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赤い林檎を蛾が貪る

作者: 猫ヌリカベ

 私は吐き気を催した。眼前の出来事が余りにも不可解であり、また、この醜悪な俗世間を見事に表現しているようであったからである。


 まず私は先程、このアパートの狭小なる角部屋に帰宅した。一人暮らしをしている私を出迎えたのは、机上に置かれた林檎だらけのダンボールだった。仕送りらしい。部屋の中央まで歩かねば電灯が付かない為、その一室は陰気臭いほど暗く、当たり前に、その林檎も薄暗い空気に覆われていた。赤い林檎。私は光の乏しい部屋の中、その林檎を赤色だと認識した。だが、それは電気を点した瞬間に覆された。その林檎は、青林檎だったのだ。

 さて、これほど奇妙なことがあるものか! 驚愕した胃が煮え返るのも仕方が無い。仕方が無いのである。


 私は青林檎を一つ手に取った。私の目は、至って健常である。だが、この青色を赤色だと誤認してしまった。いや、そもそもこの林檎は、充分な光を受け取り反射し得なかった為、私の瞳に青や赤という色の信号を満足に送れなかった筈だ。それどころか、よくよく思い馳せてみれば、私はその時林檎を灰色と思った――気がする。感覚では赤と見えたが、確か初見の際、私はその林檎を黒の強い灰色だと『思った』。これはどういうことなのだろうか。

 私は動転した気を落ち着かせると、試しに部屋をまた暗くしてみた。すると、何と言うことだろうか。林檎は青色に視認できたのだ。一見、新たに芽生えた奇天烈な出来事である。だがしかし、これにて私は理解の道を見出すことができた。


 まず、私が最初に林檎を見た時、それは赤色に見えた。そして今は、青色に見えた。これは脳内で先入観的な補正がかかっていることの証明である。一度目の私は、林檎が普通赤いものだと思っていたので赤色に見え、二度目の私はそれが青林檎だと認識できていたので暗闇でも青と見えたのだ。

 私は林檎を窮屈そうなダンボールへ戻し、電気を付けた。

 解決したはいいものの、私の心から有耶無耶な不快感は浄拭されなかった。


 部屋を出ると、晩夏特有の心地良い夜風が吹いていた。空には鮮やかに星が燃え、月が照り、雲一つ見えない。人通りの少ない路地へ行くと、ぽつんと佇む外灯を見掛けた。その光には多くの蛾が群がっている。私は不思議な関心を惹かれ、立ち止まって見詰めた。

 蛾達は各々が目一杯光へ向かい、近くの同士を煩わしく思っているように思えた。蛾武者に羽を動かし、触角を振り回し、その六本の手足は蛍光灯にしがみ付こうと必死である。まじまじと見ることは、十数年振りに感じた。

 私は昔、このような蛾の群れを発見した時、てっきり蛾は電灯の光を食べているのだと思っていた。光という不思議な物を食物にしている蛾に、途轍もなく興奮したことを覚えている。私はその以前の考えを思い起こし、そして、更に深く思索してみた。


 もしや、幼少の私の考察は間違っていないのではないか。蛾の生態が完全に分かっている訳ではない昨今、一時代を経て考究することが間違いである由はないのではないか。

 蛾達は、今も尚、我が先へと光へ飛び込み、そして熱に手足をやられている。私は長い事思想に耽った後、硬直していた足を進めた。

 胸に立つ黒煙の如き不快感は、益々高く上るばかりだった。


 私が外出したのには理由がある。ある方へ愛を告げる為だ。しかし、待ち合わせの時刻まで思いがけず余暇があってしまった。その時間に、私はとある壁にぶつかった。思いを伝えたとして、果たして彼女が上手く受け取ってくれるかという問題である。

 私の持ったこの疑問は、愛の告白や大事な言い分を申す時、自信の有無に関わらず出現する通常の不安感と同義にしないでもらいたい。私は、彼女が私にとって嬉しい答えをしてくれるかどうかに悩まされている訳ではないのだ。問題は、私の発した言葉が相手に確実に伝わるかどうかというものである。

 本当に、私が思いを告げた時、彼女はそのように受け取ってくれるのだろうか。

 本当に、私が「愛してる」と口にした時、彼女の聴覚は「愛してる」という信号を感じ、正確に脳へ「愛してると言われた」と伝えることができるのだろうか。


 いつか、次のようなことを本で読んだ。

『例えばAさんが林檎の落ちた秒数を二秒と感じていたとして、Bさんも二秒と捉えたとしても、根本的に二人の感じる二秒の長さが異なっている場合がある』

 これは単純に体内時計の食い違いを言っているのではない。人それぞれの感覚の違いを言っているのだ。そして今、私は部屋で林檎の色を勘違いした時のことを思い出した。先入観からの誤認として解決したあの事件だったが、果たしてその理解で正解なのだろうか。私の心は、その理解こそ誤認なのだと狼煙を上げた。

 光の加減で視覚を惑わされる人間だ。何らかの形で告白が正確に伝わらなかったら……。


 私は悩みに悩んだ。

「愛してる」という言葉が意味を成さず消えることが、言い表せぬほど恐ろしかった。


 狭苦しい場所へ閉じ込められた物は、光を当てられなければ色さえ覚えられない。

 食物に群がる奴らは、他を蹴落とし、そして更に深く進むが、無残に焼かれ死ぬ。

 言葉を持ってしても、果たしてその思いが伝わるのかも知り得ない。


 私は彷徨うように足を運んでいると、通りすがりの見知らぬ男に腹を刺された。

 暗い夜道の中、吹き出る鮮血は青く見えた。


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