夢のほころび1
■この町の夢のほころび
郷土資料を取り揃えた図書館の一室に出向き、アリィルファルテはテーブルの上に積み上げられた膨大な書籍のひとつに手を伸ばす。
閲覧室まで司書見習いの青年が運び込んでくれた本はどれも、表紙の文字が半ば磨り減った古いものばかりだ。
この町にきてまだ数ヶ月だという彼は、葬儀屋も自動人形もはじめて見たと嬉しそうに笑って、仕事に戻っていった。
「子供が攫われるというのは、いつの時代にもままあることです。神隠しを繰り返す土地というものがあるくらいですから。しかし、ここでは本来十年のスパンでひとりからふたりといった頻度でした」
「それが、たったひと月で何人も……、ということね」
この町の住人たちを脅かす、ひそやかにして暗澹たる事件。
けれどそこに、土地に根ざし、土地が内に抱く歴史や性質に由来する何かを感じることはない。
なにより、この町の伝承、伝統、そして事件と風土を知るための資料たちがそれを証明してくれている。
「だとしたら?」
「我々はそうなるだけの理由を考え、何らかの事件性を勘ぐらねばなりません」
指先と視線が捉えるのは、過去から現在へと続く『事実』の『点』だ。それを線で繋いでいく作業には、まだあらゆるものが足りていない。
「子供が失踪しはじめたのはちょうどふた月前。エリザベスが私の元へ手紙をよこしたのがひと月前ですから、五人目の失踪から少々時間が経ちすぎているようですね」
ことりと、視界の端にティーカップが置かれた。
邪魔にならない、けれどけして遠すぎもしない絶妙な位置を選択して。
書物を繰りながら、アリィルファルテはごく自然な動作で、カップを口に運んだ。
夢視に淹れてもらった紅茶からは、ほのかに甘い花の香りが立ちのぼり、鼻先をくすぐる。
「おいしいですよ」
「よかった」
ホッと息をつく、そんな彼女の傍らには、資料室にはずいぶんと不釣合いな蔓薔薇をモチーフとした銀のワゴンと白磁のティーセットが寄り添っている。
「それで、あのね、立て続けに起きた失踪と、その後の妙な空白についてなんだけど……」
「はい?」
「何者かによる蒐集、もしくは儀式の生贄や禁忌への懲罰が動機だったとしたら、五人目が消えてからひと月が経過したのは定員を満たしたから打ち切った、と考えるべきかしら?」
ポットにティーコゼーをかぶせながら、彼女は小さく首を傾げた。
「魔物の気まぐれ、という答えを排除するならば、その答えが妥当かもしれませんが」
問いかけるつもりでちらりと視線を書物から彼女へと移せば、相手はひどくもの言いたげにしている。
「どうしました? ずいぶんと不満があるようですね」
「この事件、子供たちがいなくなったことも、キミの依頼主が亡くなったことにも、すごくすごく作為を感じるんだもの」
「エリザベスは“魔物の仕業かもしれない”と思っていたようですが……、気に入りませんか?」
積み上げられた古い書物の表紙にそっと手を乗せ、指でタイトルをそっとなぞりながら彼女は眉をひそめた。
「ん、ん~……だって、月の魔物の仕業だなんてありえないわ」
きっぱりと断言し、こういうのを濡れ衣っていうのよね、とごちてみせる。
「いちおうね、いちおう、エリザベスがそう思いたくなる気持ちまでは否定しないでおこうとは思うわ。でも、感触が違うでしょ?」
「ええ、たしかに」
その手の事例とは明らかに肌触りが違うことは、アリィルファルテも認めるところだ。
「では、現実的な検討課題として、今回の件に関する疑問点を挙げていきましょうか。まずは、メアリー・ジャン、ジミー・オールドマン、アン・ウォーカー、デイジー・ホフマン、ルーシー・レーンの五名に果たして共通項はあるのか否か、ですが」
検討すべき課題は、彼女たちが、『何故』『どうやって』攫われたのか。
「ひとり目の失踪者、メアリー・ジャンのケースでは、夜中、窓の軋む音を聞いた両親が二階の彼女の部屋を覗きにいき、開け放たれた窓ともぬけの殻となったベッドを目撃しています」
家の周辺には足掛かりとなりそうな植樹が少女の部屋のそばにあったことから、侵入するのはさほど難しくないように思えた。
ただし、子供を攫うにはその抵抗を封じなければならない。
「ジミー・オールドマンの場合、彼女は家計をやりくりするため新聞を配達していました。その彼女は、夕暮れを過ぎた時間帯に地方紙を配っている最中、忽然と姿を消した。配達した家から次の家までわずか五分の距離にも拘らず、です。目撃者は皆無」
森があり、木々が茂り、それでいて家々が隣接している分、逆に死角は生まれやすいのかもしれないが。
「アン・ウォーカーは料理をしていた母親のいい付けで、隣の部屋にある冷蔵庫までチーズとミルクを取りにいったが、そのまま姿を消し、戻ってこなかったといいます。裏庭に続く扉は開いたままになっていましたが、侵入者の痕跡はなく、こちらも目撃者は皆無」
他の二名に関しても、ほぼ同様だ。大人たちの目をかいくぐり、一瞬の隙をついたやり方は鮮やかに過ぎる。
果たしてソレが、人間に可能か否か。
「そして最後に、というべきかしら? この一連の〈神隠し〉にエリザベスの死が附随する、のよね?」
「ええ、そうなります」
エリザベス・エリオットは死んだ。
手紙の中では明かすことのなかった『自分が犯したかもしれない罪』の所在を求め、その影に怯えながら、彼女は死を迎えてしまった。
「何か掴んだのかしら」
「掴んだのでしょうね。誰かの秘密に触れてしまったからこそ彼女は消された、と考えることが自然なのかもしれません」
たとえそれが本人にとって無意識かつ無自覚な言動だったとしても、秘密を抱く者は己の秘密に近づく相手にひどく敏感だ。
疑心暗鬼に駆られ、膨らむ不安に負けて、手を下した可能性は高い。
「じゃあ彼女がこのひと月に一体どこで何をしていたのか、何を聞いて、何を見たのか、調べなくちゃいけないのね?」
「エプシロンが既に彼女の痕跡を求めて動いています。私が本当に調べるべきなのは、彼女の死の真相ではなく、彼女を死に至らしめるキッカケになっただろう子供たちの失踪ですから」
「ソレが彼女の遺志でもある?」
「そうなりますね」
再び紅茶を口に運びながら、思考をめぐらせ、アリィルファルテは思考を言葉のカタチに変える。
「少なくとも失踪させる方法については、何らかの薬、あるいは催眠によって可能になるでしょう。そう、魔術屋が提供する道具を使いこなせる技術があればリスクはかなり減る。あるいはその手のプロであるか、いっそ顔見知りによるものと考えてもいい」
手段の選択も手並みの鮮やかさも説明はつくだろう。しかし、そこで再び疑問が浮上する。
では、この五人だけが選ばれた理由とはなんなのか。
ふたりの間に沈黙が降りる。
それは、思考の海へと沈み込むために必要な静寂だ。
時計の針さえも声をひそめる。
ここはとても静かで、遠くで奏でられる教会の鐘すらも耳に届く気がした。
アリィルファルテは書物を繰る。
この町で子供たちがいなくなった、その出来事をどこまで遡るべきかを見極めるため、その事件の発端をどこに求めるべきかを知るために。
もうじき依頼主の夫が自分を呼びにくるだろう、それまでに得るべきモノを得ておかなくてはならない。
「あ……」
不意に彼女は声をあげて。
沈黙。
長く、コトリとも音を立てずに立ち尽くす。
「どうしました?」
ずいぶんと間を置いてから思いついたように顔を向ければ、夢視はぜんまいの切れた人形のように虚空を見上げたまま動作を止めて耳を澄ませている。
「どうしました?」
もう一度、同じ問いを繰り返す。
「……夢のほころびがあるわ。哀しい声。呼んでる。ふわふわふわふわ、誰のものかしら……誰のことかしら……」
ぽつりぽつりと、コマドリの赤い唇からこぼれる単語。
独り言のようでもあり、こちらへの問いかけのようでもある、不安定に揺らぎながらこぼれていく声。
「ねえ……あのね」
次に何を口にするのか、アリィルファルテには大体の察しがついている。
だから速やかに先手を打った。
「迷子にならなければどうぞ。迷子になっても一応迎えにはいきますが」
ただし、と続ける。
「あなたはここの住人たちに、私の所有する自動人形と思われています。くれぐれも、この都合のいい誤解を解かないように願います」
「はぁい」
自分の傍を離れるなとまでは言わなかったが、釘は刺しておく。
「レイチェル、おでかけしましょ? 夢のほころびを見つけなくちゃ」
ちゅぴりと駒鳥がさえずった。
彼女は小鳥を伴って、鳥籠を手に、とたとたとリズムの狂ったステップを踏んで扉の向こう側へ消える。
その後ろ姿は、翼がありながら飛べない鳥のようだ。
いつ、どこで転んでも不思議ではない。
「……迎えにはいきますが……、それ以前の問題かもしれませんね……」
まるで彼女には一切の注意を払っていないかのように書物へと視線を落としながら、アリィルファルテは自身の右の耳を飾るピアスをひとつ、器用に片手で取り外した。
「シータ、彼女の影に潜み、彼女の守護を。万が一のことが起こらないよう見張っておいてもらおうかな」
口付けて、手の平からテーブルへ。
転がり弾かれるはずのピアスは、主の命を受け、身を捩り、水面に落ちた小石のようにテーブルの影へと吸い込まれていった。
コマドリを連れた〈夢視〉は、文字通り〈夢〉を〈視〉る。
深層世界に潜り込み、彼女はそこで何を見つけ、何を知るだろうか。
彼女が見つけた夢のほころびとは果たしてなんであるのか。
町の中に潜ませたエプシロンの情報とともに、ソレがもたらされる瞬間をひそかに望みながら、彼女の淹れてくれた紅茶を飲み干す。
タイミングを見計らったように、直後、控えめに扉はノックされた。
「どうぞ」
「失礼いたします、葬儀屋さま。あの、エリオットさんの遣いの人が見えられました」
司書見習いの青年のおずおずとした物言いのあとに続き、背を丸めた壮年の小男が姿を現した。
「大変お待たせいたしました」
恭しく頭を垂れて、使用人は用件を告げる。
「旦那さまよりお迎えにあがるようにと申しつけられてまいりました。よろしいでしょうか?」
「分かりました。いま支度をします」
ぱたりと本を閉じ、するりと席を立つ。
傍らにあったはずのティーセットはワゴンとともに消えていた。
手元にあったはずの空になったカップも一緒に。