第8話 静寂のバルコニーと、バカ王子は何処に?
月が、王都を銀に染めていた。
夜風が緩やかに髪を揺らし、遠くで水音が響く。
断罪劇が終わり、宮廷は一時の静寂に包まれている。
リオネル・ド・グラント王子は、柵にもたれながら、目を細めた。
下界の灯が、まるで儚い星のようにちらちらと瞬いている。
(──アーロン兄上は、動き出したか)
兄の完璧な笑顔の裏に潜む焦燥を、誰も気づいていない。
だが、リオネルには分かる。彼の視線の揺らぎ、言葉の選び方。
“完璧であろうとする”者ほど、脆いものだ。
「……兄上のやり方は、やはり少し急ぎすぎですね」
『そうそう。あの子ったら、昔から“勝たなきゃ”って顔ばかりしてたもの』
──風に乗って聞こえる、懐かしい声。
リオネルは思わず目を閉じた。胸の奥が、微かに疼く。
(……まさか)
『ふふっ、下手に立ち回ろうとして足元をすくわれるわよ、アーロン王子も』
『そうそう、可愛い弟くんの方が余裕たっぷりなんだから、世話ないわ』
『ねえリオネル、覚えてる? あんたが泣きそうな顔で剣の稽古してた時、私たち全員で“よくできました!”って褒めたでしょ?』
『うんうん、あの時も頑張ってたもんねぇ〜。今も同じ顔してるよ』
──幻聴。
けれど、それは優しい、温かい声だった。
前世の姉たち──五人のうち、上の四人は筋肉質で逞しく、それでいて心根は限りなく柔らかかった。
彼女たちの声が、今もなお彼の心の奥に生きている。
リオネルはふっと笑みを零す。
「……褒められると、今でも悪くない気分です」
夜風がその笑みを撫でていく。
遠くで、聖女セレスティアの祈りの声が微かに響くのが聞こえた。
清らかで、穏やかで──まるで、あの姉たちの優しさを継いだような声。
「……貴女のような人を、もう一度守れるのなら」
リオネルの指先が、月光を掬うように宙をなぞった。
「王座など、要りませんね。私は、私のままでいい」
その夜、彼の心に灯ったのは、野心ではなく。
ただ、誰かを思いやる静かな温もり。
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マリエル・フロレンスの胸の内は、まるで大嵐のように掻き乱されていた。
先日、あの場で──リオネル王子は、確かに微笑んでいた。
断罪される側でありながら、誰よりも穏やかに。
まるで、彼の方が“許す側”であるかのように。
(おかしい……。この世界では、彼は乙女ゲームの“愚かで顔だけの王子”のはず……)
彼の発言も行動も、ゲームとは違っていた。
マリエルの記憶が正しければ、リオネルはあの場で取り乱し、怒鳴り、涙を流し──
そして辺境へ追放される運命だったはず。
なのに。
「おはようございます、マリエル嬢」
その声が、背後から穏やかに響いた。
思わず肩が跳ねる。振り返ると、そこにいたのは──先日、断罪されたはずの王子。
陽光を受けて金の髪がきらめき、薄い笑みが形を取る。
「……っ、リオネル王子……!? な、なぜ貴方がここに……」
「兄上のご厚意で、お詫びを申し上げる機会を頂きました。」
あの柔らかな声音。
あの、深く落ち着いた瞳。
“顔がいいだけの王子”なんて、言葉がまるで冗談のように思えてしまう。
(……違う、違う、こんなの……)
マリエルは唇を噛みしめた。
彼の笑顔が、なぜだか胸の奥を締めつける。
「マリエル嬢」
リオネルが、そっと一歩、距離を詰める。
その仕草に威圧感はなく、むしろ空気を包み込むような優しさがあった。
「先日は……辛い思いをさせてしまいましたね。
けれど、貴女が涙を流すほどの誠実さを持つ方だと知れただけで、
この数日のことも、報われた気がします」
「──っ、なにを……言って……」
目の奥が熱くなる。
彼の声が、心の奥まで染みていく。
『あんた、優しい人が好きだったじゃない』
『泣いてる子見たら放っておけないって、昔からそうだったでしょ?』
──幻のように、聞こえる声。
マリエルの耳には届かないけれど、リオネルの胸の奥では、またあの“姉たち”の声が微かに囁いていた。
彼はそのまま微笑む。
「……私は王座など望んでいません。
ただ、誰かを守りたいと思える心を、大切にしたいだけです」
その穏やかな瞳に、マリエルは息を呑んだ。
ゲームでは絶対に見せなかった表情。
こんな人だっただろうか?
──いや、違う。こんな人、知らない。
胸の奥で、何かが“きゅう”と鳴った。
(どうして……この人、こんなに……)
王族の威厳と、包み込むような優しさ。
まるで、太陽と風を同時に纏ったような存在。
マリエルは逃げるように一礼し、混乱する頭を振り払い、その場を去った。
背後で、リオネルの静かな声が、ふわりと追いかける。
「……良い朝を。マリエル嬢」
その声が、なぜだか、痛いほどに優しかった。




