
「母さんも食べる」
「おばさん、桃味は甘すぎるって言ってたよ」
「何で俺より母さんの好みを知ってるんだ」
「颯馬が知らなさすぎるだけ」
完全に逃げ道を塞がれた。
「冷蔵庫に入ってるから、勝手に食え」
「颯馬は?」
「食べるよ」
「じゃあ、半分ずつね」
「二個あるんだから一個ずつだろ」
「蓋を開ける順番の話」
「どうでもいい」
「私が先」
「本当にどうでもいい」
琴音は満足そうに頷き、再び食事へ戻った。
好きな人がいる。
その言葉だけが、会話の底に残っている。
聞けば教えてくれるのだろうか。
いや、本人に言っていないのなら、俺が先に知ることでもない。
そう考えている間も、琴音は俺の作った夕飯を食べている。
好きな人がいるのに。
琴音が皿から最後の鶏肉を取った。
「今日、いつもより味濃いね」
「下味をつけすぎた」
「考え事してた?」
「してない」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
今日は何度、その言葉を使われただろう。
琴音は楽しそうだった。
◇
食後、琴音は宣言どおり桃味のヨーグルトを先に開けた。
一口食べ、冷蔵庫から取り出したばかりの冷たさに目を細める。
「颯馬」
「今度は何」
「私たち、これ、いつまで続けるの?」
不意に、前にも聞かれた質問をされた。
今度は聞き返さなくても、何を指しているか分かった。
金曜日の夕飯。
残り二十四回だったものが、今日で一つ減った。
「春までじゃないのか」
「颯馬は、春でやめたい?」
ヨーグルトの蓋を指先で小さく折りながら、琴音が尋ねる。
逃げ道のない聞き方だった。
「琴音は?」
「私が先に聞いた」
「ずるいだろ」
「じゃあ、一緒に言う?」
「何を」
「続けたいか、やめたいか」
本当にこんなことを声に出して決める必要があるのだろうか。
続けたければ続ければいい。
やめる理由もない。
もっともらしい答えはいくつも浮かんだ。
「せえので言うからね」
「本当にやるのか」
「颯馬が答えないから」
「琴音だって答えてないだろ」
「今から答える」
琴音はスプーンを置き、こちらへ向き直った。
「せえの」
「どっちでも」
「続けたい」
声が重なった。
琴音の目が、すっと細くなる。
「今、ずらしたよね」
「ずらしてない」
「私が続けたいって言うのを待ってから言った」
「ほぼ同時だっただろ」
「颯馬の方が遅かった」
「なら聞き取れてないはずだ」
「聞き取ったから言ってるの」
「耳がいいな」
「言い直して」
「何を」
「颯馬は続けたいの?」
琴音は先ほどまでより近く感じられた。
テーブルを挟んで、いつもと同じ席にいるだけなのに。
「続けたいって言ったら続けるのか」
「質問に質問で返さないで」
「琴音だってさっきやっただろ」
「私はもう答えたから」
確かに、続けたいと言った。
俺が逃げたせいで、その言葉だけが食卓の上へ残されている。
「どうして続けたいんだよ」
「颯馬と御飯を食べたいから」
琴音は迷わなかった。
こちらが身構えるほど、普段どおりの声だった。
「颯馬は?」
少し前に、琴音には好きな人がいると聞いた。
その相手が誰であっても、琴音は俺と夕飯を食べたいと言う。
幼なじみだから。
家が近いから。
昔から続いているから。
そういう理由をつければ、今までと同じでいられる。
けれど春になれば、親たちの仕事を言い訳にはできない。
理由がなくなったあとも一緒にいるなら、理由を作るしかない。
「春が過ぎても来ればいいだろ」
琴音が一度だけ瞬きをした。
「何の理由で?」
「夕飯を食べるため」
「誰と?」
「俺と」
琴音は、わずかに首を傾ける。
まだ足りないらしい。
質問ばかりだ。
答えを知っていて、それでも俺の口から聞こうとしている顔だった。
「俺が、琴音と食べたいから」
琴音は何も言わなかった。
ヨーグルトのカップを両手で持ち、視線を落とす。
「何か言えよ」
「今、にやけないようにしてるから待って」
「言うなよ」
「聞いたのは颯馬でしょ」
少しして顔を上げたが、口元までは隠せていなかった。
「じゃあ、春からも来る」
「勉強は?」
「するよ」
「夕飯代」
「洗い物する」
「おかずは?」
「練習する」
「焦げた卵焼きは却下」
「颯馬は食べてたけど」
「もったいなかったから」
「私と同じ数、弁当に入れてたよね」
「捨てるよりいいだろ」
「素直じゃない」
「お前に言われたくない」
琴音は青い花柄の茶碗を見た。
「これ、もう持って帰らなくていいね」
「最初から置いとけって言っただろ」
「おばさんには使わせないで」
「使わないよ」
答えると、琴音がこちらを見る。
「さっきは使うかもって言ってなかった?」
「言ったか?」
「言った」
「覚えてない」
「嘘」
「琴音が来るなら、他のやつが使う暇ないだろ」
言ってから、少し余計だった気がした。
琴音は茶碗から俺へ視線を移し、また茶碗へ戻す。
「そっか」
「何だよ」
「別に」
今日一番機嫌のいい「別に」だった。
「それと、学校でも話しかけて」
続いた要求には、すぐ答えられなかった。
「話が飛んでないか」
「飛んでない。昨日の卵焼き、佐々木君にばれそうになってたでしょ」
「お前、見てただけじゃん」
「颯馬の言い訳が面白かったから」
「助けろよ」
「家が近いだけって言ってたし」
琴音はスプーンでヨーグルトの底をなぞった。
「家が近いだけの相手と、毎週夕飯を食べるんだ?」
「幼なじみだとは言いにくいだろ」
「どうして?」
「また変なことを言われるかもしれない」
「私は、言われてもいいよ」
「学校一の美少女は大変だな」
「その呼び方やめて」
予想どおり、琴音は露骨に嫌な顔をした。
「じゃあ、俺から話しかけても迷惑じゃないのか」
「迷惑だったら、金曜日に来ない」
「それもそうか」
「あと、名前で呼んで」
「学校で?」
「家では呼ぶでしょ」
「学校と家は違う」
「私は颯馬って呼ぶけど」
「話しかけるだけでいいんじゃなかったのか」
「今、増えた」
「勝手だな」
「駄目?」
そこで聞き返すのは、卑怯だと思う。
琴音は、こちらが何と答えるか分かっている。
「駄目とは言ってない」
「なら決まり」
琴音は空になったヨーグルトのカップを重ね、立ち上がった。
「洗い物する」
「まだ俺が食べ終わってない」
「遅い」
「琴音が質問ばかりするからだろ」
「ちゃんと答えない颯馬が悪い」
流しへ向かいかけた琴音が、途中で振り返った。
「あの先輩に断った理由、まだ気になる?」
箸を置く。
「本人に言ってないんだろ」
「うん」
「なら、俺が聞くことじゃない」
「そっか」
残念そうには見えなかった。
むしろ、また少し笑っている。
「何だよ」
「何でもない」
「今日、そればっかりだな」
「颯馬が鈍いのが悪い」
「急に悪口を言うな」
「急じゃないよ」
琴音はそのまま流しへ向かった。
好きな人とは誰なのか。
まだ分からない。
ただ、その人物へ告白もしていないのに、琴音は春以降も俺と夕飯を食べるらしい。
それをどう受け取ればいいのか。
答えへたどり着く前に、蛇口の水音が響き始めた。
◇
翌週の月曜日、昇降口に琴音がいた。
二人の友人と話している。
俺は歩く速度を落とした。
金曜の夜、話しかけると約束した。
挨拶くらいなら何でもない。
そう考えている間に、こちらに気づいた琴音と目が合った。
琴音は何も言わない。
俺が通り過ぎるかどうか、黙って見ている。
周囲には生徒が多い。琴音の友人だけでなく、顔見知りの男子もいる。
今日の昼には、変な噂が流れているかもしれない。
面倒なのは間違いなかった。
それでも、話しかけて迷惑かどうかは金曜に聞いた。
俺に言い訳は残っていない。
「おはよう、相沢」
琴音が眉を寄せた。
「名字なんだ」
「学校だから」
「金曜日、何て言ったっけ」
「話しかけるとは言った。名前で呼ぶとは言ってない」
「颯馬」
琴音の友人たちが、そろってこちらを見た。
少し離れたところにいた男子まで振り返る。
「お前、本当にやったな」
「幼なじみの名前を呼んだだけだけど」
琴音は平然としている。
俺だけが動揺するのも、何となく負けた気がした。
「おはよう、琴音」
琴音の表情が変わった。
学校で誰にでも見せる、感じのいい笑顔とは少し違う。
自分の器に小さなじゃがいもを見つけたときのような、気の抜けた笑い方だった。
「うん。おはよう、颯馬」
「相沢さん、幼なじみいたの?」
隣の女子が尋ねた。
「いるよ。家も近いし」
「全然話してなかったよね?」
「ちょっと喧嘩してたから」
「何年も?」
「長めの喧嘩」
琴音は何でもないことのように答えた。
俺は靴を履き替え、逃げるように立ち上がる。
「じゃあ、俺はこれで」
「待って」
「何だよ」
「一緒に行こう」
「クラスは別だろ」
「階段までは同じでしょ」
琴音が俺の横へ並ぶ。
周囲からいくつもの視線を感じた。
やはり面倒だった。
昼休みまでには、変な噂の一つや二つ流れているかもしれない。
けれど、琴音は俺の隣にいる。
本人が迷惑しているようには見えなかった。
「今日、帰りにスーパーへ寄らない?」
階段へ向かいながら、琴音が小声で言った。
「今日は金曜じゃないぞ」
「知ってる。月曜日だから」
「なら、何で」
「金曜日まで待つ必要、なくなったでしょ」
「そんな話はしてない」
「私はそう思ったけど」
「また勝手に決めてるじゃん」
琴音は一度口を閉じた。
数歩進んでから、こちらを見る。
「じゃあ、聞く」
「何を」
「今日も一緒に夕飯を食べたいんだけど、颯馬は?」
正面から聞かれると、少し困る。
母さんが夜勤だから。
食材が余っているから。
一人分も二人分も、作る手間は大して変わらないから。
それらしい理由はいくつか浮かんだ。
どれも、口にする前に捨てた。
「俺も食べたい」
「じゃあ、決まり」
「買い物には付き合えよ」
「うん」
「洗い物も」
「それはいつもやってる」
「卵焼きも練習するのか」
「もちろん」
「焦がすなよ」
「焦げても颯馬が食べるから大丈夫」
「俺を処理係にするな」
「幼なじみでしょ」
「便利に使うなよ」
琴音が笑う。
今日は月曜日だ。
それでも琴音は、俺の幼なじみだった。
もう、次の金曜日を待つ必要はないらしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、評価や感想をいただけると嬉しいです。
今後も、距離の近い二人を描いた恋愛短編を投稿していきます。
【追記】
評価や応援をいただき、ありがとうございます!
その後、学校でも一緒に過ごすようになった琴音と颯馬を描く長編版の連載を始めました。
幼なじみのままではいられなくなる二人の続きを、ぜひお楽しみください。
連載版は同タイトルです。作品一覧からお読みいただけます。




