薔薇園の主1
■薔薇園の主
庭師は土を掘り返す手を止めて、そろりと視線を持ち上げる。
屋敷を取り囲むようにどこまでも延々と広がり続ける美しい花々の只中で、彼女、マリアン・ロゼッタは立ち尽くす。
哀しい記憶を抱いて、虚ろとともに立ち尽くす。
「わたくしのかわいいかわいいあの子……」
純白のシルクのドレスが風に揺れ、儚く消え失せそうなほどに華奢な体をより頼りなく包む。
「……ねえ、いつ声を聞かせてくれるのかしら……いつ、わたくしに笑いかけてくれるのかしら」
ふわふわふわふわ、薔薇の香りと薔薇の色彩にまとわりつかれながら、夢現のままに庭園に佇むその姿は、一幅の絵画と呼ぶにはあまりにも痛々しかった。
彼女の心はここにはない。
彼女をこちら側に呼び戻せるものはここにはいない。
「彼女は夢のほころびに落ちているのね」
庭師はぎょっとした。
今この瞬間まで女主人と自分しかいなかったはずの場所に、自分のすぐ隣に、降って湧いたように佇む黒い存在。
「おい、どっからはいってきたんだ!」
「きゃ」
寂寥に満ちた静かな世界に突如現れたモノを、庭師は見咎め、とっさに腕をつかみ、声を荒げて詰問する。
自分の半分ほどしかないソレは、いやに手の込んだレースで飾られた漆黒のドレスをまとう少女だった。
ふわりと波うつ髪は艶やかで、手入れの行き届いた上質さを感じさせる。
目を眇め、口元をゆがめ、腰をかがめて、覗きこむ。
黒い髪を持つ黒い服の少女。
小鳥を肩に止め、鳥籠を持って、まるでお伽噺から抜け出てきたかのようなその彼女の正体に、思い至るのにずいぶん時間がかかった。
「見かけないカオだな。しかも、その服……もしかしてお前、あの〈葬儀屋〉とかいうヤツの人形か?」
少女は答えない。
かと言って怯えている風でもなく、ただふわふわとひどく現実感のない笑みを口元にたたえ、自分を捕らえている者から視線を外し、別の方向へと投げかける。
投げかけた少女の視線は、マリアンを捕らえた。
マリアン・ロゼッタが、現実を映さないはずのガラス色の瞳が、こちらへと向けられている。
「奥様?」
夢と現の境界に佇むだけだったはずの彼女から思わぬ制止を受け、庭師はわずかにたじろいだ。
永い間、虚ろだった女主人のその双眸に、自我の光が宿っている。
「……いけない……いけないわ、だめよ、アーチャー」
こちらを認識し、この自分と少女を認め、そして彼女はやってくるのだ。
「いけないわ。邪険にしないで。その子はわたくしのお客様に決めたのよ。だからお願い、ね、ダメよ」
そう言って、少女の前に自ら膝を折り、白いドレスが汚れるのも厭わずに彼女へと視線を合わせた。
「ごめんなさいね、驚かせて」
やわらかな微笑みを浮かべて、たおやかな白く華奢な手で優しく髪をなでつける。
「かわいい小鳥さん、あなたはどこからきたの?」
「遠いところから、かしら」
「なんてお名前?」
「ローザ」
「……ローザ……、そう、ローザというのね」
揺れる、彼女の瞳が揺れて、少女の瞳を覗きこむ。
「よかったら、お茶を召し上がる? これからティータイムにするつもりだったのよ。スコーンはどうかしら。とっても美味しい薔薇ジャムがあるわ」
ほわりと笑みを向け、なみうつ黒髪をやさしく撫でつける。
何度も何度も、優しく、丁寧に、少女の髪をなでつけ、いとおしむ。
「奥様、またそのような……どこのものとも知れぬあやしげな輩にお戯れを申されては」
「この子はいいのよ」
彼の言葉になどまるで耳を貸さず、マリアンは、少女にだけ言葉と視線と心を傾ける。
「ねえ、ローザ。かわいいコマドリさん。せっかくだもの、わたくしといらっしゃいな。お茶会はひとりよりふたりがいいわ」
愛しげに頬をなで、言葉を重ねていく。
「きっと気に入ってもらえるから、ね?」
「いいわ。わたし、あなたと行く」
そっと彼女の手に自分の手を重ね、〈少女〉も微笑み返す。
「お茶会も薔薇ジャムもスコーンも大好きだもの。クロテッドクリームを添えてもらえたらもっとうれしい」
「もちろんよ」
手を繋ぎ、白と黒のドレスの裾を踊らせて、二人はふわふわと楽しげに屋敷へと向かう。
さざめくような笑い声。
小鳥のさえずりにも似た、幸せそうでやわらかな笑みが交わされている。
「アレが〈葬儀屋〉の自動人形……か」
誰の耳にも届かないアーチャーの呟きは、めずらしいものを見た、という一言に集約されていく。
自分の言葉になど一切構わず、少女を引きつれて屋敷へと戻っていく主の後ろ姿を何とも言い様のないカオで見送った。
現実から遊離したままだと思っていた主を、一時的とはいえこちらに呼び戻した〈人形〉に、いいようのない焦りと奇妙な息苦しさを覚えている。
そんな自分に戸惑いつつも、彼もまた管理する監視小屋へと戻っていく。
それからしばらくして、彼は大きな園芸用の鉄製スコップを担ぐと、自分に与えられた仕事をこなすために再び小屋を出た。
彼女が屋敷の中に戻ってしまったのなら、もう自分がふわふわとさまよい歩く彼女を見守っている必要はないから。
裏手に広がるイバラの森で、彼は穴を掘りはじめた。
ひたすらに掘り続ける。
ソレが仕事のひとつだから。
だから掘る。
掘って、埋めて、また掘って、埋めるのを、繰り返す。