第2話 : 遭遇
当てもなく繁華街を歩く。
予定通りなら今頃、倉木や真谷とゲーセンで盛り上がっているはずだった。だが、どうしたって気が乗らない。
メンバーとは高校入学当初からの腐れ縁だ。これまでも気分が乗らなければ気まぐれに約束をすっぽかしていたし、俺が行かなくても誰も気に留めてないだろう。ドタキャンもまぁいっかと大雑把に流せる奴らだからこそつるんでいられる。
「ちくしょう、なんだってんだ」
背中のひっかき傷を見てからというもの鳥肌が収まらない。おかげで暑い日だってのに、思わず長袖を着ずにはいられなかった。夢だと思っていた激痛が現実だとしたならば、間違いなく病院に直行すべき事案だ。背中に手を回し摩ってみる。……でもまぁ、今は別になんともねーしなぁ。
「だー!!もういいか、わかんねぇもんはわかんねーし。つーか、もう痛くねーし。なるようになるべ」
今朝見た夢に、もしかしたら現実に、頭を悩ませていたものの、考えるだけ無駄な気がしてきた。というか無駄だ。踵を返し、ポケットから携帯を取り出す。あいつらに合流してぱーっと遊んで忘れよう。そう決めた時だった。
「……っ!?」
ドスンと籠る様な落下音。
次から次へと、なんだってんだ。
どこかでやけに重みのある何かが落ちた音がした。
記憶が耳のずっと内側で回っている。
聞いたことのある、音だった。
あぁ、と。頭のどこかで納得する。
厄日ってやつは、まぎれもなく、一ミリの狂いもなく、今日みてぇな日のことをいうんだろうな。
ふざけんなよこの野郎。厄日だろうがなんだろうがこれ以上おちょくられて引っ掻きまわされてたまるか!!
張り付いたように動かない足をそのままに、首だけ回して周りを伺えば、通行人は誰一人として足を止めていなかった。聞こえたのは俺だけ、か?
忙しない雑踏の中、音に気付いたのは俺一人かもしれなかった。
なんとか耳と目を音がした方角へ向けて集中する。
どこからも悲鳴も、叫び声もしない。間違いない、俺以外誰も気が付いていないようだった。
「ち、っくしょう、なんだってんだよ!!!」
関わりたくない。行きたくない。どれだけそう思っても、足は縺れながら人ごみを駆け抜け路地裏を進む。転がる空き缶を蹴飛ばして、飛び出てきた猫を飛び越えて、ごみ出しに出てきたどこかの定員が驚いたように後ずさり、その横を走る。きっとこのあたりだ。ポケットに手を入れ、カタカタと震える手で携帯を握りしめる。救急車は何番だ、思い出せよ俺!!錆びて壁紙が剥げた店の裏を走り、剥き出しのコンクリ―トとパイプ線を潜りぬけて、ようやく建物の影が開けたその先だった。
「!!?……おい!!しっかりしろ!!」
ゴミが散乱する路地裏、血だまりの上で、ひとりの少女が倒れていた。
駆け寄りながら少女の後ろに佇むビルを見上げる。
「まじかよ」
10階はありそうな高いビルだった。屋上があるのだろう、建物のてっぺんが手すりで縁取られているのが目に入る。
―……飛び降り。
勘弁してくれ。唇から鉄の味が滲む。
歯を食いしばらなければ叫んじまいそうだった。
「う、…あ、」
「っ!?大丈夫か!?お前なにしちまってんだよ馬鹿野郎が!!」
まだ生きてんのか!!??
言葉にならないうめき声が耳を打つ。
いま、救急車呼んでやるからもう少し耐えろよ!!くたばってんじゃねーぞ!!
血だまりの中うつぶせに倒れる少女を見ていられず、仰向けにひっくり返し、しゃがみこんだ膝に抱える。
少女は胸から腰に掛けて血まみれになっていて、どこをどう怪我しているのかわからなかった。
それでも、とくりとくりと上下に動く胸の様子に希望が湧く。息がある。
踏ん張れ。震える手で119番に電話を繋ぎながら、苦しげに息をする少女の顔にかかった髪をどけてやる。
「なっ」
何を。俺は、何を見つけてしまったというんだろう。
想像を絶する、美しい、壮絶なまでに美しい、女の子だった。
衝撃に息を止めていたことに気づき、どうにかひとつ唾を飲み込む。
俺が意識を飛ばしてどうすんだ!んなことで驚いてる暇じゃねーだろ。
息を吐いて、改めて少女を見れば、頭から落ちたのではなかったらしく、ところどころ頬に血が飛んだように跳ねているが、頭や顔に深い傷はなさそうだ。
袖で頬の血を拭ってやる。日本人離れした褐色の肌に、堀が深くはっきりとした顔立ち。地面に流れる長い黒髪は柔らかにうねり、なによりもその瞳が。ひらりひらりと薄く開く瞳が、見たことないほど眩い緑色で。ノートで浮かび上がる蛍光ペンの緑色みてぇだ。鮮やかで、吸い込まれてしまいそうで、エメラルドとかいう宝石はこんな感じなのだろうか。目を奪われる。
「…ぁ、っ、な」
「っ、あ?なんだ?」
電話が救急につながったのか、耳元で冷静な女性の声が何かを尋ねているも、必死な少女の様子に意識を集中させる。
「…ぁ、な……、た、…け…――。」
―……た、すけ、て。
助けて。
緑色の瞳からポタリと涙が溢れ、俺の膝へと落ちていく。
鈴のような囁きの意味を理解した瞬間、頭がカッと熱くなる。助ける、今すぐ助けてやる、だから生きろ、生きろよ!!少女から目をはなし、携帯を耳に押し当てて必死に状況を説明する。血まみれで倒れている人がいる、早く来てくれと。叫びにも近い大声で訴える俺に、電話越しの冷静な声が落ち着くように呼びかけてくる。続けて切羽詰まった状況を察してくれたのか、けが人の状況を細かく聞いてきた。質問に答えようと膝に横たわる少女へ目を向けた。つもりだった。
「…………は?」
ビルの隙間から風が吹き込み、頬を撫でる。
遊ばれた横髪が耳を擽るが、散らばった思考はくすぐったさに反応することすらできない。
「な、んで」
血だまりを残し、目の前にいたはずの少女が、忽然と、消えていた。
理解できない状況に頭が真っ白になる。不意にビルの狭間から日の光が差し込み、俺の身体を照らす。
「なにが、起こってんだよ」
俺の身体、少女を抱いていた膝が手が、血とそして、水に濡れている。透明な水は日の光を浴びて、キラキラと不思議な虹色に輝いていた。それは少女のように美しく、でもどこか、とても奇妙な輝き。
呆然と手を眺める。急展開に頭が付いて行かない。
座り込んだままどれほどそうしていたのだろうか。額に汗が滲み始めたころ、背後でガタリと物音がした。
「……え、そこの君、どうし……」
「あぁん!?」
今、いろいろ考えてんだから邪魔すんなよ!!
反射的にドスの聞いた鋭い声が出ていた。
振り返れば、一人の男が何やらびっくりした様子でこちらを見て固まっている。
男の口が驚愕に開く。
「ちょっ、う、嘘だろ!?どうしたんだよ、その怪我は!!」
「はぁああ!?お前、いきなりなに訳わかんないこと言って……って、これか」
「これか、じゃないだろ!!ひどい怪我じゃないか!!」
男はパタパタと駆け寄ってくると、座り込んでいる俺の姿を蒼白な顔で上から下まで見まわして、あたふたしている。……なんだこいつ。
色褪せた灰色のスーツに、風に遊ばれるぼさぼさの黒髪。年はいくつか上、20代半ばの男に見えた。男は、少女の血が服についてしまっている俺をすっかり怪我していると思い込んでいるらしい。
「と、とにかく止血を!!」と伸ばされた手を、鬱憤を晴らすよう叩き落とす。
「いてっ!!お、落ち着いて、とにかくほら、止血しないと!!」
「テンパってんのはお前の方だろ!こちとら別に怪我してねぇーんだよ!!」
「はぁ!?なに馬鹿なこと言って、こんなに血が……」
「馬鹿はてめーだ、このへっぽこ野郎が!よく見ろ!これは俺じゃなくて…っ」
突然、言い争う俺たちに影が落ちる。
「返り血、とでも言うのかな?こちらとしては、そうやってすんなり自白してくれた方がよほど楽だが」
「はぁああ!?」
新しく現れたスカした声に嫌悪感丸出しの声が出た。次から次へと誰だよ!!
勘違い男の後ろ、路地に目を凝らせば、今度は黒いスーツにワイシャツを胸元まで開けたスカした男がつかつかと近づいてくる。
スカシ野郎の言葉に目を丸くして、へっぽこ勘違い男がこちらを見てくる。
「返り、血…?」
「人聞きわりーこと言うなてめぇら!!返り血じゃねぇよ!いや、俺の血ではねーけど……だぁああわっかんねー!!」
「おやおや、ところで被害者をどこに隠してしまったんだ?」
「だーかーら!気づいたらあの子消えちまったんだよ。俺だって訳わかんねー…ってか、殺してねーし!」
つーか、お前ら誰なんだよ!?
問い詰めようと口を開けた寸前、俺をあざ笑うかのように目の前のスカシ野郎が口を開く。
それも、反吐がでるほど、愉しそうに。
「とりあえず、署までご同行願おうか、少年?」
黒い手帳を勝ち誇ったように見せつけるスカシ野郎から目を移す。まさか。
へっぽこ野郎は何か言いたげに、けれども何も言わずに胸ポケットから同じような手帳を取り出した。
開いた手帳にはスカシ野郎と同じ、警察の証が確かに輝いていた。