第7話 : 対峙
エレベーターの外、暗闇の中には微かな人の気配がした。
沈黙の支配が広がる中、へっぽこが一歩前に出ようとするのが気に障る。
俺もこんな命がけの状況が続いて、頭がだいぶイカれてきてたのかもしれない。
俺はへっぽこを肩パンで横にずらすと、スタスタとエレベーターから地下6階へ降り立ってやった。
目の前に居るのが、敵なのか味方なのか、周りの状況すらわからない地獄の入り口かもしれない場所へ、自分でも馬鹿かと思うほど堂々とした登壇だった。
恐怖に慣れるとは多分こういうことなんだと思う。
慣れは心の平常と引き換えに、命を削る。それも自覚する暇もなく着実に。
「おい。こそこそ隠れてねぇで出てこいよ、この口悪チキン野郎!!」
「……声がでけぇ!!そもそも状況もわかんねー暗闇にノコノコ出てくんなよこの馬鹿が。ったく、正直もうだめかと思ってたぜ」
若い声に、生意気な言いぐさ。間違いようもなく電話の主だった。
暗闇に慣れてきた目に人影が滲む。目を細めても変わらない、明らかに小さな輪郭。
目の前に歩み出てきたのは、俺よりもずっと小さな、小学生くらいの少年だった。
「……ちっさ」
「うっせーぞ小童。いいだけ冷や冷やさせやがって、手間かけさせんじゃねぇよ」
くい気味で返事が返ってくる。つーか、俺に引けを取らないくらい、凄まじく口悪ぃ。
「てめぇ誰だよ。……あとここはどこだ。それに軍服のあいつらはなんだ、ってか暗ぇ!!」
「あぁ、暗いのはまぁ気にするな。見せれねぇものが多すぎンだよここ」
―…見たら最後、戻れなくなるぞ?
付け加えられたほの暗い一言に、開こうとしていた口を閉じる。
迷い込んだのは、地獄じゃない。たぶんもっとたちが悪い。
ここはまるで、パンドラの箱の中だ。
「つってもまぁ、すぐ明るくなっちまうがな」
「はぁ!?」
「見たかろうと、見たくなかろうと、選択の余地がない岐路もあるってことだ」
背後のエレベーターから突然の爆発音。
強烈な爆風が身体をいとも容易く押し飛ばし、宙に浮かんだ身体が、気づけば床に転がっていた。
さっきまで乗っていたエレベーターが煙を上げていた。箱枠は無残にも焼け落ちて、焼き切れた伝線がゆらゆらと火花を散らして激しく揺れている。
嘘だろ、おい。
慌てて起き上がろうとすると、身体の下で「ぐぇっ」と気色悪い声がする。あ、へっぽこ、無事だったか。
爆風に押された俺たちは、少年の後ろまで飛ばされたらしく、顔を上げれば少年の背中が見えた。
ちいせぇタッパ。そのくせ爆風がまだ拭き荒む中、周りの状況などまるで物ともしてないようで、小さな身体は微少の揺らぎもなく立っている。
少年はただ静かに、俺とへっぽこの真ん前にすっと佇み、エレベータを見据えていた。
聞き覚えのある一回り軽い足音。
随分派手な登場をしてくれる。軍服の女と追手が地下まで追ってきたようだった。
いったい何がそこまで女を、やつらを掻きたてているのだろう。いったい俺が、何をしたっていうのだろう。執念の追跡に忌々しさに加え、いっそ興味と尊敬すら湧いてくる。まぁそんなもの、すぐさま吐いて捨ててやるが。
足音が乱れなく停止する。次の瞬間、一斉に焚かれた眩しすぎる明かりが容赦なくこちらを照らし視界が真っ白に染まる。どうやら女と仲間たちが持つ、幾多ものライトが俺たちに向けられたようだった。さっきの仕返しかよ、くそったれが!
胸糞悪くも、眩しさに目が開けられない中で突然、動揺を隠しきれていない息を飲む声が聞こえくる。
……なんだ?
「あな、たは……」
「久方ぶりだな」
初めて女の声が色を変えた。足音から相当の人数が着いたように思う軍隊も水を打ったかのように静まり返っている。沈黙の中、光に撫でられ落ち着いた瞼をゆるく開く。
異様な光景だった。
軍服の女を先頭に、後ろには数十人ほどの屈強な外国軍人たちがフロアに乗り込んできていた。
それがどうして、こうなったのか。
地下6階にいたひとりの少年に彼らは息を飲み、女の両隣から流れるように膝をつき始めた。
俺たちを、まるで庇うように立つ小さな背中は、街の雑踏にまぎれることなど容易いだろう、なんの変哲も特筆すべき特徴もないがきんちょだった。はっきり言っちまえば、すげー地味なガキだった。
それが、自分よりも年上でしかもごつい外国人の、それも殺気まんまんで目の前に現れた軍人を前にしても慌てる様子ひとつ見えない。地味なガキが、普通じゃないことをこれでもかというほど表していた。
武器を置き、膝をつき、首を垂れる男たちの中で、唯一先頭にたつ女だけが背筋を伸ばし膝を折ることがない。少年が一歩前に足を踏み出せば、女の身体がぴくりと揺れる。なにに警戒しているのか緊張しているのかわからない。わからないが、握りしめた拳と結んだ口元が壮絶な拒絶と葛藤を印していた。
「落ち着け、グレル」
「っ」
少年の言葉に、女の目が力を増す。よくみればブルーの瞳は濃く充血していて、いつ倒れてもおかしくないような困憊を模している。狂気とも言える気力だけが女を突き動かしているかのようだった。
幼い声色に、心なしか労わりが混ざる。
「俺たちはメネアに手を出していない。同志に手を出すはずもない。それが“俺たち”だと彼女の近くにいたお前ならばわかるだろうグレル。メネアの件は現在、俺を含める皆で調査中だ。お前たちもわかるだろうが、表立って動くことができないことは含んでくれ」
白人の女の肌がより一層青白く、噛みしめる唇に歯を立てたのか、口元だけが鮮やかすぎる赤に変わっていく。
「……たとえ、あなた方の関与がなかったとしても、後ろの二人、彼らは話が別です。特に木戸 澄」
女の目がまっすぐと俺に刺さる。これほどまでの激情を生きている間に身に受けることなどあるのだろうか。
腹に穴が開きそうな目線に、それでも負けじとガンを飛ばす。
無意識に床へ爪を立てていた。力を入れすぎて白くなる指先だけが隠せぬ緊張に小刻みに震えていた。
けっ、なさけねぇ。けど、教師とも警察とも、全然違う。質のことなる女の視線への対処法など今の俺にはこれっぽちもわからなかった。
「彼はメネアを見ている。それも最悪たりえる忌々しい状況で!!真意を明確にしなければならぬ事象だとあなたならばわかるでしょう!?」
女がついに声を荒げる。フロアに響く叫びとは正反対に、言葉には深い悲愴と助けを乞う弱弱しいまでの祈りが潜んでいるように感じられた。
先ほどまで俺を殺そうとしていた女だが、なにやら深刻な理由があったようだ。といっても、理由とやらには間違いなく無関係極まりないので、危うく殺されそうになったことを許す気になんて到底なれないが。
……ただ相手にしてたのは殺戮マシーンではなく、あくまで人間だったようだ。
ったく、なんなんだこの状況。何が起こってんだ。つーかどうすんだよこれ。
弱弱しさを垣間見せた女の叫びに、なんとなく気が抜けて肩を落とす。
状況への答えを探すよう、ふと女の嘆願を受けた少年を見上げたその時だった。
「…っ」
少年の瞳から一切の色が消えていた。
感情が抜け落ちたようで、でもたぶん落ちてない。彼の瞳の底に漂う感情の名は、きっと俺が知らないものだった。冷たい、刺すような眼差し。剥き出しのまま突きつけられる確かな、激情。
女が後ずさる足音が重く響く。そりゃあそうだ。とてもじゃないが女の顔は見れなかった。
こんな眼差しを受けて平気なやつなんて、世界中どこを探したっているはずがない。
「……俺だからこそよくわかる。そこの二人は紛れもない一般人だ。我々の世界とは一線を博すものたち。手を出す価値もない弱きものたち。即ち、俺たちにとって最も庇護すべき守るに値するものたち。俺から話を聞いておこう。手出しは、無用だ」
情け容赦ない一喝だった。
ごくりと唾を飲み込む。まったく訳がわからねーが、なにやら俺とへっぽこのことを助けてくれている、っぽい?気が、する。女の様子を伺えばすでにこちらは向いておらず俯いている。
これ逆上とかありえんじゃねーのか……。いつでも逃げられるよう、つま先に力を込める。
ちらりと隣のへっぽこを伺えば、眉を下げて何やら情けない顔をしていた。両手はぺたりと床についていて、逃亡の準備どころかすっかり一息落ち着いている。この状況で何考えてんだ?図太いのか、単にアホなのか。
女は息を吸い込み、小さく口を開けて吐き出した。
「我々は、メネア様の元に集うもの、メネア様を知る者。意思を通ずるあなた様の言葉に反することなどありましょうか。勝手な行動をお詫びいたします。これは私が責任。いかようなる処罰もお受けいたします」
「おいおい、メネアを最も知るお前がそれを言うか?俺たちが、お前を処罰などするはずがないだろう」
「……何よりも存じております。ですが、だからこそです。時に身を縛らねばお傍にいる資格はございません。……では、不躾を承知でお願い申し上げます。どうかメネア様が件、なにとぞ、お心配りを」
深く深く頭を下げた金色の髪がライトに鈍く輝いている。怒り狂うか暴れるかと思っていたが、以外にも女の行動はそのどちらでもなかった。括られつつも解れた髪がはらりはらりと行き場なく漂っている。
ゆっくりと顔を上げた女の目線が俺に向くことはなかった。
まるで見ないようにしている。目に入れば感情を押さえられないと自覚しているようだった。
「もちろんだ」
力強く優しい声で少年が応じる。
「メネアはお前に一言もなく消えるようなやつじゃない。信じろ」
少年の言葉に女がもう一度頭を下げた。しばらくした後、勢いよく顔を上げたかと思えばすぐさま振り返り、未だに膝をつき顔を伏せている軍人たちに撤退を命じている。そこからはいったいどこから出て行ったのか、地下6階のフロアから数分と掛からずに女と軍人どもは跡形もなく消えていった。