プロローグ
「……られ……、知りま……からね。……は」
朦朧とする意識の中、頭の上で声が聞こえる。
周囲はまるで雨上がりのように、ムッとした植物の匂いと、じっとりとした湿気に包まれている。
その声が少年の頭の中で、音から言葉として認識できるようになるまで、しばしの時が必要となった。
はて、此処は、どこだろう。
自分は、一体……。
「貴重な貴重な命の水を、こーんな死にかけの、それもちっさい子どもに、ぜーんぶ与えるなんて。お姫さまの機嫌が悪くなっても知りませんからね!」
「だいじょーぶだいじょうぶ。アレはアイツがオレにくれたもので、だからオレが好きなときに自由に使って、全然まったく、問題なーっし!」
刺々しい怒声に対し、実に清々しいほど、あっけらかんとした男の声。
いのちのみず……? なんのことだろう……。
少年……竹生は、ゆっくりとまぶたを開ける。
目の前には今まで見たことの無い、輝くような金糸の髪。
「お。気がついた」
同行者の怒りの矛先を逸らせるように、明るく朗らか。かつ、華やかな笑顔を向ける大柄な美丈夫のその頭には、長くて鋭い二本の角。
「………………えッ!」
竹生は勢いよく飛び跳ねるように起き上がると、一目散に後ずさった。
が。
「おーい、急に動いて大丈夫か?」
「そりゃアキト様見たら、大概の初対面の人はそうなりますって。めちゃくちゃ長生きしてるんですから、いい加減自覚してくださいよ」
くらくらと目を廻して倒れる竹生を鬼は長い爪で傷つけないよう、器用に抱え起こす。
同行者の少年はそんな鬼をぞんざいに指さしつつ、ため息を吐きながら竹生に説明した。
「あー。無理もないけどコレ、一応ウチの山里の土地神様(仮)なんで大丈夫。怖くない。下手に怒らさない限りは人畜無害」
鬼はえへんと胸を張り、にっかりと笑った。
別に褒めてない。とじっとりとした少年の視線が物語る。
「亞輝斗だ! よろしくな!」
「ほ……本当に、僕を、食べない……?」
おそるおそる、竹生は顔をあげた。
上目遣いにジッと鬼の、炎よりもなお赤いその瞳を見つめる。
「おう! 昔は人間の肉を美味しく喰ってたけど、今は……って、おーい!」
抱えた手の中でぐったりと気絶する竹生に、亞輝斗はおろおろと慌て――そんな彼の尻を「自業自得だ」とばかりに、少年が思いっきり蹴っ飛ばした。
これが、後に「地獄の官吏」と呼ばれる小野篁の、人外の異形との初めての接触だった。