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神様に捧ぐ  作者: 古代いせき
第一章 白き者
17/22

第17話 : 静謐

少女は、メネアは、いつだって唐突に俺の前へと現れる。


薄暗い中でも不思議と浮かび上がる褐色の頬を大粒の涙が伝っては、細い顎先から床へと落ちていく。炎にちりちりと映し出される横顔は、相変わらず作り物めいた、すべてを超越した美しさ。唯一、少女が作り物ではないと証明するのは感情を表し下がった眉毛と口か。下がった眉の元で濡れたビー玉みたいに湿った眼は、ただ一心に血に濡れた少年を映している。


「……知り合い、なのか?」


声をかき消す様に周りで爆風と炎が巻き上がる。

馬鹿みたいにぐしゃぐしゃに舞い踊る髪の毛が目に刺さる。痛くて辛くて涙が出そうだった。

それでも、この目だけはメネアから絶対に外せなかった。


狂ったように血に濡れて、化け物みたいに唸るやつへ向けるには、メネアの眼差しはあまりにも負の感情からかけ離れているように見えちまったんだ。流三郎とは違う、労わる様な、今にも少年の元へと駆けだしていきそうな様子が危なすぎて、思わず声を掛けちまう。あまりに直向きに少年へと目を向けるメネアに、俺の言葉は届かないかと半ば返事は期待していなかったが、思いがけずメネアは俺の言葉に反応を返した。

轟音の中で顔をまっすぐ少年へ向けたまま、少しだけ俯いて、泣きそうに笑って、静かに首を横に振る。


「でも、どうしても、助けたいの」


――……でも、これじゃあ、助けられない。

メネアはそういって自分の両手へと視線を落とす。

俺の目の錯覚、ではないのだろうか。それか揺れる炎の光加減でそう見えてる、とか。


「んだよ、その手……」


メネアの腕は、輪郭こそ光にはっきりと縁取られているものの、腕の内側に行くにつれてグラデーションを描くよう肌がぼんやりと淡く透けていく。透けた身体は、後ろの洋服店で風に煽られ揺れるハンガーの列を、この上なくはっきりと映していた。


――……幽霊。


だって身体が透けてるんだぜ?それに最初に会ったときだって、突然消えちまってよ。これまでまったく見たこともなければ信じたことすらなかったが、この世のもんじゃねーもんが見えちまってるとしか考えられない状況だろ。普通なら。けど


「……おいメネア。お前、まだ生きてるな?」

「うん」


俺の口は、不思議と言葉がついて出ていた。メネアは、生きてる。直感に等しい揺るぎ無い確信。

不思議な感覚だった。数刻前の記憶が、風のように瞼の裏を横切る。

まるで目を覚ませと、俺の脳裏を急かす様に。


炎に飛び込む前、メネアが2度目に俺の前へと現れた時、こいつは家の前で俺に何と言っていた?

助けてと、そう俺に言ってはいなかったか。俺はそれに答えたか?何かを必死に訴えるように。そうだ縋るように引っ付いて、必死にこの火事を指差していた。小さいガキが目を腫らして泣きながら、身体を空気に溶かして消えかかりながら、そこまでして訴えている願い。


数歩先で未だに一歩も引かず流三郎と睨み合いを続けている悍ましい形相のがきんちょ。

血に濡れた少年は途切れることなく唸り声を上げていたが、一瞬声が途切れたかと思いきや、次の瞬間、建物を震わせるような怒号を天高く響かせる。

振動が鼓膜を突き刺し、あまりの痛みに耳を覆うと、視界の端でメネアが思わずといった様子で少年へと手を伸ばしたのが目に入った。


あぁ、これなのか、メネアの願い。


助けて、ほしいのか。

消えかかっている自分じゃなくて、

目の前の、知り合いでもないらしい、この荒れ狂った少年を。



「……助けるには、俺はどーしたらいい」

「い、いの?」


少年の怒号に合わせて流三郎を取り巻く風が轟音を通り越し、金属音のような高い摩擦音を鳴らしはじめている。


涙を流しっぱなしできょとんとした表情を見せてくるメネアにほとほと呆れちまう。ったく「たすけて」と泣きべそかいてきたのはお前だろうが、ばーか。ここで知らんぷりできるほど落ちぶれてもいねーし、無視したらしたで末代まで胸糞悪そうだからしかたねぇ。


「いいも、くそも、へったくれもあるか。……なに不安がってんだよ。これでも案外、器用な方だぞ」


俺の顔色を窺うように、もしくは己の発言に後悔を抱いているかのようなメネアの様子に、思わず眉間に皺が寄る。俺の棘を隠そうともしない言葉に、メネアはぱちぱちと幾度か瞬きした。言葉が零れる。



「助けてやる。俺を信じろ」



まぁ、なにすりゃいんだかわかってねーけど、なんとかなんだろ、いや、何とかしてやる力づくで。

メネアは瞬きを止めて、じっと俺を見つめている。不思議な感じだった。どれほど正面から見合っていても、緊張も不快感もなんにもなくて、ただただ目ん玉が蕩けて混じりあうように、一瞬俺の黒目がメネアの緑色に成り代わったようにすら感じられた。性別も、年も、身長も、国籍も、まったく違うだろう俺たちなのに、なにかがぴたりと、重なっている。


同じタイミングで瞬きをひとつ。

俺が目を開くころ、メネアは静かに目を伏せて、口元を少しだけ上げていた。

初めて見る、メネアの微笑み。

やつは目を閉じたまま、淡い輪郭だけとなった手をそっと俺の前へと差し出してくる。


「ただ、私の手を握ってくれれば。それで大丈夫」


差し出された手のひらを見下ろし、床についていた両手を躊躇なく持ち上げる。


「あ、そーいやぁよ」

「?」

「ありがとな」


メネアがようやく顔を上げ、首を傾げる。

透けた小さな手を壊しちまわないもんかとゆっくり手を重ねれば、俺の手は通り抜けることもなく確かな温もりへと触れていた。そのまま手を握ってやれば、小さな手はすっぽりと俺の手の中へと隠れてしまう。


「いや、でけぇー柱が落ちてきたときよ、すぐそばで“避けろ”って声かけてくれたのお前だろ?思い出せば建物に入ってもどーいうわけか、煙にむせることも炎が掠めても熱くなかったし。今だってそうだ。なんともねーのはお前のおかげなんだろ?なんとなくわかっちまう。俺は原理とか方法とかはさっぱりわかんねーけど、とにかく家からずっと、そばに居てくれたんだろ」


あんなにもすごかった風音が消えて周りの風景がスローモーションのように目の縁に映る。

流三郎は未だ殺気を隠すことなく緩やかに両手を挙げていく。咆哮を涎と共に弾き出した少年は血に濡れた顔の中、己の肉を捲り上げるがごとく歯をむき出して、助走の姿勢を見せていた。大丈夫だ。まだ、まだ間に合う。


今もこうして炎から風から身を守ってくれていて、家の前であったときも、己の思いを、助けを乞う以上に、たぶんばあちゃんの危機を知らせてくれていた。小さな指が火事と家を一生懸命交互に指差していたのをちゃんと忘れず覚えている。どこまでも不思議きわまりねぇ少女だが、すっかりメネアにはたくさんの貸しができちまっていた。それが少しでも返せるならば。


もう一度ギュッと、握った手の平に力を籠めれば、答えるかのように幼い指先が俺の手を握り返すように触れる。

メネアの目はどうにも潤んで、口元は何かを言いよどむように何度か開いては閉じて、最後には何も語らず結ばれる。


「どーした?」

「……今はもう破片しか持ち得ていなかったけれど、もしも胞子たる心を持ち続けていたならばどうなっていたかと考えるの」


いつの間にか、メネアの手を包んでいたと思っていた手が、逆にメネアに包まれていることに気づく。


「蜃気楼のような想像で、きっと私だけが抱けてしまう思想だから囚われてしまうのかもしれないわ」


また、だ。

メネアの口から語られたのは、おもっくそ訳が分からない言葉だったけれど。

どうしてこう、会うガキ会うガキみんな揃いもそろって。



「……おい。てめーらはいったい何に、んな絶望して……、いったい何に、心底期待してやがる」



無駄に人の顔色が読み取れてしまう自分に腹が立つ。

こちとら皺だらけで表情も何も埋もれちまってる読み取りずれーばあさんと長年一緒に生活してきたんだ、唯一はっきり見えんのは瞼から覗く目ん玉ぐらいで。

つーかこんなもん、ここまでくると悪癖でしかねぇ。


数刻前、別れ際で流三郎にも感じた違和感。

絶望を見せる表情の中で、何かを期待する眼差し。

誰だってどん底に落ち込んじまった時には、少なからず希望を浚って目を凝らすだろう。

だが、違う。こいつらは、絶望から救ってくれる希望を期待してるんじゃない。


絶望こそを、絶望そのものを、望んで、いる?


そんなもの。絶望を望むなんてそんなもの、人間じゃありえない。そんな純粋すぎる粗悪を望むものがいたとしたならば、それはきっと。


世間ではきっと、それを“悪魔”と、呼ぶのではないだろうか。


よぎる思考にメネアの声が落ちる。


「……絶望して、みえた?」

「……さも暗い顔しやがって」


「期待、してた?」

「鏡みてみろよ、一発で自覚できるぜ」


興味津々といった様子で、目をまんまるくしたメネアが俺の瞳の中に映る自分を一生懸命覗き込んでいる。

悪魔と評するには、あまりにも純真で、無垢そのものの姿だった。


「まだ、残っていたのね。絶望と期待、反する思いを抱くのは、私たちが私たちである証。

 ――……ありがとう、思い出させてくれて。私たちが確かに存在する証を見せてくれて」


饒舌すぎて何言ってんのかさっぱりわかんねーよ。小難しい話は苦手なんだよ俺。

苦みを潰したような顔をする俺に、何を思ったのか。

穏やかに微笑んでいたメネアが、ぷっと吹き出す様に笑った。


途方もない笑顔が、そこにあった。


メネアの笑顔を皮切りに、握り合った手がぬるま湯につけたように体温を交じ合い、緩やかな温かさを灯し出す。

心地よすぎる奇妙な感覚に驚いて肩が跳ねるも、メネアと繋ぐ両手だけは強力ボンドでつけられたように離れない。


繋がった指先から血肉の色彩が流れでていくかのように、淡い光の輪郭だけで形成されていた褐色の腕が確かな肉質で埋まっていく。二の腕に芯が通っていくように細い肩が形作られて、赤らんだ肉が滲むように浮かび、つるりとした皮膚がリボンのように肉を覆って身体を作り上げていく。

血に汚れた白いワンピースは赤色が抜けるよう粒子になって昇っていき、弾けるように消えていく。


暗闇の中で光を放つエメラルドの瞳、夜を編むように広がる長い黒髪に、穢れない高尚な純白の衣。

それはまるで。


「とても軽率な言葉、けれども私の僅かに残る心からの嘆願。私でよければ、いくらでもあなたの傍にいるわ。だから、忘れないで」

「な、」

「あなたはあなたを信じて。あなたを信じられるのは、あなただけだから」


絶望に似た喪失感。

ふわりと、手から温もりが離れていく。


「……メネア!?」


流三郎がこちらの様子に気がつき声を上げたようだった。

その声につられるかのように、少年の首が異様な回転を測り、すっかり歪んだ顔が俺たちを見据える。目が、合った。俺たち、じゃない。俺を、見たんだ。

ぞわりと熱いくらいの寒気が背中を襲った瞬間、少年が制服の裾から異様に細い手足を曝け出し、四足歩行、人ならざるスピードで俺へと向かってくる。早すぎて、黒い学ランが暗闇に溶け込んで、まるで牙を剥いた顔だけが迫ってくるようで。あぁ、と。ぼんやりと。俺が腹の力を抜いて、純白が横切ったのはきっと同時で。


身体を襲うと思われた衝撃はなく。

ポスンと軽やかな音。


「な…っ」


声を漏らしたのは、俺だったのか、流三郎だったのか、それとも牙を剥いていた少年か。

目の前でひらりとワンピースの裾が揺れる。揺れたスカートの縁から、ぽたぽたと水が滴り落ちていく。

小さな肩に食い込んだ牙に、胸に開いた大きな穴からはゆらゆらと行き場を失くした少年の手が揺れて、黒く血が固まった爪からも水が渡り、次々と床に水たまりをつくる。なんの悪戯なのか、天窓から月明かりが差込む。

照らされた水たまりはキラキラと虹色に美しく輝いた。


あぁ、ビルの下。

倒れていたメネアの傍で見たものだと、遠くに飛ぶ思考の中で思い出す。


それは、現実逃避以外の何物でもなかっただろう。



少年の腕が、少女の胸を貫いていた。



うそだろ、おい。

なんてことだろう、なんてざまだろう。信じられない光景に目を疑う。

けれども、これ以上ないほど痛ましい光景だというのに、なぜだろう。

メネアに開いた胸の穴からは、グロテスクな細胞も内蔵も覗くことなく、ただ光の粒子が穴の縁を囲み、血に代わり輝く水だけがするすると溜まりをつくる。

胸にぽっかりと空いた穴から向こうの光景が、夜空が覗き見えた。


あの幼い身体のどこに、そんな力があったのか。

メネアは少年を真っ向から己の身に受け止めていた。一ミリたりとも、衝突の衝撃に身体を揺らすことすらなく。

軽やかな音をひとつ、立てただけ。メネアは緩やかに首を伸ばして、血のこびり付き切り傷を負う少年の顔へ頬を摺り寄せる。

幼いがきんちょどもだってのに。

見てはいけない恋人たちの語らいを見てしまっているかのようだった。

少年は何を思っているのか、動きを止めて不可解そうに首を傾ける。先ほどまでの狂った様子とはまた違う。狂気と無垢が背中合わせになっているのか。野生の野良犬が初めての介抱に戸惑うように。


絡み合った血濡れの化け物みてーな少年と胸に穴をあけてそれでも凛と佇む美しい少女は、倒錯的な芸術にすら見えてしまって。


なんていう非日常、夢でも見てるんじゃねえだろうか。

風が消え静寂を保有する店内で、遠くで籠ったように聞こえる外の雑踏が、辛うじて外界との繋がりをほっそりと保っていた。


「……見つけたのか」


呆然としていた意識を流三郎の落ち着いた声が引き戻す。

メネアはさらに少年に身体をくっつけて祈るように目を閉じた。


「えぇ。ようやく、といっていいのかしら。初めてだから」

「そうか、なら俺に言えるのはただ一つ。

 ――……祝福を」


さっきまでの殺気はなんだったというのか。流三郎は纏っていた鋭い気配を一瞬で謀殺し、両手の指を胸の前で絡みあわせたかと思えば、静かに顔を伏せて指へとひとつ口づける。そのまま手を軽く額に触れて顔を上げた流三郎は、ひどく澄んだ微笑みを見せた。


「ありがとう、流三郎。……あと、グレルにくれぐれも。とても、優しい子なの」

「メネア……、」

「わかってる。でも、これが私だったみたい。最後の最後にね、不思議な感じだわ。……でもね、悪い気分じゃないの」

「そうか」



「――……あなたにも幾時かの連なる環の中で祝福が訪れん日を」




メネアの言葉は、流三郎と、そして俺の耳へと確かに響いて消えていった。

メネアと、そして少年の姿を、道ずれにして。


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