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赤い閃光 ボクサー赤井英和の短い夏

作者: 滝 城太郎

赤井英和は不良少年たちのヒーローでもあった。こんなにスタイリッシュで腕力もピカイチのヤンキーが令和の世に存在していたら、高校時代からSNS上で大騒ぎになっていただろう。それほどのポテンシャルを持ち、輝きも半端ではなかった赤井に陰りが見え始めたのは、雑誌のモデルになったのを機にビジュアル面でも注目を集めるようになってからだ。後に世界ライト級1位になった渡辺雄二も同じ轍を踏んで、表舞台から消えていったが、赤井の輝ける日も長くはなく、世界に挑戦した昭和五十八年の七夕前には、彼の夏は終わっていたのだ。

 昭和三十年代から四十年代にかけての日本ボクシングの黄金期ならばいざ知らず、具志堅引退後の低迷期にあった昭和五十年代後半、無冠の日本ランカーでありながら関西は言うに及ばず、全国中継で試合が放映されていたのは赤井英和くらいのものだろう。

 東洋タイトルマッチでさえ新聞の片隅に結果だけ掲載されていた時代、赤井は地方のスポーツセンターで行われたような試合でも、スポーツ新聞ではない全国紙に写真入りで報道されていた。

 とにかく絵になる男だった。パンチパーマでリングに上がっていた時分は、いかにもヤンキーあがりっぽく垢抜けないところもあったが、人気が全国区になりサッパリとした髪型で登場するようになると、下肢が長く中量級としては理想的な体型であることも相まって、ルックスの良さは日本人ボクサーの中では群を抜いていた。

 具志堅以降の日本人ボクサーとしては最強と言われた世界J・バンタム級チャンピオンの渡辺二郎が、WBAについでWBCのタイトルを手に入れ実質的な統一王者となった後も、人気面では赤井には及ばなかった。


 中学時代から地元西成では不良として勇名を馳せていた赤井は、浪速高校に進学してから本格的にボクシングを始め、インターハイのライトウエルター級で優勝している。

 いくら「ビーバップ・ハイスクール」の時代とはいえ、本格的に格闘技をやっている赤井の腕っ節は別格で、赤井が通学時に乗る電車の車両だけはガラガラだったらしい。

 西成出身の不良というと、相当な暴れん坊で、周囲に迷惑かけっぱなしという先入観を持たれがちだが、赤井がターゲットにしていたのは堅気の学生ではなく、堅気の学生に迷惑をかけそうな連中を選んで一種の“害虫駆除”を行っていたという。そのせいか、赤井は地元民には結構評判が良く、男気のある気のいいアンチャンといった感じのキャラだったようだ。


 近大に進学後はオリンピック出場を目指していたが、日本がモスクワオリンピックをボイコットしたためプロ転向を決意し、グリーン・ツダジムからデビューする。昭和五十五年、大学三年の時のことである。

 デビュー戦で鷹大拳(帝拳)を二ラウンドKOという前評判通りの強打を発揮した赤井は、当たるを幸いなぎ倒し、翌年の新人王戦でも後に世界ランキングの常連となる尾崎富士雄を三ラウンドで仕留め、昭和五十五年度全日 本J・ウエルター級新人王に輝いた。

 六回戦時代からそのパンチ力は中量級離れしており、当時日本J・ミドル級ランカーだったお笑い芸人のトミーズ雅は、スパーリングでまみえた二階級下の赤井のラッシュにたじたじだったと述懐している。

 腕っ節を買われ高校一年でボクシング部にスカウトされた当初は、ただパンチを振り回すだけのケンカボクシングだったため、なかなか勝てず、ボクシングから足を洗おうと思った時期もあったそうだ。しかし、赤井がとても喧嘩では勝てそうもないと思っていた部活顧問からシバかれ、諭され、思い直したという。

 赤井がある程度プロでやれる目処がついたのは、近大入学後にグリーンツダジムでコーチを受けるようになってからである。右腋にグローブを挟み得意の右を封印した状態で左だけで打つ練習を続けた結果、リードの左ストレートの伸びが格段に良くなり、左連打だけで相手を追い込んで右でフィニッシュというKOパターンが完成した。


 「浪速のロッキー」の愛称は五十六年末、八連続KOを記録した頃からだったように記憶している。一歳年下で同じく八連続KO中の浜田剛史(当時はライト級)でさえ、この頃は赤井の陰に隠れ存在感も薄かった。これは地味で努力家の浜田と派手でビッグマウスの赤井のキャラクターの差もあったと思われる。

 昭和五十七年九月、トム・シンサノンサクディ(タイ)を二ラウンドKOに下し、ムサシ中野の持つ十二連続KOの日本記録に並んだ頃の赤井人気は凄まじく、ようやくWBC世界J・ウエルター級五位にランクされたばかりにもかかわらず、マスコミでは世界チャンピオンを凌ぐ扱いを受けていた。当然のことながら、タフでハンサムな赤井は大いにモテたが、実力以上に過大評価され、周囲からちやほやされたことが、彼の大成を阻んだといっても過言ではない。

 同年十二月、日本記録更新を懸けた赤井は知念清太郎の予想外の粘りにあってKOを逃し、記録はタイに留まった。翌年内に世界挑戦が噂される赤井に日本ランカーの知念をぶつけたのは、明らかに記録作りのためである。しかし、係者の思惑とは裏腹に、この出来レースまがいの対戦は、咬ませ犬にされた知念のファイティングスピリットを煽る結果となった。

 赤井は身長一七六センチでリーチが一八一センチと長く、ウエルター級以下であれば体格的には外国人にも全く引けを取らない。その長いリーチを生かした左右のストレートはさすがに世界ランカーにふさわしい威力を秘めていたが、左ジャブに工夫がなく上体が硬くぎこちないため、攻めが単調になりがちだった。

 そのため早いラウンドで決着がつかなかった場合や、上体が柔軟でフットワークのいいボクサーが防御に徹すると、追いきれないところがあった。攻撃しているときはまだしも、動きがぎこちないぶん、攻められるとバランスを崩しやすく、逃げ足は遅い。

 尾崎以外には骨のある相手と対戦することがなかった赤井は、パンチはあっても攻撃の粗さと防御の甘さがあまり表に出ないまま連勝を続けて世界ランカーにまではなれたが、とても世界戦に臨めるようなスキルは持ち合わせていなかったのだ。たとえ日本人相手でも日本か東洋のチャンピオンクラスと対戦していればまだしも、力任せのボクシングでも押し切れる程度の相手としか戦ったことがなければ、技術の進歩は期待できない。攻撃一辺倒のボクシングスタイルが赤井人気の原動力とはいえ、インターハイ王者という実績を持つ大器を「客寄せパンダ」にしてしまったのは関係者の失態と言うべきだろう。

 後にトレーナーについたエディ・タウンゼントが「もう少し早く、自分が指導していれば世界チャンピオンになれた」と惜しんでいたが、伸び盛りを棒に振った赤井はすでにロイヤルロードを見失っていた。


 昭和五十八年七月七日、七夕の夜、赤井は初の世界戦を迎えた。対戦相手のWBC世界J・ウエルター級チャンピオン、ブルース・カリーは後の中量級スター、ドン・カリーの実兄である。二階級を制覇した弟が強すぎたうえ、私生活でもトラブルが多かったことで、B級王者のレッテルを貼られていた兄ブルースは「愚兄」扱いされていたが、世界レベルの何たるかを知らない赤井にとってはかつてない強敵だった。

 相手が過小評価されていたせいもあってか、自信満々の赤井は七夕にちなんで「七ラウンドでKOする」と大見得を切っていたが、ガウンを脱いだ時の筋骨隆々としたブルースの肉体と比べると、上背はあっても腕も脚も王者より細い赤井は何とも心もとなく見えた。

 鋭いジャブがない赤井は、非力でもスピードのある王者のリズミカルなパンチをさばき切れず、次第に顔面を腫らしていった。たまにクリーンヒットはあっても、ほとんどが単発でコンビネーションが決まらないため、後が続かない。五ラウンド以降はいいようにあしらわれた赤井は、七ラウンドに左フックを浴びて膝から崩れ落ち、試合は終了した。

 再起後もKO勝ちは続いたが、相手は格下ばかりで前途は多難そうに見えた。昭和五十九年になると、十三連続KO勝ちの日本記録を樹立した浜田剛史の方にファンの注目が集まった。浜田は日本タイトル、東洋タイトルと順を追って着実にチャンピオンへの階段を昇っていったが、これは赤井の時期尚早な世界戦の二の舞を踏ませまいと考えてのことだったのだろう。

 同年、赤井に一ラウンドでKOされた塚田敬が、同じくKO負けを喫したことのある三原正(元WBA世界J・ミドル級チャンピオン)の方が赤井より強い、と言っていたように、すでに赤井の時代は終わっていたのである。

 もはや世界の芽がないとはいえ、赤井は相変わらずドル箱であり、世界戦失敗後もテレビ中継は続いていた。再起後は五連勝(三KO)し、世界ランキングの末尾に名を連ねる赤井にもう一度世界挑戦の機会を与えるためにお膳立てされたのが大和田正春との一戦だった(昭和六十年二月五日)。

 私は赤井ファンだったが、この一戦が世界への前哨戦としてテレビ中継されることになった時は、正直赤井はKOされて引退した方がいいと本気で思ったものだ。なぜなら大和田の戦績は八勝八敗(七KO)一引き分けと冴えないうえ、六度ものKO負けがある典型的なグラスジョーで、誰が見ても赤井の引き立て役だったからだ。

 こんな見え見えの出来レースで世界戦へ弾みをつけようなんてファンを馬鹿にするにも程がある。

 当然、試合予想も赤井の楽勝が大半で、赤井自身も大和田のことを散々にこき下ろしていた。黒人とのハーフで幼少時より言われなき差別を受けていた大和田は、今宵もまた赤井の世界挑戦を実現させるために選ばれた生贄の子羊同然だったが、神は生贄の血を臨まず、代わりに剣を与えたのだ。

 序盤こそ赤井のペースだったが、KOを狙い過ぎるあまり防御がおろそかになり、不用意なパンチをもらいすぎた。大和田を舐めていたのか、子供の喧嘩のようなテレフォンパンチを繰り出してはスタミナを消耗していった赤井は、アリ対フォアマン戦の再現のように、中盤以降めっきりスピードが落ち、大和田のパンチに反応できなくなった。

 大和田は大振りでパンチのスピードこそ大したことはないが、一発一発が重かった。決して打たれ強いわけではない赤井は、七ラウンドに何でもない右フックをまともに喰らうと、首をのけぞらせて尻からキャンバスに落ち、そのまま失神した。

 脳挫傷と脳内出血により生死の間をさまよった赤井は何とか命だけは取りとめたが、もはやスポーツどころか日常生活もままならないほど運動機能が低下し、大和田戦を最後にリングとは永遠に決別することになった。

 逆に赤井戦の勝利で自信をつけた大和田は日本タイトルを獲得し、絶対不利を予想された大和武士との防衛戦でも少年院あがりのヤンキーの星をKOで屠るなど、随所で番狂わせを演じる人気者になった。

 

 退院後の赤井は、壁にぶつけて跳ね返ったバレーボールをキャッチできないほど反射神経が衰えていたが、懸命なリハビリによって何とか日常生活に不自由がないほど回復すると、自伝小説『どついたるねん』のヒットと、映画化の際に主演を演じたのを機に、タレント業に活路を見出し、今に至る。  

 生涯戦績 十九勝二敗(十六KO)

赤井の世界戦も引退試合となった最後の試合もテレビで観たが、いずれの試合もリングに上がった時の姿がなんとなく青白く弱々しかったのが印象的だった。ボクサーとしての先が見えていたので、最後の試合は、どうせなら浜田剛史と対戦してほしかったが、大和田でなく浜田が相手ならリング上で昇天していたに違いない。そういう意味では大和田を選んで正解だったのだろう。

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