何もない日
迷宮都市ヴァルハイトの朝は、いつだって微かな石灰の匂いと、鉄板を叩く鍛冶の音で始まる。
けれど、二人の事務所兼住居には、今日、その日常的な慌たださがなかった。二階の窓から差し込む柔らかな光が、丁寧に磨き上げられた床板の上に長い影を引いている。月二回のルート配送の中日。ルーカスが決めた、貴重な完全休日だった。
いつもなら夜明けと同時に起き出し、手押し車の車軸に油を差し、荷物の重さを指先で確かめているトビーは、事務所の椅子にポツンと座っていた。
手持ち無沙汰だった。やるべき仕事がない。体が勝手に動こうとしては、今日の予定が白紙であることに気づいて止まる。不器用な指先が、テーブルの端をトントンと規則正しく叩いては離れた。
「おい、トビー」
窓際の特等席で、古びた革表紙の帳簿をめくっていたルーカスが顔を上げた。その薄茶色の瞳が、落ち着かない様子で視線を泳がせる少年の姿を捉える。
「はいっ……!」
反射的に背筋を伸ばしたトビーに、ルーカスはふっと片側の口角を上げた。
「今日は完全な休みだ。……久しぶりに孤児院に顔を出してみたらどうだ」
その言葉に、トビーの喉の奥がキュッと鳴った。脳裏に、湿った土の匂いと、色褪せた木造建築の柱がきしむ音が蘇る。あの冷たい泥の底のような孤児院。自分を「ノロマ」「役立たず」と陰で笑い、視線を合わせようともしなかった子どもたちの顔、そして居場所がなくていつも隅っこで膝を抱えていた記憶。忌まわしい感触が背筋を這い上がり、トビーの足がすくむ。
トビーの怯えや身体のこわばりを、ルーカスは見逃さなかった。しかし、言葉で慰めることはしない。ただ、トビーの前にドンと大きな麻袋を置き、ポンと軽くその頭に叩きつけるように手を置いた。
「心配するな。十分な在庫がある。お前が持って行ってやれば、あいつらも助かるだろ。……今の『商人』の顔を見せてこい」
麻袋の中には、市場ではなかなか手に入らない上質な小麦粉、日持ちのする干し肉、そしてあの古い孤児院の湿気の多い床で膝を痛めている院長のための海草湿布が、崩れないように綺麗に詰め込まれていた。
「昼過ぎには戻ってこいよ。美味いものでも食いに行こうぜ」
ルーカスの快活な声に背中を押され、トビーは渋々ながらも、その麻袋を肩に担ぎ上げた。
事務所の扉を閉め、石畳を踏みしめて歩き出す。孤児院へと向かう足取りは、鉛のように重かった。
一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、胸の奥が締め付けられるような息苦しさを覚える。今さらどの面を下げるつもりだ。逃げ出したような自分が、こんな立派な荷物を持って戻って、何を言われる。「気取ってる」って笑われるんじゃないか。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響いたとき、トビーの肩にずしりと食い込む麻袋の重みが現実に引き戻した。
「お、ルーカスのところのトビーか」
通りがかりの乾物屋の店主が、トビーに気づいて声をかけてきた。かつては商品を運ぶのもおぼつかなかった少年に対する、冷ややかな視線などそこにはない。
「今日も頑張ってるな。あの角の薬局、お前が運んでくれたおかげで助かったって言ってたぜ」
「あ、ありがとうございます……!」
うまく笑えなかったが、丁寧に頭を下げた。すると店主は目を細め、誇らしげにうなずいて去っていった。さらに少し歩くと、街の辻で木工細工を削っていた職人が手を上げる。
「おおい、トビー!次の仕入れの材木、またお前のところに頼むからな。お前の積荷は本当に崩れねえから信頼できる」
かつてはただの荷物運びで、誰の目にも留まらなかった自分が、いまやこの迷宮都市の生活を支える血流の一部として認識されている。その事実に気づいたとき、トビーの丸まっていた背筋に、わずかな熱が灯った。
僕はもう、あのときのままじゃない。
見慣れた、しかし以前よりもずっと小さく古びて見える木造の孤児院の門前に、トビーは立ち尽くした。塗装が剥げかけた扉は、相変わらず風が吹くたびにギイィと乾いた悲鳴を上げる。
トビーは一度深く息を吸い込み、うっすらと手のひらに滲んだ汗をズボンで拭うと、ためらいがちにその板戸を叩いた。
コン、コン。
扉が開いた瞬間、かつての澱んだ空気とは違う、どこか気まずさと、予想外の来訪者に対する静寂が広がった。
廊下にいた数人の子どもたちが、トビーの姿を見るなり一斉に動きを止める。息を呑む音だけが聞こえた。彼らの瞳に映っているのは、ボロを着てうつむいていたかつての少年の姿ではない。きちんとした身なりをし、迷宮都市の風をまとった外の人間だ。子どもたちはどう反応していいか分からず、ただ固まっていた。
その沈黙を、一瞬で切り裂く影があった。
「おっ!兄貴じゃねぇか!!」
奥の部屋から、ドタドタと荒々しい足音を立てて飛び出してきたのは、ボロボロのシャツをまとった少年――カイだった。カイは周囲の緊張感などどこ吹く風とばかりに、トビーの胸元へ勢いよく飛び込んでくる。
「よぉ、兄貴!街ですげぇ評判になってるぜ、『ルーカスさんとこには凄腕の助手がいる』ってよ!俺、すぐ分かったぜ、それ絶対兄貴だもんな!」
カイの陽気な声と、変わらない無遠慮な笑顔。その圧倒的な熱量に、孤児院を包んでいた気まずい空気が一瞬で吹き飛んだ。
「ちょ、ちょっと、カイ……」
トビーは突然の体当たりによろめきながらも、と小さく声を漏らした。
カイに腕を引かれるようにして、トビーは食堂兼遊戯室へと足を踏み入れる。
集まってきた子どもたちや、足を引きずりながら歩いてきた老いた院長の前で、トビーは緊張で喉を鳴らしながら、背負っていた大きな麻袋を床に下ろした。
「これ……ルーカスさんからの差し入れと、その……僕からのです」
麻袋の口が解かれ、中から上質な小麦粉、たっぷりの干し肉、そして院長の膝に効く海草湿布の包みが次々と取り出された。
その物資の良さと量に、子どもたちは息を呑み、院長はしわだらけの手を震わせた。かつてカイが孤児たちの前で言い放った言葉――「トビーはノロマなんかじゃねぇ、誰よりも周りを見ていて、一番優しいんだ!」という真実を、目の前の物資とトビーの佇まいがそのまま物語っている。
「……こんなにたくさん。すまなかったねぇ、トビー」
院長が、しわだらけの手でトビーの肩をそっと叩いた。その手の温度は、かつてトビーが背中で感じていた冷たさではなく、驚くほど温かかった。
「ずっと、お前が去ったあと、みんなで話していたんだよ。私たちがどれほどお前の優しさに甘えていて、それを当たり前だと思っていたかって。すっかり、立派な商人さんだね」
院長のその言葉を聞いた瞬間、トビーの中でずっと溶けずに残っていたわだかまりが、春先の雪のようにスッと溶けていく。誰も自分を責めていない。みんな、自分の変化を受け入れてくれている。胸の奥のつかえが消え去り、トビーの目頭が熱くなったが、必死にそれをこらえて照れくさそうに頭をかいた。
「……いえ、僕は、ただルーカスさんに教わった通りに荷物を運んでるだけだから」
その謙虚で、けれど芯のある返事に、カイは腕を組んで得意げに鼻を鳴らした。
「ほら見たか!俺の言った通りだろ!兄貴はすげぇんだ!」
ほんの少しの滞在だったが、かつてのトビーにとって牢獄のようだった孤児院は、今はただの、昔お世話になった懐かしい場所へと変わっていた。
帰り道。
孤児院の門を背にして歩くトビーの足取りは、行きとは比べ物にならないほど軽やかで、確かなものになっていた。
頭の中には、あの事務所で自分を待っているルーカスの顔が浮かぶ。帰るべき場所があり、名前を呼んでくれる人がいて、自分の手で丁寧に運んだ想いや物が、ちゃんと誰かの笑顔に繋がっている。その事実が、今のトビーの足腰を力強く支えていた。
まばゆい日差しが、迷宮都市の石畳と、トビーの歩く道を明るく照らし出す。
トビーは小さく息を吸い込むと、明日への活力を胸に抱きながら、自分の本当の居場所へと駆けるように歩き出した。




