5
初めて出会った時を思い出す。
幼き頃、親に連れられて行った、とある接待。普段立ち入らない、暗い空間にドキドキしながら、地下に入り組む通路を進んだその先で、貴方を見ました。
小さなステージ上で、サックスがメロディーを奏でている横、ドラムとベースと共に、ピアノでセッションをされていましたね。今とは想像もつきません。
暗い照明や、高そうなお酒の瓶たちに囲まれた、スタイリッシュな空間、スーツを着た大人たちが集う場所。慣れない場所で落ち着かない僕は、父に言われるまま、目の前の知らない大人に挨拶をし、大人しく、ふかふかの椅子に座りました。大人達が談笑を始めた横で、ステージから聴こえるピアノの、左手の低く響くベースラインになんとなく引き寄せられて、ずっと曲を、いえ、ピアノを聴いていました。
「どんな人が弾いてるの?」気になって視線を上げると、制服を着た貴方がいたのです。「僕以外にも、子どもがいる!」そうお兄さんに興味を持ったのは一瞬のこと、あまりにもピアノを弾いている姿が静かで、主張がなくて、響く綺麗な音とは裏腹に、この人やる気あるのかな、というのが、幼い僕の第一印象でした。
暫くして、サックスから、アイコンタクトを経て、ピアノのソロへ移りました。弾く姿は、変わらず静かな感じでしたが、明らかにステージの空気の流れが変わったのがわかりました。
「何か……くる?」
そして次の瞬間、お兄さんはにやっと笑って、さらに今までとは違うフレーズを弾きだしました。
「……!」
あの時の、ワンフレーズ目の僕の鳥肌の感触は、未だに覚えています。さっきまでと主旋律のベースは同じ。同じなのに、違う。階段状の音の羅列。何個もの楽器が、一斉になっている感じ。共演していた大人たちは、歯を見せて笑いました。周りのお客さんは、微動だにせず、一心にステージを見ていました。隣の父たちも、いつの間にか話を止めて、ステージに目を向けていました。
後から知ったことですが、あそこは、毎回、アドリブの場所だそうですね。楽譜も、コード進行のみが書いてあり、音符は書いていないそうで。
“やってくれたな、坊主”
そんな大人達の声にならない言葉が、あのステージから聞こえてきた気がしました。
「お前も行ってくるか?」
そう言った、父の言葉には、全力で拒否をしました。この頃の僕は既に、人並み以上にはピアノが弾けたはずでした。しかし、わかってしまったのです。
「このお兄さんとは、今の僕では、格が違いすぎる」。
実際、音楽に関して素人である父からは、その弱気な意気込みについてひどく怒られましたが、この件に関しては、僕はちっとも、気にすることはありませんでした。
未だに、あのアレンジされたメロディーは、何度脳内リピートができても、僕は音にできません。
♢
「ただいま~」
「お前、どこ行ってたんだ」
学校帰り。今日はレッスンがない日であり、学校の図書館で宿題を終わらせてから帰宅した俺に向かって、開口一番に向けられた言葉がそれであった。
初めて見る中年の男性の顔。上質なスーツを着ており、何より気難しそうに眉間に皺が寄った表情をみると、俺よりは断然年上……というか俺の父親と同い年くらいに見える。
「は?学校に行ってたんですけど」
バンッ!
顔の横を鋭い風が切る。
「お前、いつからそんな口を利くようになったんだ」
一瞬音に怯んだが、そんなこと言っている場合ではない。
「質問に答えただけじゃん。宿題終わらせてから帰ってきたんです」
「宿題?レッスンがないからって、いい気になってんじゃないぞ」
……こいつ、頭大丈夫か?
「……。すみませんでした。お父さんも、今日はお早いんですね。お疲れ様でした」
「ふん。せいぜい腕は落とすなよ。お前には金かけてるんだから」
「……はい」
静かに頭を下げる。視界に、乱雑に捨てられた片方のスリッパが見える。さっき投げられたのはこれだったのか。立ち去る背中を横目に、スリッパをそっと拾い、玄関先に揃えておいた。
自分の感情もコントロールできないなんて、なんて父親だ。ばかばかしい。そういえば、俺の上司もそんなようなやつだったな。久しぶりに思い出したわ。
「奏汰さん……どうかされたのですか」
「え……?」
「いえ、その……いつもと様子が違いますから」
「……そうかな?」
「そうですね……。何か考え事されているのかなぁ、なんて。奏汰さんにしては、珍しい音だなぁ、って思いまして、つい。どうかお気になさらずに。戯言だと思って、聞き流して下さい。きっと、曲想の問題ですね」
曲の合間。食事の支度をしていた鈴村さんが、珍しく、そう、感想を述べた。
曲想……。今、俺何の曲を弾いてたんだっけ。
「……俺、今何の曲弾いてました……?」
「えっ……。」
「あ、いや……けっこう、無意識に弾いてたから……」
「ジャズっぽかったですね。題名は、私もわかりませんけど……」
「ジャズ……」
目の前の楽譜は、ショパンなんだけどな……。俺、何弾いてたんだ?
「そういえば、奏汰さん、旦那様に会われました?」
「あ……はい、先ほど」
「そうですか……」
鈴村さんは、それから静かに微笑んで、「お邪魔してすみませんでした」と再度食事の支度にとりかかった。
無意識下で、振り回されているのか?俺が?他人の親に……?なぜ?
深呼吸する。
今俺は花影の身体であり、弾こうと思えば、指は勝手に動く。
あぁ。今はこいつと一心同体だからな。もう、身体に染み込んでいるんだ。親に対する、嫌悪感が。色々考えるのが嫌になって、目の前の楽譜に集中する。そうか、花影。お前は、こうやって……。
「兄さん、ごめんね」
「……!」
懐かしい声に思わず手が止まる。
「どうかしましたか?」
再び不自然に演奏が止まった俺に、鈴村さんがびっくりした様子で声をかけてくる。
「……。今、俺に何か言いましたか?」
「いえ、私は特に……」
「……そうですか」
周りを見るが、鈴村さん以外誰もいない。
再びピアノに向かう。人の声がしたと思ったのだが……。疲れているのか?頭が痛い。それに、あの声は聞き覚えがある。……なぜ?項垂れながら、思考を巡らせるが、俺の頭が重くなるばかりであった。
兄さん……?俺に……?誰、だ?花影?それとも……、……?
聞き覚えのある声。そう、あれは……。