第14話 : 地獄
「おい!ばぁちゃん、おいって!!」
くそっ。
いつも開いている玄関の扉に鍵がかかっていたところから嫌な予感がしていた。
いや、正確に言えば、消えたメネアがやたらと家を指差していた時から、胸糞悪い予感はしてたんだ。
「おうや、お帰り。今日もご苦労さんさね、お腹へったべ?」
「あー?別に。……今日の晩御飯は?」
「お雛ちゃんにサトイモ貰ったかんね、煮物さ作ったよ、お肉たっぷり入れたからねぇ」
「ばぁちゃん、肉嫌いじゃんかよ」
「ばあちゃんは食べれんけど、澄ちゃんは好きかろう?いっぱい食べんさい」
「……うっす。つーか、ばぁちゃんもマジ食べねーとそのうちシワシワに萎れるぞ」
「おやおや!」
いつもならそんな軽口をたたきながら、二人で飯食って、テレビ見て、風呂入って、今日会ったことをぽつりぽつりとお互いに話して。緩く、けど決して居心地悪くない、そんな時間を過ごしているはずだった。
家の中、隅から隅まで戸を開き声をかける。どっかで倒れてんじゃねぇか、そんな不吉な希望すらも塗りつぶされていく。
まさか。いや、だって。
最近ばぁちゃんは腰痛がひどいと呟いていた。だから、買い出しつったって最近は珍しく俺に頼んできてたし、昨日もこのくらいの時間に帰ってきて、俺が買い物行って……。
ぐちゃぐちゃに回る思考のまま、居間のテーブルに縋り、膝をつく。
顔が歪む。額をテーブルに押し付ければひんやりと冷たく、だかそれもすぐに俺の体温で熱いほどに代わる。
得体のしれない焦燥感に指を立てる。
すると、俺の身体が揺れた振動でだろうか。
視界の端、白いテーブルクロスの上で、何かがふわりと揺れた気がした。
「あぁ?」
手を伸ばしてみれば、指先にくしゃりと小さな紙切れが触れる。
白いテーブルクロスの上にあったのは、どうやら白いメモ紙のようだ。
白の上に、白いメモって……、わかりずれぇよ!!
メモ紙の上には細い線でなにやらつづられているようだった。
ばあちゃんからの伝言か。どっか、出かけてんのかよったく……、足は大丈夫なのか?
それでも束の間安堵した心は、メモの内容に目を通した瞬間、凍りついていた。
“そろそろ運動も必要。鶏肉、買ってくる”
「だからばぁちゃん、肉、嫌いだろうがよ…!」
腰いてぇんだろ!?家でのんびりテレビでも見ててくれよ!!
片手にくしゃりと紙を握りしめたまま、縺れる足を無理やり動かして外へと飛び出る。
買い物にいったっていいさ、別に本人がいけると判断したなら別にそれで構わない。
だが、今日に限っては、その行き先が、問題だった。
メモの下に置かれていたのは、派手な色のチラシだった。特売の鶏肉に、丁寧な赤丸が記されている。
「なんでっ、よりによって!!!」
チラシは少し離れた大型ショッピングモールのものだった。
それは奇しくも、今もなお煙が立ちやまぬ、その方角にある店だった。
メネアの指先が頭をよぎる。
今にも消えてしまいそうな細い指はどこを示していた。
家と、そしてあの煙を。交互に、交互に、指差していた。
なにかを、伝えるように。
頼むから、杞憂であってくれ。
きっと息を切らして走って行ったら、店はなんともなってなくて、たまたま出てきたばぁちゃんと鉢合わせて、偶然ねぇ、どうしたの?なんて、そう、きっとそんなふうに。
煙に近づくたびに、空を見上げて立ち止まっている人の数が、野次馬の数が増えていく。
続けてだんだんと近づいてくる、怒号と悲鳴。
日常が唐突に非日常へ落とされていく。
呆気なく、劇的なまでに。
「……うそ、だろう?」
見たこともない人だかりの中、無情に燃える建物が見える。
力が抜けて、手の中にあったチラシが風に飛ばされていった。
チラシでみたショッピングモールのマークが、目の前で炎に飲まれて真っ黒になっていた。
「ど、け……、おい、ちょっと通せ!どけろっ!!」
囁き合う人垣の肉を手で広げて越えていく。無理やり進むに、すれ違い掠める人々が露骨に顔を顰め、時にヤジを飛ばしてくるが構ってられない!
建物に近づくにつれて人だかりの様子が変わっていく。
戦々恐々とでもどこか他人ごとに佇む影から、呆気にとられて硬直する影に、そして咳き込むもの、煤をつけているもの、叫ぶもの、泣いているもの、倒れているもの、誰かを探しているもの。
悲愴ってのが姿を持ったなら、きっとこうなるのだろう。
夕日はとうになりを潜め、辺りは藍色に染まりつつある。
立ち上がる炎の存在がより一層迫力を増していた。
奇しくもそれは暮れる空の中で神々しく、まるで迎え火のように天へと上っている。
それに比べて、地上では飛び交う怒号、悲鳴、助けを求める叫び声。
まぎれもない、地獄絵図。
誰がこんな皮肉を望んだっていうんだ馬鹿野郎!!
俺とて、もう叫びすぎて喉がひりひりと痛む。でも叫びでもしなければ、とてもじゃないがどうにかなってしまいそうだった。いくら人垣を越えようと、人波を浚おうと、探す姿が見当たらない。
「ちくしょうが!!そもそも、いったい何があったってんだよ!!!」
「突然だったの!!」
「!?」
返ってきた叫びに振り向けば、一人の若い女が救急隊員にしがみつき崩れ落ちていた。
俺に対する返答ではなく、何事かを隊員に訴えているらしい。
高い叫びと絞り出すような嘶きが入り混じる。
救急隊員が、汗を流しながら必死に女を諌めようと穏やかな声を作っていた。
「大丈夫です!落ち着い…」
「突然!!店内の防火ブザーが鳴ったと思ったら、すぐに煙が立ち込めてきて!!そしたらすぐ隣で悲鳴がしてっ、突然だったの!!知らない、若い男の子が、友達を、わかんない!!なんで、噛み付いてて……っ!!いっぱい血が……!!」
目の前が真っ白になっていた。
気が付けば泣き崩れた女の手を思い切り引っ張っていた。
「っあ!?」
「おい!!これ、どこで!!?」
怪我の応急処置だろうか。
女の手のひらに捲かれたハンカチが血を吸って赤黒く染まっている。
微かに見える模様は、無様に歪な藍染だ。
きゅっと縛られたハンカチの角だけ、奇跡的にも綺麗な白色の星マークに色が抜けている。
見間違えるわけがない。この世に一個しかない。
無様で、けど目に焼き付いて離れないハンカチ。
ちいせぇガキの頃、小学生だったろうか。
社会見学で染め物を体験してきた俺が、ばぁちゃんにあげたハンカチだった。
クラスの奴らがみんな誇らしげにそれぞれの模様を染め上げる中で、俺だけがうまくいかず、模様ともならない擦った様な白い線が藍色の中で少し走っただけ。
うまくいかなかったとべそかいてハンカチを見せたら、ばあちゃんが「ここをご覧よ」と端っこを摘んだ。
誰も気にしないだろうハンカチの角隅。奇跡的に綺麗に色が抜けて星マークになっていた。
俺はびっくりしてばあちゃんとハンカチを何度も見た。ばあちゃんはにこにこしていて、星ははっきりと見えていて。嬉しくなって。今見れば、何て歪な形の星なんだって思うんだけどよ。とにかく、そんな不格好なハンカチはこの世にたったひとつなわけで。どうして、それが、ここに。
立ちすくんでしまった俺の目線を辿り、女が息を飲む。
はっと顔を上げたかと思えば、俺の顔を見上げてくしゃりと顔を歪める。
「あ、あなた、あのおばあちゃんのお孫さんっ?お店の中で逃げる途中会って、そしたらこれをくれて、すごく優しくしてくれてっ、でも!!そのあとすぐ私たちの近くで爆発があって、はぐれちゃってっ!!」
どうして…!ごめんなさい…!おねがい…!泣きながら、女は手からハンカチを乱暴に外し、傍にいた隊員が制止するよりも早く、俺の手の平へと思いのほか強い力でもって渡してきた。手の平へと目を落とす。
俺の手に置かれた血に染まったハンカチ、自分より年上だろうに震えながら傷ついている女。
目の奥がちりりと焼けるように熱くなる。
胸が、心臓が絞り込まれるように掴まれ、握られ、時を止めた。
声を荒げていい相手じゃない。
目の前の傷ついた女も、汗を流す救急隊員も、炎に照らされて息を飲む人たちも、全部、ぜんぶ、ゼンブ。
――……これは本来、守るべきに値するもの、だ。
「大丈夫だ」
口をついて出た声の大きさに、目の前の女と救急隊員が息を飲む。
自分でも何言ってんだかよくわかんねぇ。
それでも言わずにはいられなかった。
「絶対に、大丈夫」
驚いたように向けられる視線をぶっちぎり、ハンカチをきつく握り、炎が燃え盛る建物を睨みつける。
俺の目で確かめなけりゃあ気が済まない。
腰が痛いと珍しく眉を下げていた姿を思い出す。炎の中で動けないでいるんじゃないか。
気の優しい人なんだ。他人に道を譲って一人取り残されていないだろうか。
もう逃げ出してくれてたなら、それでいい。
俺が勝手に突っ走って火の中に飛び込んだんだと、あとで笑い話でも武勇伝にでもなんだってしてやろう。
確かめなければ、一生後悔する。後悔しつづける未来なんぞ、もうまっぴらごめんだ。
炎に向かって走り出した俺の背に、何かを察した救急隊員の声が掛るも、もう止まらない。
人ごみを潜りぬけて、建物の間近に辿りつけば、そこはさらに混乱を極めていた。
ここら辺で一番大きい三階建てのショッピングモールはあちこちから炎が上がり煙が濛々と立ち上がっている。救助隊員に続いて、馬鹿でかい消防車が建物をぐるりと囲んでいるも、火の回りに消火が追い付いていないのか、混乱と焦りが香り立っていた。忙しなく飛び交う様々な感情の声と、突き刺す風と炎の唸り声に耳がおかしくなりそうだった。
「水……、気休めにはなるか」
誰かの買い物だったのか、負傷者への配給だったのか。
よくわからねぇけど、たまたま近くにペットボトルが積み込まれた段ボールが転がってるのが目に入った。水を一本拝借して頭からぶっかけるも、寒さも、冷たさも、あまり感じない。混乱しすぎて興奮しすぎて、アドレナリンが出まくってるせいなのか。今となっては好都合でしかなかった。そのまま水をかけてれば、あっという間に容器がからっぽになる。火傷対策というよりも、もはやそれは景気づけのひと浴びに近かった。
「っし!!」
消防車の脇をすり抜けて店の入り口へ走り出す。
突然のことで一瞬状況が把握できなかったのだろう、ワンテンポ遅れて消防隊員から静止を求める鋭い声が響く。だがそれも、俺が建物に入ると同時にどこかで上がった一際でけぇ爆発音にかき消されて行った。
そう、誰も俺を止めるものはいなかったのだ。
その時の選択は、ただ俺ひとりに。
確かに委ねられていた。




