第20話 : 産声
痛みに硬直する身体。どれだけ祈ろうが終わらない苦しみ。
ドォォオン。
無情にも、俺の祈りに答えたのは爆発音それだけで。俺のすぐ真後ろで爆発が起こったようだった。
それは俺を巻き込んで、背面の肉を容赦なく削ぎ取っていく。
「がぁ、あ゛あっ」
耐え難い痛みに硬直した身体は異様なまでに反り返ったまま天を仰ぎ見るばかり。あぁ、もう、どうせ、死ぬなら。宙を掻き毟るように腕が伸び切ると、肩がごごっと嫌な音を立てていた。
体中を駆け巡る衝撃に頭蓋骨が震える。一瞬で全身から鳥肌が立ち昇り、途端ふわりと力が抜ける。
どうしたっていうのか。俺の皮膚を撫でるようにさわさわと風が触れ纏う。風はまるで、俺の皮膚から、細胞から、肉から、生まれ、漂い、溜まり、募り、そしてそう。破裂した。
バチンと身体の奥から太いゴムを弾いたような音がしたかと思えば、突然、暴力的すぎる突風が俺の身体を中心に四方へと突き刺す様に飛んでいく。眼の端で、俺の元へと駆け寄ってきていた流三郎が、切り裂くような突風に小さい身体を浮かせ、壁に叩きつけられたのが目に入った。
ああ、ここにいたら、やべー。だめだ、どっか、遠くに、そうだ、遠くにいかねーと。
風は威力を弱めながらも、未だ俺の髪を巻き上げている。激痛の後遺症かそれともまだ痛みが続いているのかわからないが歩き出そうと身体が動くたび全身が電気が走ったように痺れ、痛いのか痛くないのか、もうさっぱりわからない。目の奥はチカチカと光が走り、瞬きするたびに瞼の裏には様々な原色が入り混じる砂嵐ばかりが映る。必死に目を開けていようとすれば、眼球と瞼の僅かな隙間から煙が入り込むかのように、頭は絶え間なくぼんやりと霧に包まれている。
気持ち悪い。まるで俺の身体が俺のものでないようで。
どれだけの時間をかけたのか、一瞬か数分か。吐き気を催す不快感と戦いながら、それでも膝を立ててどうにか身体を起こすとすれば、それは意外にも呆気なく成功した。足裏に力を入れて激痛覚悟で立ち上がれば、鉛のような重たさを予想していた身体は意外にも、いや、予想外にも、とても軽やかで。痛みで感覚が麻痺した恩恵だったのだろうか。どのような結果であれ、今はただただありがたい。慣れないほどの身体の軽さにふわふわと足元が揺れて覚束ないながらも、通路を進んでいく。
「い、く……な、」
流三郎の声は背後遠くなっていく。通り過ぎた踊り場の麓から、先ほど俺の周りで上がった大規模な火柱を見て駆けつけたのか、それともめちゃくちゃダサい俺の叫び声を聞いて駆けつけたのか、1階から救助隊員だろう奴らが駆けあがってくる音がする。くるな、くるな。どれだけ思っても足音は止まらない。違う、そうか、俺が、離れればいいのか。ようやく的を得た思考に、もう振り返ることはしない。とにかく何者からも離れなければ。だってよ、今の俺ってさ、なんか変だ。
両手で両腕を抱きしめながら、ゆらゆらと覚束ない足取りを進める。
身体は軽いのに力が入らねーせいで膝も肩も首も頭もあっちこっちへ揺れながら歩く。今は痛くなくても、きっと青痰だらけで後で襲う疼痛が想像できる。生きていればの、話だけれど。
つーと、腕を掴む指先に何かが流れていく感触を覚える。汗か、涎か、それとも涙か。黒煙と揺れる炎の中じゃ、とても判別はつかなかった。
どこへ向かっているのか、どこへ行けばいいのか、自分でももうわからない。
「はは……」
この年になって迷子かよ。絶句を通り越して笑えてくる。
さっきからずっと俺の身体から立ち昇っている風が、変な風にふわりと揺れた。
――……どこからか風が吹いてきている?
爆風でもなければ、俺の風でもない。どこからか流れてくる新しい風が俺の周りを流れていったようだった。
ガス臭い、焦げ臭い中で微かに触れる草の香り。
草と土と水と、吸い込むと少しだけツンとする冷えと、排気ガス、夕飯、生活が入り混じる香り。
いつもの、夜の風。
瞼の裏の砂嵐が、その匂いを嗅ぐだけで夜が更ける湿っぽい静けさと星の光を映し出す。
常軌を異した状況にどっぷりと浸されるとよくわかる。
くそつまらねぇ―平凡な毎日は、こんなにもすげぇもんなのか。
そのままずっと目を閉じていたい衝動に抗いながら、現実からは逃げないと何かに促されるように目を開ける。
「……ま、ど……」
一面が炎に埋め尽くされて、立ち込める黒煙が視界を遮る中、目の前の一角だけが視線を奪う。
洋服店が立ち並ぶ中、唯一スペースが開けたその一角は、客が逃げ惑っていたのだろう椅子や机が乱雑に荒れていて、辛うじて点滅しているたこ焼き屋の看板が辛うじてフードコートの名残を残していた。壁には見渡しの良さを強調するかのように大きな窓ガラスが連なって嵌め込まれている。
綺麗だ。
窓から噴き出る黒煙はカーテンのように窓枠を縁取り、縁取りの黒に強調されて外の明かりが美しい風景として絵画のようにそこに在る。
誘われるがままに窓に近づけば、爆発でだろうか、窓の多くが割れてしまっていることに気が付いた。
時折吹き込む夜風が室内で火の粉を散らす。倒れた机を回避しながら窓枠へ近づき顔を出せば、外の景色が鮮明に見えてくる。救急車に、消防車に、警察。未だ混乱めいた雰囲気は昇華されていないものの、建物の近くで倒れ込んでいる怪我人の姿は見当たらず、救助活動が着実に行なわれている様子だった。建物の周りには立ち入りを制限する規制テープが厳重に引かれていて、人々は外側で固唾をのみ状況を伺っている。
「……そうだ、それでいい」
喉から絞るように零れる枯れ果てた声。
さっき絶叫しすぎたせいか、それとも煙に巻かれ喉が焼けたか。
俺の声はあまりにか細く、人々はあまりにも遠い。誰にも声は届かない。届けるつもりもない。
そう、思ったのに。
そう、あらねばならなかったのに。
窓を見つけて思わず駆け寄ったのは、せめて星が見たかったからだ。
昔。ハンカチの中にある不器用な星を見つけて、たったひとりの家族が笑ってくれたから。
最後は、そんな思い出に浸りながら死ぬのも悪くねーかなって。だから、空を見上げるはずだったのに。気が付いたら目は地上を浚っていて。なにやってんだって、ほらこうやって、空を見上げるぞと窓辺に手をかけたその時だった。
地上で何かがキラリと光る。
探すまでもなく目に入る茶色。
明るい、茶色の瞳。
豆粒みたいな群衆の中で、確かに目が、合っていた。
嘘みたいだって思うだろ?何十人、何百人、何千人っていただろう人の中で。
でも馬鹿みてぇに目が合ったんだよ。
「あっ」
思わず声が出た瞬間、茶色の瞳が驚いたように見開かれる。
あれっ?と思った時には、窓枠に掛けたはずの手が濡れて滑って身体がまっさかさまに宙を落ちていて。
目が合ったままのへっぽこが心底びっくりした顔で焦って走り出すのが目に入る。
外気の冷たい落下風にさらされて、手の平がチリリと沁みる。どうやら窓枠に掛けた手の平をガラスで切ってしまったらしい。それで滑ってこの高さから落下とかアホだな俺も。でもな、ちょいとおかしいんだよ。てっきり手は血まみれかと思ったらさ、目に入るのは水みてぇに透明な液体で。
それが流れて月明かりにキラキラ輝いてやんの。そう、夜空に散らばった水滴がキラキラと、虹色に。
「……メネ、ア?」
そこに、いるのか?俺の手の中に?
へっぽこが人ごみの中、顔をひん曲げ身体をぶつけながら駆け抜けてくる。規制テープを潜りぬけ、俺の真下へかけてくる。近くにいた消防隊員が怪訝な顔で静止しているが、へっぽこの目線は焦りながらもまっすぐ俺を捉えていた。あたふたしながらも、真下へ来たかと思えば何やら両手を広げている。……お前、さすがに無理だろ。ぺちゃんこになっちまうぞ?それにしても。もうこんなに下まで落ちてきたってのに、変だな。俺を見ているのはへっぽこだけで。まるで、他の誰にも、俺の姿は見えていないとでもいうように。
耳元で風を縫う音が切れたかと思えば、ポスン、とあまりに軽い衝撃音。
確かに誰かの腕が俺の背中を支える感触。視界を覆うボソボソの灰色のコートに、顔を上げれば映る茶色い瞳。
マジかよ、ナイスキャッチ!と言ってやりたいところだが、瞼は重く正直それどころじゃなかった。
「き、ど…くん?」
そう。正直それどころじゃなかった。俺も。へっぽこも。
「な、にが、起こってるの……」
「……しるか、ボケ」
痛みはない。ただひたすら瞼が重い。
そして、背中が、死ぬほど重い。
「……カレーくせぇ」
「……いや、それは君もだからね」
強い夜風が背中を揺らす。
合わせて真っ白い毛がふわりふわりと空を舞った。
毛というか、羽根、か。
服の背中はとう敗れて薄ら涼しく、肌に触れる羽毛はひどく柔らかで。
いつの間にこんなことになっていたんだろう。
なにがおこっているのだろう。
俺の背中からは、いつの間にか真っ白い羽根が生えていた。
訳が分からねぇ。どうしちまったってんだろう。
あぁ、もしかしたら。
人は、この姿を。
――……もしかして“天使” とでも、云うのかもしれない。




