第35話
「トビー!こっちはレム村のクロード親方へ送る『精密歯車の治具』だ!前にトビーがメモしてくれた親方のクセに合わせた寸法、完璧に仕上がってるぞ。頼む!」
「トビーちゃん、こっちも頼むわ!コモレビ村のマーサさんへ届ける特製のハサミよ。おばあちゃんの手のサイズに合わせた持ち手にしてあるから、トビーちゃんから直接手渡してちょうだい!」
「おい、俺の研磨油の容器が先だぜ!午後三時までにギルドへ集荷に来てくれ!」
あちこちから飛び交う「トビー」という自分の名前。かつて孤児院の薄暗い部屋で「ノロマ」「手先が不器用で何をやらせても遅い」と蔑まれ、うつむいていた少年の背中を、いまや無数の声がまっすぐに押している。
人々が彼を求める理由は明快だった。トビーの手は、決して荷物を乱暴に扱わない。どんなに急いでいても、荷物を置くときは音ひとつ立てず、積み込むときは重さと形状を瞬時に計算して絶対に傷がつかない位置へと収める。かつて「動作が遅い」と嫌われたその丁寧さは、いまや荷物を絶対に傷つけない確かな技術として信頼されていた。
「はい、クロード親方への治具ですね。マーサおばあちゃんのハサミは、次の定期便に組み込みます。研磨油は午後三時ちょうどにお伺いします!」
トビーは次々と舞い込む依頼を頭の中で組み立て、一切の迷いなく捌いていく。メモ帳を走らせる指先に迷いはなく、その瞳には硬質な光が宿っていた。
手押し車に積まれた荷物が増えていくたびに、トビーの胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。喉の詰まりを飲み込むように小さく息を吸い込み、握りしめたペンの軸に力を込めた。
すれ違う靴職人が片手を上げ、辻に立つパン屋の女将さんが焼きたてのロールパンをそっと手渡してくれる。トビーは頭を下げ、確かな重みの増した手押し車を押して、さらに前へと足を進めた。かつて自分を縛り付けていた冷たい視線はもうどこにもない。そこにあるのは、迷宮都市の職人たちに真っ直ぐに向けられた、揺るぎない信頼の温度だけだった。
日差しが強く差し込み始めた迷宮都市ヴァルハイトの裏路地は、いつも以上に熱気を帯びていた。工房の奥からズシンと腹に響く大槌の衝撃音と、真っ赤に熱した鉄が水で締められる猛烈な蒸気音が吐き出されている。その前庭で、手押し車を止めたトビーは、職人たちから預かった荷物の荷降ろしと積み込みに没頭していた。
ルーカスが幹線ルート配送の準備や、商業ギルドとの定期調整に奔走している間、広大で複雑怪奇な迷宮都市内部の集配は、すべてトビーの小さな手に委ねられている。
「よし、これで良し……」
トビーの指先は滑らかで、一切の迷いがない。手押し車の荷台に積まれた木箱や布包みは、ただ重ねられているのではない。箱の角と角、凹みと突起が絶妙に噛み合い、隙間には衝撃を吸収する麻布や木くずが寸分の狂いもなく挟み込まれていた。石畳の段差や急な坂道で手押し車がどれほど揺れようとも、荷物が互いにぶつからないよう、独自の計算による立体パズルとして組み上げられている。
麻縄を素早く回し、解けにくい結び目でギュッと締め上げる。指先で縄の張りを弾き、乾いた音でその強度を確かめた。
「よし、緩みなし。これなら裏路地の悪路でもビクともしないぞ」
ふと気配を感じて顔を上げると、工房の太い柱に背中を預けたドワーフのガルドが立っていた。極太の腕を組み、煤で汚れた皮のエプロンをつけた巨大な躯体が、無言のままトビーの一連の手際をじっと見つめている。ガルドは職人魂を汚す者や雑な仕事を何よりも嫌う頑固親父だ。
トビーは一瞬緊張で背筋を硬くし、ぺこりと頭を下げた。
「ガルドさん、お疲れ様です!レム村のバド親方から預かってきた特級鋼材の角材、こちらに納品しますね。湿気がつかないよう、油紙の三重包装にしてあります!」
ガルドは返事をせず、のしのしと重い足取りで手押し車に歩み寄ってきた。トビーが手押し車から慎重に抱え上げた鋼材を、ガルドの分厚い手が受け取る。
油紙の端を少しめくり、鋼材の表面と角の状態を鋭い目で検分する。傷ひとつなく、結露の気配すらない。それからガルドの視線は、トビーが次々と他の職人宛ての荷物を整理していく「手つき」へと移った。紐の結び目、荷物の配置、重い鉄製品を下に、壊れやすいガラスを上へ配置する完璧な重心設計。そして何より、荷物を扱うたびに向けられる、細やかで丁寧な眼差し。
数秒の沈黙のあと、ガルドの太い眉がゆるりと上がった。
「変わったなぁ、トビー」
ガルドは小さく鼻を鳴らし、組んでいた腕を解いて腰の煙管を取り出した。火をつけ、紫煙を空へ吐き出しながら目を細める。
「最初ルーカスに連れてこられた時は、ろくに返事もできねえ気弱な小僧だと思ってたが……。すっかり立派な商人の面構えになったな」
「え……?」
「目見りゃわかるさ。荷物を右から左へ動かして金をもらうだけの『運送屋』の目じゃねえ。送り手の汗と、受け取る側の想いを両手で抱えて走る『本物の商人』の目だ」
ガルドは金床の火の粉で灼けた大きな手で、トビーの頭を乱暴に、しかし温かく撫で回した。
「いい手だ。不器用でもノロマでもねえ。職人が血と汗を流して作った品を絶対に殺さねえ、最高の手だ。ルーカスも鼻が高いだろうよ。……今日の仕事が終わったら、これ付け替えてやるよ」
ガルドは工房の棚から手のひらサイズの小さな革袋を取り出し、その中身を見せた。
「ガルド特製の『超軽量・真鍮製ベアリングの車輪軸』だ。お前のその手押し車、そろそろ軸が摩耗して重くなってただろ?今日の仕事が終わったら声をかけな。驚くほど軽く引けるようになるはずだ」
手押し車の車輪軸を見やる。確かにここ数日、荷物の増加に伴って車輪からわずかな軋み音が鳴り始めていた。トビー自身が「もう少し我慢しよう」と見過ごしていた微小な違和感を、ガルドは引き方を見ただけで見抜いていたのだ。
「ガルドさん、ありがとうございます!大切に使わせていただきます!」
深々と頭を下げるトビーに、ガルドは「おう、とっとと行きな!街の職人どもがお前の到着を首を長くして待ってんだからな!」と笑い飛ばし、背を向けて再び金床へと向かった。
背後で激しい鉄槌の音が再び響き始める。
トビーは胸の中に広がる熱い重みを噛み締め、手押し車の取っ手を強く握り直した。職人たちの要望を完璧に記したメモを頭の中で反芻し、軽やかな足取りで石畳を蹴る。背中には、もう他人の目を怯える気弱な少年の影など微塵もなかった。




