知らない時間 ~告白
ドアが閉まる。
彩の背中が見えなくなる。
オフィスは、いつも通りのざわめきに戻る。キーボードの音。電話の着信。誰かの笑い声。
全部、いつも通り。
なのに。
時計の針の音だけがやけに大きい。
・・・何時に戻る。
客先は移動含めて往復1時間。打ち合わせは1時間前後。夕飯。「軽く」って、どのくらいだ。1時間か。2時間か。
3時間は、ないよな。
視線が自然と壁の時計へ向く。
まだ、三十分も経っていない。
長い。
ありえないくらい長い。
大樹はキーボードを叩く。メールを返す。資料を修正する。指は動く。画面も変わる。仕事は進んでいる。なのに。ふと、また時計を見る。
五分。
たった五分。
舌打ちしそうになるのを飲み込む。
・・・何してるんだ。
自分に言い聞かせる。
客先だ。
仕事だ。
ただの夕飯だ。
それでも、頭は勝手に情景を作る。
向かい合って座る距離。テーブル越しの視線。グラスに触れる指先。笑ったか。頷いたか。その時間を、俺は知らない。喉の奥が、じわりと焼ける。
視線を感じる。
誠だ。
気づいている。いや、誠だけじゃない。四分の一くらいは察しているだろう。
さっきから、俺が時計を見すぎている事に。
「今日、なんか落ち着かないな」
小声で誰かが笑う。
大樹は肩をすくめる。
「月曜だからだろ」
軽い。
いつも通り。人好きのする笑顔。完璧だ。
また時計を見る。
18時を回る。
・・・長い。
誠が立ち上がる。
わざとらしく伸びをしながら。
「もう仕事、終了だろ~」
独り言のように呟く。
「今日はそんな予定じゃなかったんだけどなぁ~」
ちら、とこちらを見る。
「大樹さん、飲み行こうぜ」
一瞬だけ、迷う。
彩が戻る時間。もしかしたら、もうすぐ帰社するかもしれない。
顔を見たい。無事を確認したい。誰とどんな顔で帰ってくるのか、見たい。・・・見たい? 何を確認するつもりだ。
自分の胸の奥を、誠に見透かされている気がする。
「いいよ」
心とは裏腹に笑う。
即答。
「奢り?」
「なんでだよ」
自然なやり取り。
周囲が「俺も行くー」と声を上げる。いつもの流れ。誰かが言い出せば自然と人数が集まる。
大樹は椅子から立ち上がる。
ジャケットの皺を軽く整える。無駄のない動作。
スマホをポケットに入れかけて、ほんの一瞬、画面を点ける。
通知はない。
仕事のチャットは静かだ。
彩の名前も、当然ない。
当たり前だ。個人的な連絡なんて、した事もない。業務連絡なら何度もある。
「資料確認お願いします」
「承知しました」
それだけ。それ以上は、一度もない。
なのに。
なのに、ほんの少しだけ期待していた自分がいる。
バカみたいだ。
「お疲れさま」か?
そんなわけがない。
用事もないのに、あの人が送るはずがない。
わかっている。
わかっていて、画面を見た。
バカみたいだ。
ロックをかける。
ポケットにしまう。何もない顔で歩き出す。
エレベーターへ向かう足取りは一定。
背後を、振り返らない。
振り返ったら、何かを探してしまいそうになる。
誠が隣に並ぶ。何も言わない。ただ、横目で一度だけ見る。気づいているのか、気づいているだろうな。そんな視線。
大樹は笑う。
「今日、何飲む?」
声は明るい。
完璧だ。人に好かれる男。いつも通り。
なのに。
エレベーターの閉まる直前、胸の奥で小さく響く。
・・・帰ってきたら、誰と笑うんだ。
●●
暖簾をくぐった瞬間、外の夜気とは違う温度が肌に触れた。
炭の匂い。醤油が焦げる甘い香り。グラスが触れ合う小さな音と、低く弾む笑い声。店の奥から流れてくるそのざわめきは、不思議と居心地がよかった。
「お疲れー!」
グラスがぶつかる。
大樹も笑う。
「月曜から飛ばしすぎだろ」
声も表情もいつもの調子。他愛ない会話が流れる。会話は途切れない。
「今度BBQ行こうぜ」
「いいなー、海沿い?」
「お前、火起こし係な」
「なんでだよ」
笑いが重なる。
大樹は自然と中心にいる。相槌を打ち、話を広げ、軽く誰かをいじり、空気を回す。場は淀まない。完璧だ。
なのに。
グラスを置く。視線がほんの一瞬、横へ滑る。
テーブルの端。伏せられたスマホ。画面は黒いまま。ふれない。確認もしない。
その必要はない。
それでも、視線だけがスマホへ戻る。
誠は気づいている。何も言わないが、気づいている。
気づけば向かいに座っていた。周りはトイレに立ったり、スマホで通話しに行ったりで少し散っている。席があき、流れで二人。店内は相変わらず賑やかなのに、ここだけ少し静かだ。
誠がビールを一口飲む。喉を鳴らし、口角を上げる。
「今日は完全タメ口でいいぞ~」
わざと軽い声。
「タメだしな」
大樹は箸を止める。
「俺の方が1コ上ですけど」
口元だけで笑う。
誠は鼻で笑った。
「見た目はお前の方が若僧だよ」
グラスを置く。
「だから細かい事は気にすんな」
大樹は肩をすくめる。
「それ、褒めてます?」
「さあな」
誠の視線が、ゆっくり大樹の顔をなぞる。
「眉間に皺寄せてると、年くった時そこに皺、残るぞ」
自分の眉間を軽く叩く。
「それがカッコいいってモテたのはな、三船敏郎とか田宮二郎、中村錦之助・・・」
懐かしむように天井を見る。
「男前だからな」
大樹は枝豆を箸で転がす。
「錦之助って……誠さん、年いくつですか」
大樹が視線を上げる。
「何歳ごまかしてます?」
誠が吹き出す。
「うるせえ」
笑いが起きる。周囲が戻ってくる。会話はまた散らばる。
だが。
誠は一度だけ、低い声で言う。
「顔に出てるぞ」
グラスの縁越しに、視線が刺さる。
大樹は、瞬きもせずに笑う。
「何が?」
「さあな」
それ以上は追わない。周囲は気づかない。気づいていても気づかないふり。
いつもの軽口。いつもの二人。
でも。
大樹は、また自分の眉間に力が入っていることに気づく。無意識に。指先でそっとなぞると、誠がそれを見て笑った。
「ばあちゃん子だからな」
唐突な一言。
大樹は目を細める。
「時々聞きますね。それ。確か紫音くんも言ってましたか?」
「ああ、地元採用組は大体そうだ」
誠は枝豆を口に放り込みながら、さらりと言う。
「何の関係が??」
「知りたいか?」
にやり、と笑う。
「教えてやろう」
「もう酔ってます?」
「失礼な。ビールの1・2杯で酔うか」
ビールを一口飲み、少し真顔になる。
「彩さんも地元採用組だぞ」
その名前に、大樹の指がわずかに止まる。
誠は見逃さない。
「北陸は共働きが多いんだよ」
「それは少子化で・・・」
「ちゃうちゃう。今に始まったこっちゃないの。昭和の時代からだね」
グラスを揺らしながら続ける。
「二十四時間保育園が東京や大阪に初めてできました~とかニュースが流れてた時には、金沢にはとうの昔にできてたくらいさ」
軽く笑う。
「俺も行ってたしな」
遠くを見るような目になる。
「何年も勤めてるってばーちゃん先生に頭撫でてもらいながら、ほぼ毎晩保育園で寝てたわ」
苦笑する。
「母ちゃんが看護婦だとか、定番お水系だとか……まあ色々あるわな」
声は軽いが、どこか現実味がある。
「迎えに来るのも大概、ばーちゃんな」
テーブルの向こうで、誰かが別の話で笑っている。
そのざわめきの向こうで、誠は続ける。
「母親が迎えに来るって日の時はな」
少し間を置く。
「おんなじ教室の奴等が皆して『いいなあ~』って言ったりしてな」
冗談の調子のまま、目だけが静かだ。
「別に不幸ってわけじゃない。普通だ」
肩をすくめる。
「でも、そういう土地だ」
大樹は黙って聞いている。グラスの縁を指でなぞる。
誠が視線を戻す。
「だからさ」
僅かに声を落とす。
「甘え方、知らねぇ奴も多い」
空気が一瞬だけ静まる。周囲の笑い声が遠くなる。
誠はまた軽く笑う。
「ま、俺の話だけどな」
大樹は、ゆっくりと息を吐く。
「急にどうしたんですか」
誠は答えない。ただ、もう一度ビールを飲む。
テーブルの上には、まだ温かい枝豆。
居酒屋のざわめきの中、二人の間だけ空気が僅かに違う。
大樹はグラスを持ち上げ。
「・・・そういう話をするために誘ったんですか?」
軽い調子。だが目は探っている。
「悪いか?」
誠は即答する。
「別に・・・」
誠はビールを飲み干す。
「誘わなかったら、彩さんのとこに突撃しそうだったぞ」
冗談の体裁。だが半分は本気。
大樹の手が止まる。
「当たりだな」
沈黙。
誠はわずかに目を細める。
「彩さん、困らせるなよ」
穏やかに言う。
だがその奥には、地元の人間特有の距離がある。同じ北陸。同じ雪。同じ湿った空気。そして簡単に我慢する。強がり方も。
大樹が顔を上げる。
「もしかして、誠さん。彩さんのこと?」
誠は肩をすくめる。
「何? 知りたいか?」
そして言う。
「好きだぞ」
空気が変わる。
一瞬。
大樹の手が止まる。箸の先で枝豆が転がり、皿の縁に小さく当たった。
周囲では笑い声が上がっている。グラスのぶつかる音。焼き台の向こうで油が弾ける音。
店はさっきと同じように騒がしい。
なのに。
このテーブルだけ、音が遠い。
大樹はゆっくり顔を上げる。
「・・・彩さんの事ですか」
誠はビールを飲む。喉を鳴らし、グラスを置く。
「そう」
あっさりした声。冗談でも、からかいでもない。ただ、当たり前みたいに言う。
大樹は新たに来たグラスを持つ。一口飲む。味が、よくわからない。
誠はその様子を見て、ふっと笑った。
「いい女だろ」
軽く言う。
「放っとけないタイプだ」
それだけ言って、枝豆を口に放り込む。
「まあ」
視線はテーブルのまま。
「お前が思ってるより、面倒くさいぞ」
それから、ぽつりと付け足す。
「・・・あいつは、昔からそうだ」
大樹の視線が上がる。
「昔から?」
誠は肩をすくめる。
「さあな」
そしてビールを飲む。
「俺も詳しくは知らん」
大樹の視線が上がる。
誠はもう何も言わない。ただ、ビールを飲む。まるで今の一言なんて、口からこぼれただけみたいに。
けれど。
大樹の中では、別の意味で響いている。
誠は、それを否定しない。ただ、少しだけ笑った。
大樹は、無意識にグラスを強く握っていた。




