第五話 空海
それは、まるで壺の内側のような場所であった。
うっかり足を踏み外し、気がつけば岩肌に囲まれ、そそり立った崖の真上に、ほんの少しだけ天がのぞいている場所に、一人、倒れていた。
地下水が湧いているのか、雨水がたまっているのか──すぐそばに大きな水の溜まりがあり、飲み水の心配はなかったが──。
──ああ。死んだな。と、足の骨を折り、脱出の術を見出すことができなかった少年は、絶望感にさいなまれる。
それでも、幾日も昼と夜を繰り返す中、腹が減っては水溜まりまで言葉通り転がって移動し、頭ごと水に突っ込んでは腹を満たし、命を繋ぐが、それも、すぐに限界が訪れる。
飢えて身動きができなくなった少年の、遠のく意識と視界の中──陽の光のような、金色の何かが揺れたような気がした。
◆◇◆
「というわけで、亞輝斗は私の、吉野で修業していた頃の、命の恩人なのでございます」
その命の恩人を、例によって素晴らしい筋肉で、後ろからギリギリと締め上げ固めながら、空海は感慨深そうに思い出を語った。
当の亞輝斗は「離せやめろ」と、抵抗を試みてはいるものの、脱出するには至らない。
「それでは、彼らの身元の保証は」
「はい。私が証言しましょう。亞輝斗は鬼ですが、人に害を為すモノではなく、むしろ、人を守護するモノにございます」
岑守の問いに、空海は「なんてったって」と、自慢げに笑う。
「亞輝斗は修験道の開祖、役小角様の、一番弟子にて、式神ですから」
「はぁ?」
岑守と広野が素っ頓狂な声をあげた。
修験道とは、日本古来の山岳信仰と、大陸伝来の仏教が混合した、日本固有の宗教である。
その開祖である役行者は、神通力を扱い、様々な『鬼』や『神』を従えたとされる。
そして、そんな神たちを代表して、善童鬼と妙童鬼──または前鬼と後鬼と呼ばれる、二匹の小鬼を従える姿で、しばしば描かれ、伝えられていた。
確かに先ほど、伊吹大明神が亞輝斗のことを、『善童鬼』と、呼んでいたのを、広野は聴いたが――。
「な……なんだよ」
急に皆にジッと見つめられ、恥ずかしくなったのか、亞輝斗が赤面してうつむいた。
全然、小さくないし……と、亞輝斗の巨体を見ながら、一同思ったことはさておき。
「それはともかく、私というものがありながら、どうして浮気しに、吉野からわざわざ出てきたんです?」
「浮気じゃ無ぇし、そもそも浮気ってなんだよッ! 真魚の真言密教とは違うけど、似たような宗派があるってウワサで聞いて、どんなモンか気になったんで、ウチの義覚派遣しに来たんじゃねーか!」
とりあえず離せッ! と、ジタバタもがく鬼に、意地悪そうに広野がニヤリと笑う。
「鬼の貴様も、偉大な空海殿の格には及ばないというワケか」
「ばっきゃろー。コイツは別なの! 昔助けた時に飲ませた命の水に適合しちまって、鬼並みに身体強化はされるわ、妙にカンが冴えてるわで……」
助けるんじゃなかった……と、涙目でため息を吐く亞輝斗の言葉に、竹生がぴくりと反応した。
「命の水って……」
「おう。そう。アレだ。お前と一緒」
竹生がじぃっと、空海を見上げた。
高僧は愛嬌ある顔で、にっこりと笑う。
後年、竹生こと篁は、この時代には珍しく、六尺二寸まで見事に成長することになるのだが、とりあえず、今はさておき。
「とにかく、お前を無下にしたいわけじゃねぇんだ。お前にはいつも、感謝してるから!」
「……本当、ですか?」
空海は、ようやく亞輝斗から手を離し、解放した。
が。
「嬉しい! 私、いつでも貴方の力になりますから!」
「だぁぁぁあ! 離せってばッ!」
今度は正面から勢いよく抱きついて、亞輝斗をひっくり返す。
「なぁ、岑守……ちょっと聞いていいか」
「はい。なんでしょう」
声を潜めて問いかける広野に、なんとなく察した岑守が、竹生の耳を後ろから両手で塞いだ。
「この坊さん、なんというか……もしかして……」
「えぇ……まぁ、お察しの通りです……」
実に、言いにくそうに答える岑守。
色欲は禁忌とされる仏教世界。さらに、小竹祝と天野祝の逸話のように、男色が表だって歓迎されていなかった古代日本国において、唐から男色文化を持ち込んだのは、空海だと言われている。
◆◇◆
亞輝斗や空海たちが近江国で騒いでいる間も、都と南都の兄弟喧嘩は続き、さらに険悪さを深めてゆく。
神野帝の行動を知った安殿上皇は、輿に乗って、薬子とともに東へ移動を開始した。
そして、上皇側の動きを察知した神野帝の臣たちの手により、薬子の兄、仲成が射殺された、丁度その頃──。
「ところで、なんで真魚は、此処に居るんだ?」
都から至急の連絡が入り、岑守と広野はバタバタと持ち場へ戻った。
竹生と義覚もうとうととし始めたので、部屋へ返して、今は亞輝斗と空海、二人きりだ。
自分たちが竹生や岑守たちと遭遇し、足止めされて、一日も経っていない中、あまりにも早すぎる……と、不可解そうな亞輝斗に、空海はあっさりと答えた。
「元々、諸々の事情で、京に滞在してはいたのです。が、「神野の帝の為に祈りなさい」と、私のカンが告げてまして、勝利祈願をしておりましたところ、野殿よりご連絡をいただきまして」
不敵にほくそ笑む空海に対し、「コイツの生臭っぷりは、本当に僧に向いてないな」と、亞輝斗が盛大にため息を吐いたことはさておき。
「戦勝祈願ほっぽり投げて、大丈夫なのかよ……」
「心配してくださいまして、ありがとうございます。表立った儀式は終わりましたし、弟子たちが交代で祈り続けている」
しかし、名残惜しいですが、日が昇れば、私も一度戻ります。と、残念そうに空海は肩をすくめた。
「それにしても、伊吹山の神の、息子……ですか」
亞輝斗の話に、唇を尖らせながら、空海はぼやく。
「残念です。「比叡の山」と、神の指定が無く、貴方さえ良ければ、義覚君ごと、ウチで面倒見ても良かったのに……」
「だーから、その比叡の山の寺に用事があるんだっての」
亞輝斗は呆れて、何度目かもわからないため息を吐いた。
「言っておきますけど、アイツより、私の方が優秀なんですからね!」
「……知り合いなのか?」
えー。知ってます。と、空海は頬を膨らませる。
ただ、その言い方から、あまり良い関係ではないのかもしれないという事が、さすがの亞輝斗にも察せられた。
「国家公認で留学させてもらったくせに、大した師に教えを請わず、短期間であっさり帰国して……アレで密教の本質が理解できるか―ッ!」
訂正。コレは、ただのヤキモチのやっかみだ。と、亞輝斗は直感で理解する。
なお、あーだこうだと理由をつけて、二十年の予定を二年ちょっとで帰ってきた空海も大概といえば大概なのだが、それはまた、別の話。
※:本文中、空海が岑守の事を「野殿」と呼んでおりますが、史実で岑守が唐風に「野 岑守」というペンネームを使っていたことに由来しております。脱字ではありません(笑)。




