180 束の間の休息 上
私はその日、嫌いな人物と会うことになっていた。
シュアラ学派第四位、パグナ=ガラン。
一見痩せぎすの、物静かな中年僧侶にしか見えないが、実際彼が口を開いてみるとその印象は瞬く間に消え去る。
「よお。トーラー、だったな? 俺が来た意味は分かっているかぁ?」
「……はい」
「物分りのよい事だぁ。俺はグナール師父より伝言を預かってきた。即座にこの僧院を離れ、セイ一派へと合流せよ、とな」
そこで彼は腰を折って頭をガリガリと掻き毟しり、苦悶の表情を浮かべた。
彼は目に涙を溜めて私を見やる。
「くそっ。くそっ。くそっ!! 俺がこの役目を引き受けたかったぁぁ!! トーラー!! 異世界より来た祝福持ちに随行だと!? そんな面白い話があってたまるか!!」
「……はい」
何故このようなチンケな男がシュアラの第四位なのか。
私はそうは思った。
だが、<天使召喚>以外の全ての僧侶呪文を会得したこの男が居るからこそ、シュアラの魔術体系は維持できているのだから、それは仕方のない事なのかも知れないとは理解はしていた。
齢八十年を迎えてなお壮年の体躯を維持し、旺盛な探求心と好奇心で世界を放浪する、グナール様の第二弟子、パグナ。
ただ、彼は人格者ではなかった。
ゆえに、パグナに天使は舞い降りず、その現実がより一層彼の人格を歪める事となったのだ。
私は陰鬱なその場所の空気に抵抗しながらも、内心では少し喜んでいた。
あの男にもう一度会えるのだと思うと、心が弾んだ。
パグナはグナール様からの手紙を持参してきていた。
これをあのセイという男に渡せば、そのまま随行を許されるだろう、という事だったが、その時はそんなにうまく事が運ぶのかと疑問に思ったことは確かだ。
「じゃあな!! 男女!! 定期連絡はコムーン宛で入れろ!!」
「……」
応接間を飛び出して行くように立ち去ったパグナは、わざと茶の入ったカップを倒してから出ていった。
私はため息をついてからそれを処理すると、コムーンという人物が誰なのかを知る為、人を手配した。
「さて。行ってみるか」
と、そこで一旦は自室に引き返し、沐浴を済ませてから新品の僧服に着替えた。
祝祭用にと配布されている朱を薄く、本当に薄く口に差した。
「ふふふ……。まるで乙女のようではないか」
私は一人、呟いた。
騎乗蜘蛛は出払っていたので、仕方なく荷物水母にたずなをつけて貰った。
こいつは愚鈍でよく道を間違え、魚の匂いがするとフラフラとそちらに流れるので好きではなかったが、この際仕方がない。
道すがら、私に挨拶してくれる人々が居るたびに、水母を降りて挨拶を返した。
「トーラー様。この子、今日で一ヶ月になるんです。是非とも、祝福をお授け下さい」
「勿論だとも」
まだ若い母親が私の前で頭をたれた。
草色のおくるみに包まれた幼子が、私の手の内にそっと差し出された。
私はその子をあやしながら、病魔がこの赤子の元へと来ぬ様、祝詞を唱え、頬に口づけした。
微かにその子の頬に、朱が移った。
母親は深く深く礼をしてから、次の者に場所を譲った。
譲られた男は目礼してから私に語りかける。
「トーラー様。先日は母の風邪を癒して下さって、ありがとうございます。先程、僧院に茶葉を届けました。是非皆様で」
「ありがとう」
その者は更に銀貨を手渡そうとして来たが、それはやんわりと断った。
柔らかく微笑みながら、目を見て、伝える。
「そのお金で、母親に果物を買って帰りなさい? 病み上がりで体力も落ちている事でしょう」
「は、はい!」
このラザを離れなければならない事に、少し悲しみを覚えた。
私の事を慕ってくれる者たちが居る、このラザを離れる事は、心に一本の針を穿たれる様なものだと感じた。
昼過ぎまで水母に揺られてから、ようやくセイ一派が滞在している屋敷へと到着した。
「結構いい所に住んでるな。外壁ありの邸宅か」
門を潜ろうとして水母を降りると、二人のダークエルフ女性と鉢合わせた。
一人はあのフロストキンとの戦いの際に見た小柄な娘だったが、もう一人は見た事がなかった。
「ヤ。僧侶のお姉さん。先日はどうモ」
「ああ。お前たちもセイ達に用があるのか?」
「うん。何でも食事作ってくれてる婆さんがギックリ腰で来れないらしくってサ、代わりにアタイの姉ちゃんを連れて来たんダ」
軽く自己紹介を交えながら話を聞いた。
彼女らそれぞれ、ルーリヒエン、ディーリヒエンと名乗った。
ディーリヒエンは盗賊ギルド御用達の外套を着込んでいたので、それとなく察する事は出来たが、ルーリヒエンのほうはごく普通の町娘の格好で、どのような職に就いているのか検討は就かなかった。
ただ、先程のディーリヒエンの発言から、ルーリヒエンは料理人であるのかもしれない、とは思ったが。
二人は姉妹であるとの事だったが、随分似ていない姉妹だな、とその時は思ったものだ。
屋敷の庭から歓声が聞こえた。
三人でそちらに歩みを進めると、フォーキアンの幼女と荷物水母がテーブルでコーウをしていた。
その周りで、セイと数名の女性陣、それに猫背の小男が盤面に熱い視線を送っていた。
と、唐突にフォーキアンが椅子を蹴倒して立ち上がり、両手を天に突き上げて勝ちを宣言した。
「ハアッ。ハアッ。ハアッ!! 遂に……遂にトウワ殿に勝ったぞ!! やったー!! あたしは今、難攻不落の城を攻略したぁぁぁ!!」
見ると、荷物水母が触手を振り回しながら、セイに向かってモプモプと言い訳めいた言葉を発し始めた。
「はははっ。トウワが言い訳するなんて珍しいな。奇策に翻弄されたって? でもこれで五勝一敗一分だろ。ん、どうした、ザッパ?」
「どうした、じゃないでしょ? 俺は軍師に賭けた。俺以外はトウワ殿に賭けた……。ヌフフフフ……。はいよっ。出すモン出して貰いやしょーか!」
「あちゃー」
「ごちでーす」
セイがテーブルに金貨を置くと、周りの者もしぶしぶ応じた。
ザッパと呼ばれた小男が金貨を回収する横で、魔族の少女が水母を責め始めた。
「んもう、トウワさん!! お金賭けた時だけ負けるなんて!!」
「ンムュプフプルル……」
「許しません!! 今日はお魚じゃなく嫌いな蛸を食べて貰います!!」
「ンプモチャ?」
「ボクが嘘を言うとでも?」
「モプッ……」
あの荷物水母、普通に会話しているな……。
そもそも、コーウをやる水母など聞いた事が無いぞ。
乗ってきた荷物水母に語りかけてみる。
「お前もコーウが出来るのか?」
「……」
返事は無かった。
そもそも、私が話しかけたことすら理解できているかが怪しかった。
「ヤッ。面白そうな事してんネ?」
「やあ、ディー。今日は悪いね」
「いんや。姉ちゃんも大人数の料理作れるって大張り切りサ。な、姉ちゃん?」
「ハイッ。ホウチョ、モッテキタ。オキイイリ」
「そっか。お気に入りの包丁まで持参してくれたんだ」
ダークエルフの姉妹はコクコクと頷いてから、顔を見合わせてニーッっと笑った。
「所で、入り口で僧侶のお姉さんに……ええっと。トーラーさんにあったヨ」
先程教えた名前を思い出して、ディーリヒエンは言い直してくれた。
盗賊の割には律儀な奴だ。
「あっ。トーラーさん。こんにちは」
「こんにちは。セイ……殿」
呼び捨てにするのも失礼かと思い、一拍置いて付け足したが、「セイで結構ですよ」と返って来た。
私も、「トーラーで結構」と言いたかったが、彼を目の前にして少し頭がクラクラして、言いそびれてしまった。
他の者達も挨拶をしてくれる中、私は夕食に誘われた。
好都合だったので、そのままその誘いを受ける事にした。
それにしても、黒髪の魔族と、妙齢の女剣士、更には巻き角の魔族からの視線が痛い……。
馬鹿め。
私は還俗しない限り乙女ではなく、まず僧であるのだ。
セイには見られぬよう、彼女らに向かって微笑みを返した。
その微笑みを、三人は宣戦布告だと捉えた様だったが。
いいだろう。
受けて立とうではないか。
私がもう一度三人に笑みを向けると、小柄な魔族はカキン・カキン、と歯を打ち鳴らした。




