第16話 : 肉塊
「……あ?」
薄い煙が漂う中、見覚えのある天井が見える。ただ……、なんだ?やけに天井がちかい。
天井の中央部分は、長方形の窓ガラスがはめ込まれていて通路をずっと長く続いていく天窓となっていた。まるで川のように頭上に聳える夜空の中でちらちらと、微かに星が煌めいている。
鼻を擽る埃っぽさと、炭くさい匂い。
耳元はあくまで静かで、ほど近くで火がくすぶるパチパチと空気をはじく音と、遠くで風が炎を巻き上げているのかゴーと重い音がする。
さっき、確かに火だるまになったでけー柱が真上から落ちてきて……。なのに、俺は変わらずデパートの中か?
あんなもんが直撃して生きていられるわけがない。あー、死んだ後も意識ってこんな残るのかよ。つーか、デパートで地縛霊になるのとかマジ勘弁……
「……つーか、へっぽこ。あいつ、なんでここにいたんだ?」
「現場検証の最中に騒ぎに駆けつけてみれば、てめーが馬鹿みたいにつっこんでくのが見えたんだよボケが」
「は?」
「このボケが」
2回もボケって言ったなおい。
身体を起こしてみれば、数時間前に別れたばかりのちびっこ、自称エラい殿様の流三郎がすぐ目の前に立っていた。夢か?いや、たぶん。夢では、なさ……そう?
相変わらずもっさい前髪で目元を覆いながらも、生意気に腕を組んで仁王立ちし、まず間違いなくこちらを見下ろしている。つい癖で、相手が年端もいかぬがきんちょであるにも関わらず、ガンを突き返す。始めてしまった睨み合いに若干の後悔と焦りを感じるも、流三郎はすぐに目をそらし、深い深いため息を一つ。
「はぁー……」
「あ゛ぁ!?」
「怪我は?」
「は?」
「だから痛いところとか、怪我とか、してねぇか」
なんつー顔。
流三郎の顔を覆った小さな片手の指の隙間から、困ったように下がった目元がちらりと見える。
……だから、泣かれんのは気まずいからやめてくれ。いや、流三郎は泣いてねぇんだけど、よくわからないどう反応したらいいのかわからない顔をしている。促されるように自分の全身を見回す。
これといってなんともない、痛いところもねぇし、これといって怪我もない。デパートに入る前に掛けた水がまだところどころ服を濡らしていて、気持ちわりぃくらいで……
「……って、お前おれのこと見えてんのか!?」
「は?」
「いや、だから俺さっき柱に潰されて、もう死んでるはずで……あ?え、俺、もしかして生きて、る?」
「俺の前で、死なすわけねーだろこのボケ!!!」
すっげぇ理不尽に怒られた、気がする。
死なんて案外呆気なく、突然訪れるもんだし、だいたい俺が死んでもお前になんも関係ねーだろうが。それがなんだ?“死なすわけない”って。それじゃあまるで、お前が。
「……流三郎、お前が?」
「あ?」
「だから、お前が……。あの、でっけー炎から、俺を助けた、ってのか?」
「当たり前だろ」
あっけらかんと返ってきた言葉に途方に暮れる。
俺を抱えて3階まで飛んで柱を避けたってか?ありえねぇだろ。その細っこい腕で、どうやって?無理に決まっている。いったいどんなトリックがあるってんだ?
問い詰めようと口を開きかけると、流三郎は弾かれた様に顔を上げた。一寸遅れて、俺もようやく異変に気が付く。
背後から水たまりを擽るように歩くぴちゃぴちゃとした水音と、重い布団でも引きずってるのかズルズルと床を擦る音が近づいていた。
誰か、来る。
これまで人影とすれ違うことなどなかったというのに!
逃げ遅れた、取り残されていた人がいたのか?
でもそれにしては…………。
混乱や焦燥とは無縁の、むしろ緩やかに近づいてくるその水音は、この火事現場ではあまりにも異質で。
「っ!?見るな!!」
「ば、っか、遅せぇよ……っ、」
嘘だろ。
暗闇を纏い滴るヘドロのように現れたのは、黒い若い男。
よく見りゃあまだ、中学生くらいだろうか。成長期の見積もりを間違ったのか、線の細い身体に肩幅のあっていない黒い学ランを羽織っているようで、制服の縁が朧に浮かび上がっては、ゆらりゆらりと揺れている。
歩くたびに解れなく流れる黒髪は、染めたこともないのだろう優等生のそれで。まだ子供らしさを残した滑らかなほっぺたがくすぶる炎に赤みを増していて、どこか育ちの良さを感じさせる通った鼻筋と合わさり、清楚な出で立ちに見えた。少年は、時折コンコンと煙にむせて歩いている。そこまではいいんだ、そこまでは。
その辺にいくらでもいる、大人しく気弱な中坊そのものだった。不運にも火災に巻き込まれた中坊。ありがちな状況だろう。ただ、目の前に現れた現実は、それで良しとはしてくれないようだった。
それは、異様さの塊であった。
まず、目がおかしい。
いかにも利発そうな眼差しを期待させる風貌に抗い、黒縁眼鏡の奥にある瞳は腫れぼったく、ぼんやりと伏せられている。それも近づいてくるにつれて視線はこちらを向かないままに、左右の瞳はこれでもかというほど見開かれていき、その中で黒目があちこちにとっ散らかっていて。まるで、焦点が合っていなかった。
そして、極めつけ。
なによりも、長い制服の袖から覗く青白い指先が掴んでいるものが。
知らずに胃液がこみあげて、声を出さずにはいられない。
「な、んだよ、あれ……っ!!!」
「いいから。お前はそれ以上見なくていいから。もう見るな、下がれ」
流三郎の囁くような静かな声は、痛いほどに柔らかな音色で。
聞いているこっちが、身を削られそうなほどの悲痛な切願。
なんだなんだなんだってんだ!!!!
信じたくない信じられない夢でも見ているのだろうかこんなことが現実にあり得るのか本当に?
あれは人、じゃないだろうか。
いや、正しくは人だったもの?いや、今だって人か?いや、だけど、あれではもう。
少年の手には、肉の塊、ほのかに、ほのかに人の形だとも言えるような、けれどやはり、肉の塊としか言えないようなものが、何かが、あぁ、だめだ、どう考えたってそうだろうよ!きっと、きっと、人であっただろうものが、少年の両指に絡められ引きずられていた。
赤、白、黒、茶色、混ざる肌色の断片。噛み千切ったか、引きちぎったか。あちこちの切断面は肉がぼそぼそと毛羽立っていて、炎に照らされて白っぽい油身が時折顔を出している。肉からはいまだに血が滴り落ちていて、表面を覆う水っぽさがいっそ艶めかしくテラテラと光る。普段、皮と肌に守られた肉が惜しげもなく身をさらしているその様は、絶望的に嫌味なほどに目を引いて。
右手に掴まれているものからは、途中、茶色の長い糸が引いている。あぁ、髪の毛、なんじゃないだろうか。
金色に近いウェーブのかかった茶色の髪は、若い女を想像させた。想像したくないのに想像を掻き立てられてしまうのは、なんでなんだろう。命を守るため生物に備わった危機回避能力の賜物なのか、それよか反吐が出るほどくそったれな人間の好奇心という残忍な本性なのか、俺にはこれっぽっちも判別できなかった。
それでも目が離せない。酷い惨い、なんて、なんてことを。信じられない、そしてなによりも。
「――……許せ、ない」
俺が言葉を吐き出すよりも前に、隣から岩を擦る様な低い声が呟いた。
驚いて見上げれば、いくつもの風が頬を通り過ぎる。見上げた流三郎の重たい前髪がふわりと風に揺れて、見開かれた眼光が現れる。小学生が、覚える眼差しではなかった。見たものを的確に表す言葉を俺はまだ知らない。ただ、小学生として、そもそも人として、正常な眼差しとは思えなかった。俺にとって、いま目の前の流三郎は得体のしれない中坊少年にひどく近しい。
異様なまでに見開かれた瞼。違うのはこぼれんばかりの白目の中で、綺麗な円を描く小さな黒目の瞳孔は焦点を狂わせることなくじっと中坊を見据えていることか。
決して感情を読ませない、正直言っちまえば、背筋がぞっとする、腸を摘まれるような不気味すぎる眼差しだった。中坊のわかりやすい不気味さとはまた違った、けれど確実な違和感と異常性が流三郎からひしひしと広がっていく。
いったい流三郎に何が起こっているのか。
衝撃なのか、怒りなのか、嘆きなのか。瞳からは感情の機微は少しも読み取れない。
許せないと呟かれた言葉だけが、今の俺が知る流三郎のすべてだった。
一瞬にして、流三郎を中心に据え円を描くように風が生まれていく。
「お、おい!!待てよ流三郎!!許せないって……ってか、おい中坊!!お前、正気かよ!?なんだってんなこ……」
「無駄だ」
「あ゛ぁ!?」
「あれはすでに人ではない。自我を失い、身も心も悪魔に明け渡した慣れ果て」
「慣れ果、……て、はぁ?悪魔!?」
「そう、悪魔。それはすなわち守るべきになど値せぬ、消えゆくが等しいだけのもの」
「ちょ、って、うおいっ!」
「見る価値もない、そこにいろ。そして、そこなモノ、動くなよ」
なんだ、なんだ、なんだってんだ!!??
ぶわりと、流三郎を取り囲む風が勢いを増し、思わず数歩身体を後ずさる。
後ずさり、燻る火の光と影の位置が変わり、そこでようやく少年の顔がはっきりと見えた。火に照らされて映し出される少年の全貌。
あぁ、少年の手も、服も、髪も、顔も、口も。血で、汚れている。
怪我じゃない、あれはあいつが怪我をしているわけじゃない、他の、そう他の。
胸の奥底でもう考えるなと鈍い警告が鳴った気がした。
流三郎の殺気だった剣幕に同調するかのように、血に濡れ引きちぎれた肉塊を持つ少年が徐々に口を歪め、開き、喉を鳴らし、歯を食いしばり、唸り声を溢れ始める。地を這う様なうめき声が腹に響く。
「あ、れ……?」
音量を上げていく声に、畏れるよりも驚くよりも、まず浮かぶ記憶があった。
低く軋む唸り声、空気すら轟かせる慟哭、それはまるで、野生動物のような――。
どうしてか、同じ声を音を、俺は昨晩、
己の口から出してはいなかったか?
逃げるように身体が、後ずさる。
その時だった。
急に触れた温もりに、思わず手がぴくりと跳ねる。
振り向いた先で、またひとつ仄かに温かい雫が俺の手の甲に落ちた。
ぽたり、ぽつり。
「お前、泣いてばっかりじゃねーか…、メネア」
隣で、美しい褐色の少女メネアが脇目も振らず大粒の涙を流し続けていた。
どうしてここにいるんだとか、どうやって突然現れたのかとか、わかんねぇことは死ぬほどいっぱいあったけれど。
神出鬼没を貫くメネアに、もうメネアってやつはこういうやつなんだと、どっかで勝手に納得しちまっている俺がいた。




