絶対に開かない箱
絶対に開かない箱が発売されたとき、人々は懐疑的だった。
誇大広告やエセ商品がちまたにあふれていたからだ。
それでもほんのすこしは売れた。ほんのすこしは。
なにごともなければそのまま埋もれてしまう商品だった。店の棚からなくなり、ネットショップからリンクが消え、人々の記憶からも忘れ去られる。売れ残りは廃棄され、あまたのニセ商品たちと一緒にゴミ集積場の山をすこしだけ高くする。
だが奇妙な裁判が起こり、ネットニュースの穴埋め記事として掲載されたとき、人々の関心はわずかにあがった。
〈「絶対に開かない箱」を開けるよう求める請求、棄却される〉
「絶対に開かない箱」を買った者が、どうしても箱が開かないので開けてくれと開発者と販売業者を訴えたのだ。そしてそれは棄却された。なぜならその箱は、開発者にも販売業者にも開けることができないからだ。
絶対にできないことを求めても意味はない。裁判所はそう判断した。
これはいわば裁判所のお墨付きであった。この箱は絶対に開かないという。
その日から「絶対に開かない箱」の売れ行きは伸びはじめた。どうやらこれは「本物」らしいぞ、人々はそう思ったのだ。事実そうだったのだ。
販売業者もうまかった。売れ行きが伸びはじめると同時にキャンペーンをうった。
〈この箱を開けたら100万ドル〉
「絶対に開かない箱」を開けてみろという挑戦だった。世界中から猛者たちが参加した。すご腕ハッカー、単なる力自慢、機械技師、工学博士、暗号解読のプロや収監中の伝説の金庫破りまで。
多彩な挑戦者たちが現れ、幾度も箱を開けることを試みたが、だれひとりとしてその箱を開けることはできなかった。
そのうち、老舗包丁メーカーやドリル会社、強固な岩盤をも掘削するスーパーマシンを有する世界的な会社まで参加したが「絶対に開かない箱」の前にいずれも敗北していった。
量子力学者がこの箱はいま開いてる状態と開いてない状態の重なり合った状態だと言い張ったり、文学者が箱が開いた小説を書いたり、哲学者がそもそも箱が開くというのはどういうことなのかを議論したが、それらはいずれも「絶対に開かない箱」にまつわる外野のにぎやかしで終わった。
そうしてるあいだにも箱は売れつづけた。売れ行きはうなぎのぼりで、その年の人気商品ナンバーワンとなった。
人々は箱を買い求め、それぞれおもいおもいに〈なにか〉を入れて箱を閉じた。鳴ったか鳴らないかさだかでないカチリ、という小さな音がした瞬間からその箱は究極の密室となった。絶対に開かない空間。だれも侵入できない永遠の時間。
ある者はお金や宝石、財産を入れたが、ある者はその人だけの大切なもの――手紙や日記、写真や思い出の品々――を入れて箱を閉じた。
なかには一風変わった者もいて、箱の中にそっとつぶやいて、すぐに蓋を閉めた。言葉と思いを永遠に保存しておくのだという。
悪用する者も現れた。見つかってはまずい証拠品や隠しておかねばならない品々を箱に入れてしまうのだ。そうすれば箱は絶対に開かないから、絶対に見つからない。
かわいそうなのは子どもたちで、好きなおもちゃや海辺で拾ったきれいな石などを大事にしまっておこうと箱に入れるのだ。当然箱はだれにも開けられないから、永遠に自分のもとには返ってこなくなる。入れたものが本人にとって大事なものであればあるほど子どもたちは泣いた。そうして物事というのは有限であること学んだ。無限に開かないこの箱によって。
もちろんニセ商品もちまたにあふれた。おなじ謳い文句で、「絶対に開”けられ”ない箱」「究極綴じ込め函」など名前を変えて販売された。
当然それらはニセモノだから、ちょっと苦労すれば開けられる。大事なもの、隠したいものが白日の下にさらされることとなった購入者は失望と大いなる怒りをぶつけ、ニセモノはすぐに市場から駆逐された。
結局、本物だけが生き残った。「絶対に開かない箱」のシェアは99%で、残り1%がしぶとく人々を騙しつづけるニセモノだった。だが本物とニセモノの見分け方は簡単で、開かない方が本物で、開けられるのがニセモノなのだ。
そうしてしばらくは「絶対に開かない箱」のブームがつづき、一家に一箱からひとりに一箱になり、そのうちひとり複数箱となった。いくつもの「絶対に開かない箱」を所有して、人々は満足した。
箱は当然のように生活に、人生に定着した。「絶対に開かない箱」が定着しすぎたせいで、「箱」と言ったときは「絶対に開かない箱」のことを指すようになった。開けることができる箱は単に「開けることができる箱」とだけ呼ばれた。
だが、ここまで流通し、人々の生活に欠かすことのできなくなった時点で、「絶対に開かない箱」は一周したのだと言う者もいた。
当初の役目である〈絶対に開かない〉が浸透し消費し尽くされたのち、一周してあらたな欲望が人々のなかに芽生えはじめたのだ。
箱を開けたい。中に入れたものを取り出したくなった。
箱に入れたお金が必要になった、大切なものをもう一度見たい、人にプレゼントしたい、思い出の品を死ぬ前にもう一度見ておきたい、なにを入れたのか記憶があいまいだけどきっとすばらしいものを入れたはずだ、あのときつぶやいた自分の言葉がなんだったのかもう一度聞きたい……
箱に入れたときの思いが強ければ強いほど、開けたい欲求は高まった。一度そう思ってしまうともう消えない。むしろ、見えはしないが目の前の箱の中にあることがわかっているだけに、思いは強烈に募っていった。
そうして人々は箱の開発者や販売業者に要求した。開けてくれ。
日増しに要求は高まって、訴える人数も増えた。ピーク時には購入者の九割が箱を開けることを求めた。すさまじい数のクレーム、SNS上の怒声、裁判も連日行われた。
そうして世論の圧力に屈するかのように裁判所は箱の開封命令を出した。画期的な判決だった。世の中はわきあがった。だが。
開発者にも販売業者にも箱は開けられなかった。もともと〈絶対に開けられない〉のだ。不可能なのだ。
販売業者は慰謝料を払うことにした。しかし金額があまりに莫大ですぐに倒産した。開発者は連日の誹謗中傷に耐えかねて、自分と同じ大きさの「絶対に開かない箱」の中に入って出てこなくなった。いや、もしかしたら出られなくなってしまったのかもしれない。
そうしていま、みなさんもご存じのように「絶対に開けられない箱」は姿を消して、市場には「開けられる箱」があふれている。
ある者は言う。箱とは「開けられる」という意味を本来内包していたはずだ。だが「絶対に開けられない箱」はそれを裏切った。だからこの結末は必然だったのだと。
騒動のあと、箱の中のものを出せなかった人々の対応はさまざまだ。あきらめてしまう者、いまだ箱を――箱の中のものを――大事に抱えている者、開けられる箱に「絶対に開かない箱」を入れて「開く」という行為になぐさめを見いだしている者、あるいは売れ残った「絶対に開かない箱」をつぎつぎ買って手当たりしだい自暴自棄に物を入れていく者……最後は自分自身を「絶対に開かない箱」に入れるしかなくなるのだろう、あの開発者のように。
先日、ネットニュースの穴埋め記事として、とあるニュースが掲載された。
〈「絶対に開かない箱」開ける方法ついに発見か?〉
もちろんこれは注目されずページビュー数もわずかだ。似たようなニュースは何度もあったし、今回もきっとおなじだろう。
だが、つかのま人々は思うのだ。もし本当にあの箱が開けられたとしたら。あの中のものをもう一度見ることができたなら。そして箱の中に消えたあの思い出と、ふたたび出会えることができたなら。
不思議なことに「絶対に開かない箱」を手放す者はいない。開けることをとっくに断念した者でも、絶対に開けられないことを確信した者でも、箱を捨てたり人の手に渡すことはできないのだ。
だからいまも、どの家の奥にも、どの人の心の中にもひっそり眠っている。
絶対に開けられない、あの箱が。