第二話 真言を操る鬼
目が覚めると、まるで言葉通り『憑き物がおちた』ような晴れなかな顔の岑守に対し、広野は終始不機嫌だった。
「お……おはようございます」
「……はよ」
一応挨拶は返してくれたが、目に見えてふくれっ面の広野に思わず岑守は苦笑を浮かべる。
「昨日のことは置いておいて、とりあえず与えられた仕事をしましょう?」
岑守と広野が無理矢理夜間移動を強行して着任した理由は、二人と同時に赴任が決まった国司、藤原貞嗣や御長広岳を向かえるための雑務の指揮をとるためである。
また本来の目的である平城京の安殿上皇と、東国の反乱分子を分断する任務も忘れてはいけない。
きちんと命じられた仕事をしなければ。
が。
「あの鬼はどうした」
言ったそばから忌々しそうに広野が口を開いた。
やれやれ……と、年若い同僚に岑守は肩をすくめる。
「大人しく二人して、牢に入っているそうですよ」
もちろん、岑守自身が確認したわけではない。
雑任たちの報告から聞いただけの伝聞だ。
そんな時だった。
ずしんッ! と、地面が大きく揺れる。
「な……」
「地震か!」
しかし、揺れたのは一瞬の事。
何か大きなものが、地面に落ちたかのような――。
「いよう! おはようさん! お? お前さん、顔色良くなったな! 元気そうじゃねーの!」
調子はどうだい? と竹生を肩車しながら、あの金髪の鬼がのしのしと部屋に入ってきた。
「な……竹生!」
「おい! コラッ! どこが牢の中で大人しく! だ!」
今にも鬼に食いつきそうな勢いで、広野が岑守に叫ぶ。
しかしそんな彼を無視して、鬼の肩から飛び降りるように地面に降りた竹生は嬉しそうに父親に駆け寄った。
「すごいです! 亞輝斗は! このあたりを治める土地神様が、亞輝斗にむかって、頭を下げてお礼を言いに来たんです!」
「いやー、お前さんに憑いてたあの伊闘那な。このあたりを荒らしまわってて、土地神の奴すごく困ってたんだと。んで喰った……げふん、退治した礼に大量の品をもらったんだが……」
ちょいちょい。と鬼は二人に手を招く。
恐る恐る建物の入り口についていくと、思わず岑守と広野の目が点になった。
豪華な錦の山に、山の恵みのみずみずしい木の実や果物。箱に入った金銀財宝と、そして――。
「く……熊ぁ!」
熊や猪、鹿といった中型から大型の動物の死体がいくつか。
まるで先ほどまで生きていたかのような新鮮さで、捌いてうまい事保存すれば肉はしばらく美味しくいただけそうだし、良い毛皮が取れるだろう。
もっとも、仏教が浸透した貴族階級の二人にとって動物の殺生は禁じられていたし、肉食などもってのほかだが。
絶句する二人をよそに、赤い目を細めて鬼は気前よく笑う。
「オレらは旅の身の上だから、こんな大荷物は正直持てないんで、ぜーんぶお前らにやるよ」
そしてふと、何か引っかかった顔をし――思い出したように、ポンっと手を打った。
「そうだそうだ」
箱を一つ開いてガサゴソと中身をかき混ぜ、そして取り出した中身を、広野に向かって放り投げた。
「コイツはお前さんにやるわ。昨日壊しちまった、詫びの品!」
それは、一本の大きな太刀。
美しい作りだが広野の使っていた太刀よりも、一回り程大きい。
投げてよこした鬼を睨みつつ、しかし相反して、まるでその太刀の輝きに思わず一目惚れをしてしまったかのように、広野はほう――と熱いため息を吐いた。
「っつーわけで、厨かりるぞー」
「……は?」
能天気な鬼の言葉に、広野はハッと我に返る。
声をしたほうを振り返ると、鬼は巨大な熊を抱えて自分たちを通り過ぎ、建物の中をのしのしと歩いていた。
「おいコラマテッ! その熊どうするつもりだッ!」
「え? 料理。一晩泊めてくれたお礼にお前らの今日の昼飯、作ってやるよ」
広野の怒声に、鬼はきょとんとした表情で答える。
「あ、こう見ててオレ、飯炊き得意なんだ。ヤギョウからの評判もよかったし、楽しみに待っててくれ!」
熊を肩に抱えたまま、しがみつく岑守と広野を引きずって鬼は厨へ突入し、そして案の定、そこで働く者たちの阿鼻叫喚の悲鳴がこだました。
◆◇◆
「まったく、何やってるんですか……」
大柄な体でちょこんと正座で待っていた亞輝斗を、少年はじっとりと睨んだ。
鬼とは違い、牢の中で真面目に大人しく一人で待っていた義覚を岑守は連れ出し、そして二人の聴取を開始する。
鬼の調理中ずっと見張っていたが、妙なものを入れた形跡もなく、一口食べると悲しいかな――その料理は本当に美味しかった。
また、これまでの言動でこの鬼は、突拍子のない行動は起こすものの、決して悪いモノではなさそうだ――と岑守は判断。
広野が暴れてはいけないと思い、彼にはこの場では席を外してもらった。
「私は、大和国吉野より参りました。由衛と申します」
跪いて礼をする義覚に、岑守は眉を顰めた。
「たしか君は、義覚、と呼ばれていなかったですか? それに、大和国――その鬼は、東国の悪路王や阿弖流為とは、無関係?」
岑守と広野の父、小野永見と坂上田村麻呂が、東国に住まう蝦夷と闘い勝利したのが、約八年前の事。
「『義覚』は本当は、自分のじいちゃんだか、そのもっと前だかの先祖の名前です。亞輝斗様、全然名前覚えてくれないんで、自分の一族、全員一括して『義覚』って呼んでます」
じっとりと睨む義覚に、亞輝斗は照れたように笑う。
うん、例によって褒めてない。
「そんなわけで亞輝斗様は一応、吉野一帯の土地神ってことになってるんで、たぶんその、東国の鬼とは関係ないんじゃないかなーと思います。今みたいに時々暇して、『里を出る者を守護する』って口実で、一緒にくっついてウロチョロしてますけど、基本はウチから動きませんし……」
「悪路王に阿弖流為か……名前は聞いたことあるけど、直に会ったことはねーなぁ……」
義覚の言葉に、うんうんと亞輝斗はうなずいた。
「三輪山の大物主とか、葛城山の一言主は、近所のよしみでダチだけど」
岑守が噴き出し、調書の記録をとっていた雑任の手が思わず止まる。
なんか、すごい名前が出てきたし……。
「そ……それで君たちは一体、何処に向かおうとしていたのかい?」
気を取り直して、岑守は義覚に問いかけた。
「はい。自分たち……というか、自分の目的は比叡山に行って、仏門に入ることです。……さすがに亞輝斗様は、山に入る前に門前払いでしょうけど」
「ウワサに聞いてさ、気になってんだよなー密教! 独学で真言勉強してるけど、ホントなら義覚派遣せずにオレ自身が弟子になりてぇ」
亞輝斗の言葉に、岑守は耳を疑った。
同時に、先日狐に憑かれた際に、かすかに記憶に残る、不思議な音の響き……。
「あれは、真言だったのか……」
「? お前、知ってるのか? もしかして、比叡山に知り合い、いたりする?」
亞輝斗の言葉にハッと岑守は顔をあげ、そして首を横に振った。
「いや、比叡山ではないが――知り合いに密教に詳しい人間がいるので……」
「なーんだ。紹介状書いてもらおうと思ったのに……」
ちぇっと子どものように唇を尖らせ、亞輝斗が床に寝そべった。
「残念ながら現在、近江国は平城京からの人間の流入を制限しています。あなた方は十中八九、無関係だとは思うのですが……」
岑守は立ち上がり、そして二人に向かい合うよう膝をついて、頭を下げる。
「牢ではない、きちんとした部屋を準備させます。ですから申し訳ないですが、しばらく此処に逗留していただきたい」
ぶーぶーと文句を言う亞輝斗を義覚がたしなめながら、二人は部屋を出て行った。
そんな背中を見送りながら、岑守は雑任に指示をする。
「文を……そして、都に早馬を。たしか、彼が、滞在していた筈――」