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神様に捧ぐ  作者: 古代いせき
第一章 白き者
13/22

第13話 : 存在

署から20分ほど歩いて駅前に着いた後、タイミングよく出発予定があったバスに揺られ家へ向かう。帰宅ラッシュか、混雑した車内でなんとか吊り皮に手を掛けるとどっと疲れが押し寄せる。

あー、寝ちまいそう。

目を閉じて力を抜くと、バスの動きにつられて身体がふわふわと揺れる。

視力が塗りつぶされる分、雑踏の声がひどく鮮明に耳に付く。中学生くらいだろうか、隣の女子グループの声が揺らめき立つ。


「わ、ちょっと見て見て!!パトカーに救急車、すごいスピードだよ、なんかやばくない?」

「うわー、しかも一台だけじゃないじゃん。こっわ、何かあったぽいよね」


意識すれば、けたたましいサイレンの音が近い場所でぐわんぐわんとなっているに気が付いた。

車内アナウンスで、しわがれたおっさんの声がバスが一時停止する旨を告げたかと思えば、どうやらバスの後ろからパトカーと救急車が3、4台、けたたましいサイレンと共に「道を開けてください!」と一際切羽詰まった早口でアナウンスを飛ばしながら通り過ぎて行く。


身長が頭一つ突き出ている分、見渡しが良い視界の中で、パトカーの向かう先を追うように見やれば、遠くの方で細い煙が立っているのが微かに見えた。どこかで火事があったようだ。

緊急車両の焦りっぷりを見るに、かなりでっかい火事なのか。


ドクリと胸が脈打つのを感じる。


指先が、体温を床に溢してしまったかのように急速に冷えていく。息ってどうやってするんだっけ。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったようにうまく息が吸えない。苦しく息が詰まるのを、無理やり唾を飲んでやりすごす。今日は厄日か何かか?こんなに身近で次々と事件が起こるものだろうか。厄介ごとで腹が膨れて、咀嚼不良で吐いてしまいそうだ。

サイレンの音が遠ざかり消えていく。

どこで、なにが、どーなって、いったい何が、起こっているのか。

気にならないと言えば嘘になるが、これ以上厄介ごとに頭を突っ込むのはさすがの俺も御免だった。


……なにがあったんだかよくわかんねぇが、まぁがんばってくれ。


俺はもう、さっさと帰って、さっさと寝る!!!


そう決めて固く目を閉じた俺が最寄のバス停で降りたころには、よほど力を込めて握っていたのか、右手の平につり革の跡がくっきりと残ってしまっていた。肌色の中、走る赤い線を見下ろしながら、握ったり開いたりを無意味に繰り返す。痕を認識した途端に、痛みを訴える手の平に嫌気がさす。いっそ見なきゃよかった。そうすりゃあ、痛いなんて思わなかっただろう。


バス停を降りてしばらくそんなふうに立ち止まっていた後、ようやく家へと歩き出す。バス停からすぐの角を曲がれば家に付く。ようやく休める。僅かに足取りが軽くなり、角を曲がったその時だった。


ほんとうに、見なきゃ、よかったんだ。


手の平も、あの事件現場も、そして今、目の前も。


「……っ!?」


曲がった先は住宅街。バス停のある大通りの半分くらい、狭い車幅の道が慎ましやかに伸びている。両脇にはどれも淑やかに重ねた年月を滲ませる住宅が立ち並び、絡まった電線が空を縫い、生活感を抱く夕飯のいい香りがあちこちから漂ってくる。閉塞感と安堵が入り混じる、どこにでもある道並み。なんてことない日常だった。


そんな俺の日常に、それは清廉と佇んでいた。


目線の先、それはたった数メートル先に、ぽつりと佇む。


褐色の肌。逆光の中で煌めく緑の瞳。

日本人離れしたくっきりとした顔立ちに、長い黒髪は緩やかにうねり地面にしどけなく這っている。

仄かに汗ばむ額に張り付く前髪は、どうしてかまるで優美な模様を描いているかのようだった。


沈む直前、最後の命を燃やして辺りを照らす夕日。

元はおそらく白色なのだろう、ワンピースは夕日の欠片を抱きしめたかのように鮮やかな橙色に彩られていた。


足が張り付いたように動かない。


俺は何を見ているのだろう。

目の前に佇む身体は、キラキラと輝いているように見えた。光の粒子が身体を縁取るように包みこみ、海の水面がチラチラと波打つかのように煌めいていた。

夕闇の逆光の元、瞳を閉じて祈るよう手を絡める姿は、幼い頃に教科書の中で見た荘厳な絵画そのものだった。

目の前の一角だけが、あまりに日常から切り離されていた。

でも俺は、彼女が確かにこの世に存在していることを、知っている。



「……メネ、ア?」



ひと気のない住宅街の細道へ、俺の声が頼りなく跳ねる。

長いまつげで縁取られた瞼が音もなく開かれた。


――……やっぱり。


原始の森を覗いているかのような、緑の瞳。


無事、だったか。

ずっと定かではなかった少女の安否が、思わぬ状況とはいえ判明した。

気懸りだっただけにほっと胸を撫で下ろした瞬間、俺は腹に鈍い衝撃を受けていた。


「うぶ……っ!?」


ぶつかってきた衝撃を、辛うじて後ろに数歩たじろき受け止める。

星が飛んだ頭を無理やり振って、迫り上げた胃酸の独特な香りが鼻の奥で染みる。吐き気を飲み込みながら、喉につまった息を吐き出していると、飛び込んできた細い腕がぎゅっと背中に回った。

柔らかすぎる感触にぎょっとする。メネアが、俺に抱きついていた。


「!?」

「……っ!!……、…!!」


ほぼ初対面なのに男に抱きつくとか無防備過ぎんだろとか、勝手に消えやがってどこ行ってたんだとか。

――そもそもお前は何者なんだ、とか。いろいろな文句が浮かんでは消えた。

泣かれるのは苦手だ。どうすればいいか、さっぱりわからなくなる。


さっきまで崇拝を受ける女神のごとく神々しさであったというのに、今やすっかりメネアにその面影はない。

目の前にいるのは、ただの泣き虫ながきんちょだった。

流三郎より少しだけ背が高い。それでも俺よりもずっと年下のがきんちょ。

大きな瞳からぽろぽろと涙が零れ落ち、どうしようもなく眉は下がり、口元がくしゃりと何かを必死に耐えている。腰にしがみついたまま、メネアは倍以上の高さがあるだろう俺の顔を必死に見上げて何かを訴えていた。

焦りすぎているのかうまく言葉にならないどころか、息をすることさえ喘ぐようで、覚束ないようにみえる。


「おい、とにかくまずは落ち着けって!」


彼女を何がそこまで追い詰めているのか。

そういえば……。

この少女は昼間、何者かに、それももしかしたら無差別事件の犯人に襲われたかもしれないのだ。

いくら流三郎と同じく警察関係者らしいと言ったって、所詮こんなちびっこだ。

怖くてたまらなかったはずだろう。


細い腕を腰にしがみつかせたまま、少女に目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「おい、怪我とかねぇか?」


声をかけて、ぎょっとする。

夕日の色に見えたワンピースは近くで見れば、赤黒く染まり微かに鉄の香りがしてくる。

ねぇか?なんて悠長に聞いてる場合じゃねぇなおい!!

さっさと救急車を呼ぶべきか!?いや、まずは流三郎に連絡か!?……って、連絡先しらねぇじゃねーかよ。

ちくしょう聞いとくべきだったか、くそ役にたたねぇ、とにかく救急車と警察、両方に片っ端から連絡すりゃあいいか。俯いたままの少女を前に携帯電話に手を伸ばせば、ふと彼女の唇が、いつの間にやら何かを耐えるよう、きつく噛みしめられているのが目に入る。


「おい、どこが痛むー…」


ん、だ…?

続くはずの言葉は、蜃気楼のように上がった彼女の指先に消えた。

ゆらりゆらりと、空気にさえ負けてしまいそうなほど弱弱しく挙がっていく腕。

痛ましさを越えて、途方もない、残酷な光景を見ているようだった。


頭が軋み、見ていたくないのに、目が離せない。


俯き唇を噛みしめたまま、少女はまっすぐに俺の家を指差していた。


「なん、だ?」


異様な静寂の中でミーンミーンと蝉の鳴き声だけが耳に付く。

そういえば、今って夏だったっけと、胸の中で呟く。

なぁ、ならどうして、俺は今こんなにも、身体が冷えているのだろう。

どうしてこんなにも、冷や汗が止まらないのだろう。


触れたままの彼女の片腕が、ぎゅっと俺の身体を掴んだ。

弾みに、息を止めていた喉がごくりと時を動き出す。


少女を見れば、俯いていた顔を上げて瞳がどこか遠くを見つめていた。

緑色の瞳からはとめどなく涙が溢れて、丸み帯びた頬を撫でるように流れている。

少女の腕が嫋やかに動き、指先が向きを変える。

いつの間にか俺の背後を指差した先を目で追えば、天高く昇っていく数本もの煙。

バスの中から一度見た方角だった。


「火事……」


口をついて出た言葉に重なるように、ドドンと地鳴りのような破裂音が響く。

遠くの空で火の粉が弾けるように舞う。数本の細い煙が立ち昇り、交わり、ひとつの大きな入道雲のような煙に変わっていく。

真っ黒な煙は、見慣れた夜空の黒とは違う。もっとずっと獰猛で。黙々とした煙は、数えきれぬほどの頭部が密集して空に擡げたようだった。渦巻き、うねり、犇めき合っている。苦悶の表情を浮かべ、なにかを、叫ぶように。


追加で応援に向かうのか、消防車が大通りを通り過ぎていったようだった。

サイレンの音を聞きつけたのか、周囲の家から何人かの住人が出てきて、町の様子を伺うよう空を見上げ囁き合っている。


呆然と惨い煙を見上げていると、小さな手で頬を挟まれて優しく顔を戻された。

あまりにも近すぎて最初はそれがメネアの顔だと気付かなかった。互いの鼻が触れ合うほどに寄せられた顔。

文字通り目の前に迫ったメネアは、一つ瞬きをしたかと思うと、まっすぐ俺と目を合わせて、すぐ横の俺の家を指差し、もう一度煙を指差す。そしてするりと俺の首へと腕を回したかと思えば、俺の頭はメネアにぎゅっと抱きしめられていた。


「……あなただけなの」

「えっ」


掠れた声でも、悲しい声でもない、ただただ優しい声色だった。

顔を見たくても、小さな腕は振りほどくことができない。


「お願い、もうあまり時間がないわ」


メネアはようやく俺から腕を話すともう一度家を指差した。


「あなたの目で」


ドンとまたひとつ爆発音。


「あなたの耳で」


遠くでいくつもの悲鳴が上がっている。


「あなただけが」


メネアが家を指差したまま、空に、光に、透けていく。

キラキラと美しく、限界までに儚くて。


「どうか」


涙がぽたりと顎から落ちた。



「……たすけて」



幾ら目を瞬いても、擦っても。


頭上でカラスの群れが、カァカァ喚き散らしている。



「……何が、起こってんだよ」



メネアの姿は、俺の前から再び忽然と消えていた。


ひとつの痕跡も残さずに。

それはまるで、ひとつの痕跡も残すことは許されていないとでもいうように。


誰に?

そう、例えば。



―――………神様に。


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