第15話 : 弱者
照明の消えた灰色の世界。
建物の中は、意外なまでの静けさだった。
霧が漂う様な煙たさはあるものの、上の階へとすでに昇って行っているのか、視界を遮るほどじゃない。
俺の足音と、パチパチと火が燃える音がいっそ穏やかなほどだった。
「おい!誰かいねーか!!?」
俺の声だけがどんよりと響く。
避難や救助がすすんでいるのか、入り口付近のフロアはひと気がなく静まり返っていた。
まぁ、こんな近くに居るわけねぇか……。あーくそっ、よりによって食品売り場って、確か一番奥じゃねぇか!!
行くしかねぇ。時間がもったいない、足を踏み出したその時だった。
「……あ?」
足音に混ざって微かな雑音。
なんか聞こえた……よな?
誰だ?
この奥に、誰か、いる……?
「……おい、誰かいんなら返事しろ!!」
「…なー」
「はっ?」
「―――ぁ」
駆けだしていた。
進んでいくにつれて煙の色が濃くなり、火の燻りが増していく。そしていったいどこからだったか、いつの間にか辺りは煙だけの様子から一変し、脇で炎が確かな熱量でもって息を吹き始めた。立ち上がっている炎の勢いはどんどんと強くなっていく。まるで侵入者を立ちふさぐように。
煙にむせて咳を吐く。勢いよく揺れた首、否応にも床へと振り落された目線が見覚えのある床模様を捉える。……確か幾学模様を描く床があったのは、中腹当たりの広場だ。
気づけば、ものの体感時間1、2分ほどで1階フロアの中腹あたりまで走ってきていたらしい。どんな気必死こいてんだ俺。やっぱさっきのはただの空耳……、じゃ、ねーわ。
「っ!!やっぱそういうことかよ!!」
横から流れてきた煙を払うように手を掻いてがむしゃらに駆け寄る。
目先には、炎に淡く照らし出されたペットショップコーナーの看板。
普段は愛嬌を持って見えるのだろう看板に付いた犬のイラストが、今は炎にテラテラと照らされて、厭らしく狂気じみて見える。あぁ、看板の下で蹲る人影を嘲笑っているかのように。
「……嘘だろ、おい!ばぁちゃん!!?おいっ!!!」
ようやく見つけた探し人は、床に伏した姿だった。
動かない、全然、身体が動いていない。
つんのめるように、ばぁちゃんへと駆け寄る。そこからまるで、初めて女の身体に触れる青臭いガキのように、小刻みに震える指先で倒れる肩へと触れる。
「えっ」
自分でも驚くほど子供っぽい声が出た。
現実逃避とも、純粋な驚きとも近いそれ。
無垢と無知でありたいと願ったゆえの声色だったか。
無垢でいられるのは、知りたくない現実を遠ざけ履いて捨てられたときだけ。
無知でいられるのは、残酷な現実に耳をふさぎ目を閉じて眠ることを許されたときだけ。
でも、人は、そのどちらでもいられない。
あぁ、肩に触れるか触れないか、わかってしまった。わかりたくなんかねーのに。
これはもう、動かない。
青白い横顔は白粉でも叩いたかのように浮いて、薄らと開いた口と瞼は歪に固まり朧げで、
ぴくりともしない手足に、鼓動に揺れることのない、上下しない身体。
脳が考えることを拒否しているのか、スクリーン越しに知らない映画を見ているようだ。
見覚えのある店内、見覚えのある看板、そして動かない、まるで知らない、知りたくない現実。
ぼんやりと見やれば、ばぁちゃんは何かを抱えるように床に蹲っていた。なんか、抱えて……守ってる?
いつの間にか力なくひざまずいていた俺の前で、胸元で固く抱えられた腕の間から、もそもそとそれが顔を出す。
「――――ぁ」
「は?」
「――――……にゃぁ」
――……猫。
ちっせぇ子猫。
くろっぽい毛並みは四方八方にとっ散らかって、その中で目が。
ひときわ、まんまるの目ん玉だけが輝いていた。場違いに明るい、鮮やかな水色の目。
猫が動き、ばあちゃんの手の中から力なく何かがカチャリと床に落ちた。
思わず肩がぴくりと揺れる。
手の中から滑り落ちていたのは、小さな鍵のようだった。
ばあちゃんを知っている俺には、いやでも状況が見えてくる。
胸に抱えられていた小さい猫。
こいつだけ逃げ遅れていたのか……。
壁に並べられたゲージの中には他の動物の姿は見当たらなかった。
動物が暴れて自力で逃げ出したのか、いや、恐らくは慌てた店員か客かが、助けなければと必死だったのだろう。よほど無理やり割ったのか、ゲージはどれもこれも不格好に割れていた。……一番下、隅っこのゲージを除いては。
そこだけは鍵を使って開けられたのだろう、扉が割れずに開いていた。
そうだ、そういう人だった。
動物が好きな、というかなんていうんだろ、肉すらも「かわいそうで」とか言って食べれねぇ人なんだよ、ばあちゃんは。んで、馬鹿みたいに物を大切にするんだ。誰かが手を添えて作ったものには必ず魂が宿って、一度触れれば必ず情が移るからって。この人が故意に物を壊す姿を見たことがない。想像も、できない。きっといくら緊急時でも取り残された子猫を置いて行こうなんて考えもしない。きっとどれだけ切迫した状況になってもゲージをかち割ろうなんて発想も浮かばない。そしてこんなふうに、ゲージ戸に鍵穴を見つけたならば、取り残された子猫を助けるために、炎の中でたったひとつ、たとえどこにあるのかわからなくても、鍵を探そうとするのだろう。そう、きっと、こんなふうに。
動物を大切に思ってるこの人が、逃げれずにゲージに入ったままの動物を見過ごして逃げてくれるわけねーわな。どれだけ緊急時だろうが物を壊せるわけもねーんだ。それが。どんなに身を削る考えなしのバカみたいな行為だったとしても。
煙る暗闇の中、ばぁちゃんが守った子猫が持つ丸い青空が2つぽかりと浮かび上がる。
なにかをじっと、見下ろす様に。
瞬きが、ひとつ。
子猫は柔らかい足音におぼつかない足取りで腕の中から抜け出すと、小さな舌でばぁちゃんの顔を舐め始めた。……まだ生後数週間なのだろうか、よたよたと歩く姿は地獄のような現実とは無縁なまでに無防備で。
こりゃあどうやっても自力では逃げられそうにない。
親が恋しいのだろうか。子猫は健気なほど一生懸命、動かぬ頬を舐めている。
どうしてこんなに突然、別れってやつは訪れるのだろう。
いつだって残酷で、どうしようもないほど唐突で、無残で無念で、どこまでも無様。別れなんて、なくなっちまえばいいのにな。そうすりゃあこんな思い誰もしねーで済むだろうに。
どれくらい経っていたのか、数秒だったのか数分だったのか、ただただ呆然と目の前の光景を見ていると、どうだ。一瞬、わずかに一瞬だけ、ばぁちゃんの身体が軽くたじろいだ気がした。
「なっ」
ぎょっとして倒れる口元へ手を伸ばせば、なんてことだろう微かに吐息が感じられる。
いき、てる。いきてる、生きている!!??
「ば、ばあちゃん!!おい、迎えにきてやったぞ!すぐ外さ連れてってやっから、しっかりしとけ!!」
揺すっても返ってくる言葉はない。
急いで倒れていている身体をどうにか背中に背負えば、不規則ではあるものの耳の裏に吐息が掠る。
生きてる。まだ、ちゃんと生きてる!
それは、確かな希望だった。間に合う、間に合え、間に合え!!
背中に背負って立ち上がると、広くなった視界の中でばあちゃんの荷物を見つける。
いつも見ていた煤けて年季の入った、けれど解れはなく丁寧に使われているのがわかる手作りの手提げ袋を、乱暴に引っ掴む。
「てめぇは、とりあえず中入っとけ!!大人しくしとけよ!!」
続けて子猫を引っ掴み、袋の中に投げ入れて全力で走りだす。
肩にかけた手提げ袋の中で子猫がゴロゴロと転がっているようだがどうしようもない。
てめぇもいっぱしの猛獣類の子孫なら、歯食いしばって耐えてろよ!!
これでも足は速い方だ。
さっさと外に出て救急車へ行こう。
ペットショップは建物の中間地点にあったし、すぐに出入り口につくと思っていた。そのつもりだった。
「……避けてっ!!!!」
「っ!!??」
突如、鈴のような少女の声が宙を斬る。
はっと上を仰ぎ見れば、上の階から炎に包まれたでけぇ柱が落ちてきていた。
うっそだろ……!?
轟々と静寂を劈く音を立てて火柱が降ってくる光景はとんでもなく圧巻で。
……あーもう、なんかの映画で言ってたっけか。現実ほど残酷なもんはねぇって。
ったく、ふざけんなよ!!!
手提げ袋とばぁちゃんを胸の前で抱えるべく上げていた顔を戻す。
その途中だった。
不思議なもんで、それだけが確かにはっきりと見えた。
あとはもうなんつーか咄嗟に、だ。
ごめんなばぁちゃん、耐えろよ!
見えたそれに、抱えたばぁちゃんと手提げ袋を思いっ切り投げつける。
「…き…ぅ…!!……木戸くっ、ってうわぁあ!!??」
「うちのばぁちゃん頼むぞ!!!!!」
「……ばっ!!??」
あ。
あいつ今、“馬鹿”って言いかけたな。くそ、ぜってー末代まで祟ってやる。
へっぽこのくせに、というか、俺の制球力がすごかったのか。
見事へっぽこの腕の中にばぁちゃんと猫入り手提げ袋がヒットしたのを見届けて、
俺の視界はあっという間に降り注ぐ炎の渦へと飲み込まれていった。
なにもかもが急展開。死ぬのなんて本当に一瞬なんだな。
それにしてもみたかよ。俺の制球力過ごすぎねぇか?
人ひとり飛ばしちまって。ばあちゃんには恨まれそうだけど。
不可抗力ってか咄嗟の行動だったからマジで、できれば許してほしい。
それにしても、ははは!
これこそ正真正銘“火事場の馬鹿力”ってやつだったな。
―――………こんの、くそったれが!!!




