閑話 完璧の均衡
王城の私室に、アーロン・ド・グラント第一王子の筆が走る音だけが響いていた。
緻密に書かれた文書。
歪みも滲みもない、美しい筆致。
だが、その筆先が、ふと一瞬止まる。
(……なぜだ。なぜあの“出来損ない”が、これほどまでに静かな存在感を放つ?)
アーロンは書面を伏せ、眉を寄せた。
リオネル。
かつては宮廷の笑い話にされるほど、軽薄な言動を繰り返していた弟。
その軽薄さを盾に、兄として、王としての自分の立場を保ってきた。
だが、昨日の断罪の場──。
(あの笑み。あの一言)
リオネルは、敗者ではなかった。
むしろ、すべてを見透かした“観察者”のような静けさを纏っていた。
それは王族としての風格よりも、むしろ“人としての深み”に近い。
「兄上のやり方は急ぎすぎです」──あの言葉が耳の奥で反響する。
完璧な王子と讃えられてきたアーロンにとって、
“弟からの忠告”は本来、取るに足らぬはずだった。
それなのに、妙に心がざわつく。
(……まるで、私の先を読んでいるようだった)
机上の書類を整えながら、アーロンは息を吐く。
心の奥底に生まれた違和感が、いつの間にか焦燥に変わっていた。
そこへ、控えめなノックの音。
「殿下、アンリエット嬢がリオネル殿下の訪問を受けられたそうで……」
「……なんだと?」
アーロンの手が止まる。
胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。
(アンリエットが……あのリオネルと?)
思考が瞬時に動く。
彼女は本来、自分の駒として最も有能な令嬢。
冷静で聡明、他者に惑わされぬ理性の持ち主。
そのアンリエットが、なぜ弟と……?
「……ふん。あの女も、意外と“見る目が甘い”ということか」
そう呟いた声は、皮肉を装っていた。
だがその奥には、確かな刺のようなものがあった。
窓辺に立ち、夜の帳を見つめる。
遠くの庭園に、リオネルの影が見える。
彼は誰かの話を聞きながら、柔らかく笑っていた。
決して誇示せず、ただ相手の心に寄り添うような笑み。
(……なぜだ。どうしてあんな顔ができる)
アーロンは、自分の拳が無意識に握られていることに気づいた。
完璧であることに縛られてきた彼には、
“欠けたままの優しさ”を持つ弟の自由さが、時に羨ましく見える。
(私の完璧は、計算だ。だが、あいつの静けさは……本物だ)
その違いを、認めたくはなかった。
けれど、見れば見るほど、無視できなくなっていく。
──完璧な王子、アーロン・ド・グラント。
その均衡は、音もなく揺らぎ始めていた。




