金は日向を作らない
俺の名前は竹田日向。高校2年生であだ名はカブトガニだ。ひょんなことに加えて落ち込んだ時に行く場所が水族館だったこともあってか、あだ名がシーラカンスなんて時期もあったが、ここでは割愛しておこう。
それで、どうしてカブトガニだのシーラカンスだの呼ばれてたかと言えば、理由は簡単である。言いにくいことだが、俺の顔は知り合い曰く、それこそ天然記念物に指定されるほどの顔だからである。もっとも、いい意味ではなく悪い意味のほうなのが非常に残念だが。そもそも、そんな理由であだ名にされたカブトガニやらシーラカンスやらには俺としても同情するしかない。
そんな俺でも周りにはたくさん人が集まってくる。何故と言っても何のことはない。みんな俺の小遣い目当てに群がるだけだ。それに、こんな顔の俺が有名な財閥の生まれで金持ちでもなければ、勉強も運動もからっきしな奴の周りに人の集まりなどできるはずもない。これは経験則だが、正直金さえあれば人生どうとでもなる。カブトガニなんてあだ名で呼ばれてたから本気で不登校になりかけた時期もあったのだが、いわゆる5月病ってやつだろう。今は同じ5月でも気分はそこまで暗くはない。
「何歩きながらぶつぶつ言ってんのよ気持ち悪い。そんなんじゃホントに友達いなくなるわよ?」
後ろから声をかけられた俺はため息をつきながら振り返る。俺にはこんな感じの正論ばかり突きつけてくる幼馴染がいる。その不登校になりかけた時期に毎日毎日俺の家に来ては無理やり学校に連れて行ったのもこいつだった。毎回登校途中に会っているような気がするのは多分気のせいだろうと思いたい。こいつの名前は印田由紀子。俺と違って顔立ちは整っていて割と美人だとは思うし、ポニーテールもそこそこ似合っている。だが、とにかく口うるさい奴だ。おかげでこいつには名前から取ってインコというあだ名がついている。俺は朝から面倒な奴に会ったとばかりにこう返した。
「うっさいインコ」
「誰がインコよ」
「お前の名前だろ!」
「何よ自分はカブトガニのくせして!」
「俺は天然記念物なんだよ!」
「だから何なのよ!」
「お前より希少価値高いんだよ!」
「意味分かんないんですけど!」
こうなるともう止まらない。俺たちはいつものように口喧嘩をしていた。もっとも、こいつの場合は誰に対しても包み隠さず意見するので、女子に評判がよくなかったりする。その一方で男子の人気は抜群だったりするので、単純に俺とこいつの相性が良くないだけなのかもしれない。
「はあ……。ったく、何であたしの周りにはこんなブッサイクな幼馴染しかいないのかしら。漫画だったら絶対もっとイケメンな幼馴染がいたと思うのよね」
「悪かったな俺がイケメンじゃなくて。ってか俺に言うなインコ」
「だからインコ言うなって言ってんでしょ!」
かくして俺の朝はいつものようにこいつとの会話で始まったのだった。
登校した俺は鏡を見て自分の顔のひどさを改めて確認する。この行動をナルシストだと非難するやつもいるが、こうでもしないと自分のことを憎むことしかできなくなりそうだという理由から、俺の毎朝の日課となっている。
「カブトガニー、お前自分の顔見て何してんだよ、今更そんな顔何度見なおしたってひどいもんはひどいに決まってんだろ」
「だよなー、いや、髪の毛にゴミがついてるような気がしてさ」
「お前が髪の毛のごみとったくらいで見た目なんか変わんねーから大丈夫だって」
余計なお世話だ、と思いながら俺は再び鏡を見る。俺だってこの顔に何度恨みを持ったことだろうか。だが、持って生まれたものを捨てるわけにもいかないし、このことで親を恨むのは筋違いってもんだ。そもそも親ですら最初突然変異か何かの類なんじゃないかと思ったほどらしい。俺の顔はそんな自他ともに認めるひどい顔なのだ。
「そんなことよりカブトガニー、学校終わったらカラオケ行こうぜ!」
「おう!」
だが、それでもいい。俺には金目当てとはいえこうやって近寄ってくる連中は存在するのだ。カブトガニなんて敬意のかけらもないあだ名で呼ばれようが、カラオケの支払いのためだけに遊びに連れて行かれようが、俺はこいつらにとって必要な存在なのだ。クラスメイトからいろいろと言われ続けたせいか、俺はある種歪んだ人間になってしまったのかもしれない。
「……あんた、プライドのかけらもないのね。たまにはびしっと言ってみるくらいの気迫がほしいわ」
そこにまた口出ししてくるインコ。こいつはいったい何なんだろうか。俺の行動すべてを監視していないと気が済まない性格なのだろうか。
「お前みたいに俺はぺちゃくちゃ喋らないんだよ。どこぞの鳥じゃねーからな」
むかついた俺は遠まわしに文句を言ってやる。
「何ですってもっかい言ってみなさいよ!」
「だからこのおしゃべりっつったんだよ!」
「あんたみたいな不細工に言われたくないわよ!」
「何だと!」
頭に血が上った俺はインコに飛び掛かった。
数分後、
「あんたホントに弱いのね……」
そこには無傷で立っているインコと張り手を食らってほっぺたが真っ赤に腫れ上がって倒れている俺がいた。服の上からなので見えないが、俺は他にも体の数か所に青あざができていた。
「てめー、俺のこの顔がこれ以上ひどくなったらどうしてくれんだ!」
「それ以上ひどくなったらどうなんのよ! それこそいぼいぼとかもっと直接的なあだ名になるわよ!」
「それもう形容詞じゃねーじゃねーか! 少しは俺に敬意を払えよ!」
「カブトガニって呼ばれてるの気にしてない時点でもう敬意も何もないでしょ!」
「うっ……」
その通りなので言い返せない。
「大体あたしに口答えしたいならせめてあたしに勝てるようになってから言いなさいよね。女の子に負けてるくせに威張ろうとするなんて、あんた恥さらしもいいとこよ。周り見てみなさいよ、みんなあんたのことバカにしてるわよ」
そう言われて周りを見ると、クラス中が明らかに数歩引いていた。それは俺に対する侮蔑の眼差しであり、俺は居たたまれなくなる。
「口でも勝てない。腕っぷしでも勝てない、おまけに顔は絶滅危惧種を倍にしてもかなわないくらいの最悪さ。こんなダメ人間、世界中探してもあんたくらいしかいないんじゃないの?」
そう言ってインコは教室を出ていく。
「ちくしょう……」
彼女の言葉に完全に打ちのめされた俺は床を叩いて悔しがることしかできなかった。
だが、学校さえ終われば俺には楽しい放課後が待っている。馴染みのゲーセンに行きつけの喫茶店、ありとあらゆる場所が俺を誘惑する。だが、あまり高額な買い物はできない。学生としては十分な額であったが、少し多すぎるといった理由で少しづつお小遣いが減らされているからだ。少し前からなのだが、いったい理由が何なのか、俺には気にする意味もない。
「よしカブトガニ次行こうぜ!」
「よっしゃ!」
俺はこいつらの誘いに乗って、また別の場所へと向かうのだった。
「疲れた……」
久しぶりに大金を使って遊んだせいか、それとも好きでもない連中と遊びに出かけたせいか、俺の体は精神的に悲鳴を上げていた。その上朝にインコにつけられた傷もずきずきと痛む。あいつはどんな馬鹿力で俺のことを殴ったんだろうか。
(あれ?)
そんなことを考えながら歩いていると、目の前できょろきょろしているツインテールが印象的な女性を見つけた。それはインコなんて目じゃないくらいの顔立ちだった。この顔はどこかで見たことがあるなと思い、よくよく思い出してみるとそれは真野さんだった。真野さんは俺と同じ高校の1年生で、全校生徒が知るアイドル的存在な女子だ。俺ですら名前と顔が一致するくらいの有名人である。とはいえ、向こうに面識がないのに真野さんが俺に話しかけてくるはずはない。俺はそのまま彼女の前を通り過ぎようとする。ところが、
「あの!」
真野さんはそれこそアニメに出てくるようなロリボイスで俺に話しかけてきた。
「は、はい!」
つられて俺の声も上ずる。人に話しかけられることなんてめったにないからおかしな緊張の仕方をしてしまったらしい。
「私と付き合ってください!」
「は、はい! ……ってええ?」
俺にとって天地のひっくりかえるような出来事だった。彼女の話によると、どうやら俺のことを見て一目ぼれしたそうで、俺の帰り道を特定し、俺が通りそうな場所で待ち伏せていたのだという。一歩間違えればストーカーだろ、という喉まで出かかった突っ込みを俺は飲み込んだ。何せ俺にとって初めての彼女だ。下手なことを言って彼女を傷つけてはいけない。幸い趣味は俺と同じで水族館に行くことらしく、結構気が合いそうだ。俺のリア充人生はようやく始まりを迎えようとしていた。
「ひなちん、じゃあまた明日ね!」
「またなー理恵ー!」
俺は家の前で彼女と別れると、大きくガッツポーズをした。
それから数日後、俺が理恵と付き合っているという噂はたちまち高校中に広がっていた。クラスメイトからはどうやって付き合ったんだよ、どこで付き合ったんだよ、といったような質問攻めの嵐だった。金目当てじゃないのかとも聞かれたので、一目惚れだと自慢げに言ってやったら、クラスメイトの何人かは相当悔しがっていた。だが、一目惚れについては誰一人として信じてはくれなかった。失礼な話である。
その一方で、俺のそばにいつもいたはずの幼馴染、印田由紀子の姿をそれからしばらく見ることはなかった。
「すみません、真野理恵さんいらっしゃいますか?」
その印田由紀子はそれから数か月後、真野理恵の教室を訪ねていた。日向に恋人ができたという理由でしばらく彼のそばから姿を消していた彼女だったが、よく考えれば日向に一目惚れなんかで恋人ができるわけがない、と彼女は思い立った。そこで、それを確認したいがために印田は単身真野理恵のクラスに乗り込んだのだ。もちろん他にも彼女を取り巻くよからぬ噂など、印田が聞きたいことはあったのだが、
(日向に彼女ができただけじゃない。何であたしはこんなことしてるんだろう?)
ここまで彼女が日向のために動く理由、それをまだ彼女は知らずにいた。
「どなたですかー」
問題の真野理恵が出てくる。あたしは屋上を指差した。
「ちょっといいかしら。日向のことで話があるの」
「一体何ですかー?」
「いいから来なさい!」
「ちょっと、引っ張らないで下さいよー」
無理矢理に引きずっていく印田に理恵はあくまでマイペースな口調で応じるのだった。
「あなたが前に付き合っていた彼氏が失踪したって話を聞いたんだけど、本当かしら?」
屋上についた印田は、彼女の腕を離すとこう質問した。
「袖が伸びちゃうじゃないですかまったくもう」
理恵は文句を言う。だが、それは先ほどまで彼女が話していた口調とは明らかに違っていた。
「そうですよインコさん。私、もう彼氏5人目くらいですし」
先ほどまでののんびりしたアニメボイスとは打って変わった口調で自分のツインテールをいじりながら答える彼女。どうやら理恵は印田のことについて知っているらしい。他人事なのがさらに気に食わないが、ここで怒っても仕方ない。印田は自分の目的を最優先にすることにした。
「じゃあもう一つ、あなたどうして日向と付き合おうと思ったの?」
もう一つはこれだ。この理由を聞いてからでも怒るのは遅くはない。彼女が本当に日向に対して一目ぼれしたのならば、印田も文句はない。だが、彼女は今度は不思議そうな表情をする。
「何で幼馴染のあなたがそこまで聞いてくるんですか? あなたにそこまで話す義理はないと思うんですけど……」
そこまで言いかけた理恵はわざとらしく気付いたような演技をしてこう続けた。
「あー、分かった! インコ先輩あのカブトガニのことが好きなんですね!」
「あんたにインコって呼ばれる筋合いはないわ!」
印田はそこで怒りを爆発させた。こんな奴が自分の幼馴染の彼女なのだと思うと腹が立って仕方がない。
「そんなに怒らないで下さいよ先輩。別にいいじゃないですか、ひなちんがカブトガニなのは周知の事実でしょう?」
そういって彼女はにこっと笑う。こいつが男子だったら投げ飛ばしていたところだっただろう。
「で、どうしてなのか聞いてもいいかしら」
印田は表情を再び穏やかにすると、再び理恵に聞いた。彼女は少し考え、
「まああなたの情報網の広さは私に勝るとも劣らないくらいですし、別に話してもいいですかね」
そう勝手に納得すると、話し始めた。
「簡単に言うなら金目当てですよ。ほら、人生お金が多いほうがどう考えても勝ち組じゃないですか。でも、いくらお金持ちになれるとはいえ、あの顔の彼氏を我慢して持ち続けられるほど世の女性たちは金に執着してるわけじゃない。現に私が演技してひなちんに近づいた時も彼はノーマークでしたからね」
「じゃあ、あんた金目当てであいつと結婚する気?」
だが、彼女はそれにも首を振った。
「まっさかー、いくら何でも私だってそんな物好きじゃありませんよ」
「じゃあどうして……」
すると彼女はとんでもない答えを返してきた。
「あたし、人を振るのが大好きなんですよ。私、本当はレズなんだ、だから別れてほしいの、って言って」
「……はぁ?」
印田は本気でこいつの首を絞めに行くところだった。きっと距離が距離なら彼女の首は捕まれていただろう。
「そういえば、インコさん確かあたしの彼氏が失踪したって調べたんですよね。あれ、どうしてか分かります?」
「……そんなの分かるわけないじゃない」
すると彼女は薄汚れた笑いを浮かべてこう答えた。
「私の元カレ、みんな例外なくバーで働くんです。それも、女装バーで。多分私のことが忘れられないんでしょうね。で、みんなしっかり女の子になった状態で私に会いに来るんです」
「……で、あんたはそうしてやってきた元カレたちをどうするわけ?」
私は何となく分かりきっている答えを彼女に聞く。
「決まってるじゃないですか、『何それ、キモい』の一言でおしまいですよ。私、別にレズじゃないですし。あの人たちを振るための口実にレズって言ってるだけで、私の性癖自体は至ってノーマルですから」
彼女は印田の思っていた通り、こう返答した。
「この!」
印田は怒りをこらえきれなくなり、理恵に掴み掛かる。この女性は今まで印田が出会ってきた誰よりも最悪だった。
「あたしをつかんでどうします? 殺しますか? 安心してくださいよ、ひなちんにそんな振り方はしませんから。むしろその価値もないですし」
だが、掴み掛かられているはずの理恵はいたって冷静だ。むしろ印田を煽る余裕さえある。だが、当の印田にそんな余裕はない。
「あんた……、どこまでクズなの……?」
「そんな質問今更ですね。そうでなかったら、こんな楽しいこと繰り返せませんよ」
必死に絞り、吐き捨てた一言すら彼女は軽くいなす。
「てめぇ!」
印田は本気で彼女を殴ろうとする。だがその時、屋上の扉が開いた。
「おい、俺の彼女に何してんだよインコ……」
「……えっ?」
そこに立っていたのは、印田のよく知る人物だった。
「おい、俺の彼女に何してんだよインコ……」
インコに理恵が屋上に呼び出されたと聞いて、何事かと思いながら屋上まで上がってきた俺は、理恵に掴み掛かっているインコの姿を見て思わずこう言ってしまった。
「ひ、ひなた?」
インコは裏返った声で俺の名前を呼んだ。俺の体に寒気が走る。
「急に名前で呼ぶなよ気持ち悪いな。で、これはいったい何の真似だよ。どういう魂胆でこんなことしてんだお前は」
「こいつが、こいつがあんたを騙すから!」
彼女は俺の目を見られないままこう答える。
「やだなー、私がひなちんのこと騙すわけないじゃない、ねえ?」
一方、俺の彼女の理恵は微笑みながらこう言った。この場合、俺はどっちを信じるべきだろう。今までずっと一緒にいた幼馴染か、それとも最近大切な人になった彼女か。俺の答えは言うまでもなかった。
「理恵がそんなことするわけないだろ。お前、いったいどうしたんだよ」
その答えを聞いたインコは、わなわなと震えた。
「あんた……、正気なの……?」
「正気も何も、人の彼女に掴みかかってるお前のほうが正気とは思えねーよ」
その俺の返答を聞いたインコは掴んだ手を離し、すたすたと俺のほうに向かってきた。そして、
(パン!)
俺に向かって思いっきり平手打ちをしてきた。
「あんたなんか知らない!」
そのまま屋上を出ていくインコ。
「いったい何だったんだ?」
まったく事情はよく分からない。ただ、この平手打ちの痛みは俺が今まで感じた中で一番痛み、そしてしばらくそれは消えなかった。
それからインコは俺に全く話しかけなくなった。何故かは言うまでもない。俺と屋上での出来事があってから、あいつは俺の前に姿を現さなくなっただけでなく、目も合わせなくなった。鬱陶しいやつがいなくなって嬉しいような、話し相手がいなくなったことが悲しいような、そんな複雑な気分を抱きながら、俺は夏休みを迎えたのだった。
だが、幸せに始まるはずだった夏休みはある出来事から一変する。
「破産届け……? 嘘だろ?」
簡単に言うなら会社が倒産したのだ。俺に配分されるお小遣いが減っていたのは何のことはない、お金を俺まで回せなくなっていただけだったのだ。俺は親の言うことを鵜呑みにしていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。そして、この出来事は俺の周りに大きな変化をもたらしていくこととなった。
夏休みが始まって数週感が経った。だが、遊びに行くことすら許されないほどの所持金の少なさもあってか、俺は遊びに誘われても一度も彼らの誘いには乗らなかった。おかげで俺を遊びに誘うやつもいなくなり、俺は一人ぼっちの夏休みを送っていた。その上、どういう訳か理恵にすら連絡がつかない。俺の残りの所持金は二千円、ここで使うのはもったいないが、そろそろ外出しておかないと気が滅入りそうだった。
「水族館、行ってみるか」
俺は久しぶりに禁断の地、水族館に行くことにした。
「おー!」
俺はマンボウを見て興奮する。俺の中でマンボウがある水族館というのはかなりポイントが高い。なぜならマンボウはとても些細なことで死んでしまう生き物だからである。水中に潜って凍死してしまうこともあれば、朝日が強すぎて死んでしまう場合もある。余談だが、マンボウで検索をかけると死因が真っ先に出てくるくらいの死にやすさだ。俺はそんなマンボウの命の儚さに、ある種尊敬のようなものを抱いていた。
「次はイルカショーでも見に行くかな」
俺は外に出ようと準備をする。だがその時、俺の目の前によく見知った人物が飛び込んできた。
「……理恵?」
それは間違いなく理恵だった。一人で水族館に来ているのだろうか。それにしては随分とおしゃれをしているようにも見える。俺と一緒に出掛けた時に彼女はここまでのおしゃれをしていただろうか。
「理恵ー!」
俺は彼女の名前を呼ぶ。だが理恵はこっちを見て驚いたような顔をしてから、あわててその場を走り去った。
「どうなってるんだ?」
俺は彼女の走り去ったその方向を追いかけた。
だが、その理由はすぐに分かることとなる。
「理恵!」
彼女の姿を見つけた俺は、大声で再び彼女に呼びかける。だが、そこには同時に知らない男の姿もあった。お世辞にも俺が勝っているとは言えないイケメンである。
「誰、あのブサイク?」
イケメンは理恵にそう声をかける。てっきりいい感じの紹介がされると思っていた俺は、次の彼女の一言で絶望することになる。
「昔の友達。お金があるっていうからしばらくの間付き合ってあげてたけど、会社が破産したらしくてね。付き合うメリットがなかったから無視してたんだけど、まさかこんなところで会うことになるとは思わなかったわ」
理恵はそう言って俺のほうに近寄ってくる。
「そんな訳なので。もう私に付きまとわないでくれませんか? キモいですし」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 理恵は俺のことが好きだったんじゃ……」
すると、彼女はあざ笑うかのように俺にこう返してきた。
「誰があなたのことなんて好きになると思ってんですか。私みたいなかわいい顔のやつと金目当てでも一時いい夢見られたんだからそれでいいでしょう? そもそもあなたに近寄る理由に金目当てが思い浮かばなかった時点で自分を馬鹿だと思うんですね。では」
彼女はそう言って立ち去っていく。
「あ、ああ……」
俺は知らない男に腕をからませながら歩く理恵の姿を見て膝から崩れ落ちた。
それからの夏休みは覚えていない。あっという間に一週間は過ぎた。俺は抜け殻のように毎日を過ごし、宿題に追われるようなそんな日々を過ごした。その間、同時に俺の中には一人の女の子の顔が浮かんだ。
(インコ……。あいつの言ってたことは本当だったのか)
だが、俺は唯一自分のことを気にかけてくれていた幼馴染すら信じることはできなかった。だからこそこんなことになっている。今更謝ろうにもどんな顔をして会ったらいいのか分からない。俺は夏真っ盛りの時期に憂鬱な気分になってしまっていた。
日向がそんな夏休みを過ごしていたころ、印田由紀子はある葛藤を続けていた。
「あー、分かった! インコ先輩あのカブトガニのことが好きなんですね!」
真野理恵のあの一言が頭を離れないのだ。あのとき印田は自分のあだ名については激怒したものの、日向が好き、ということは一切否定しなかった。いや、できなかったというほうが正しいか。
「日向は……あたしにとって何? ただの幼馴染? それとも……」
新学期が始まった。だが、それだけだ。人生とは時に残酷である。あの夏休みの一件で俺は再び自分の顔を気にするようになり、すっかり引きこもりが板についてしまった。もちろん、今日も学校に行く気はない。だが、そんな俺の決意はこんな一声でかき消されてしまった。
「おい日向! 遅刻するぞ!」
それは久しく聞いていなかった、俺の幼馴染の声だった。
「何で今日に限って呼びに来たんだよ。今まで来なかったくせに」
俺は赤く腫れた頬でふてくされながら答える。こんなことになっているのはもちろん彼女、インコに殴られて無理やり外に連れ出されたからに他ならない。
「別にいいじゃない。たぶんまた引きこもろうとしてるんじゃないかと思って呼びに来たの。それだけよ」
「そうかい」
俺はそれ以上何も言わなかった。これが彼女なりの気遣いなのだろう、と思ったからだ。そう思った俺は、思わず自嘲気味にこう呟いていた。
「……笑えよ」
「何を?」
彼女はとぼけたように返してくる。
「哀れな俺を笑ってくれよ! カブトガニなんて呼ばれてたのに金づるってだけで呼び出されてピエロみたいに道化を演じてた俺のことを! そして、人を集めるための最後の砦だった金ももうない! 俺はこの先どうやって自分を保っていけばいい? 分からねぇ、分からねぇよ……」
ここまで言った俺の目からはとめどない涙があふれていた。それを見た彼女は一言、俺にこう言った。
「……笑えるわけないでしょ」
「何でだよ。あれだけ心配してくれてたお前のことすら、俺は信じられなかったんだぞ! お前が笑ってくれなかったら、俺は本当にどうすればいいんだよ!」
そこまで言った時、彼女の平手打ちが再び俺の頬に飛んできた。
「いって……」
「いつまでうじうじしてんのよ! 人生一度くらいの失敗くらいで落ち込んでんじゃないわよ! 仲間がいないなら作ればいい! 自分が分からないのなんてみんな一緒に決まってるじゃない! ちょっと人より顔がひどいからって悲劇のヒーロー気取ってんじゃないわよ! あんたより不幸な人なんて世の中いくらだっているわ!」
彼女がそう言い切ったとき、彼女も号泣していることに気付く俺。相当俺のことを心配してくれていたに違いない。
「ごめん、心配かけた」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
「いいのよ別に。あたしを信じてくれなかったことだけは一生許すつもりはないけどね」
彼女は涙を浮かべながらそう茶目っ気たっぷりに笑った。
「それは本当にごめんなさい」
俺はコンクリートの上に手を付き、すぐさま土下座の態勢に入る。
「許してほしかったら、来週の日曜日、あたしに付き合え。それでチャラにしてやるから。んじゃ、あたし先に学校行くから」
インコはそう言って一人学校へ向かう。
「ちょ、これじゃ土下座してる俺が馬鹿みたいだろ待てよ!」
俺はすっくりと立ち上がると急いで彼女の後を追った。
そして数日が過ぎた。今日はインコとの約束の日だ。だが、俺はあろうことか寝坊をしてしまい、待ち合わせの駅に十五分も遅刻してしまった。
「遅い!」
到着した俺を待っていたのはハンドバッグによる後頭部殴打だった。
「ごめん、ごめん!」
ある程度殴ったところで彼女はその手を止めた。
「待ち合わせに遅刻とか信じられない」
彼女は一人ですたすた歩きだす。
「おい、待てよ!」
俺はどこに行くのかすら伝えられないままに、彼女の後を追った。
彼女がまず立ち寄ったのは洋服屋さんだった。俺に語彙力が足りないせいか、この表現しかできないのは本当に申し訳ないが、大体三千円くらいのメーカー品の売られている普通の服屋だった。
「ねえ、これどう思う?」
「ああ、かわいいなー」
うわの空で聞いていた俺に、今度はショルダータックルが飛んでくる。
「ぐはっ、何すん……」
そう言って上を見上げた俺を彼女は見下ろすように立っていた。気のせいかものすごい威圧感である。
「日向、これ以上あたしから暴力が飛んでくるのと荷物持ち、どっちがいい?」
「……荷物持ちでお願いします」
選択肢などなかった。
次に連れてこられたのはコーヒーショップだった。彼女はなんたらコーヒーとかいうのを頼んでいたような気がするが、俺にとってはどれもコーヒーでしかない。俺も同じものを頼むと、彼女の隣に座った。
「おもった……」
「何言ってんのよこのくらいで……。しかも半分以上あたしが持ってあげたわよね?」
「……ごめんなさい」
彼女の冷ややかな目を見た俺は、ただ謝ることしかできなかった。
「で、この後どうするんだよ?」
「ここ行こうと思って。どう?」
そこで彼女は初めて行き先を示唆した。彼女が指差したのは、意外な場所だった。
「キャハハハハ!」
「おいあんまり回すなよ酔うだろ!」
俺が乗っているのはコーヒーカップ。回すのはもちろん彼女だ。ここから分かる通り、俺が最後に連れてこられたのは遊園地である。
「酔え! むしろ吐け!」
「そんな理不尽な!」
彼女の回すコーヒーカップはまだまだ回り続けそうだった。
そのあとも俺たちはメリーゴーランドに乗り、ジェットコースターに乗り、そしてゴーカートに乗った。俺がくたくたになっていたのは言うまでもない。
「も、もうダメ……」
「なっさけないわね……。でも、次で最後だから安心しなさい」
最後の声に俺の顔がぱあっと輝く。確かにもう外は薄暗い。帰る時間にはぴったりだ。
「どれだ? どれに乗るんだ?」
「現金なやつ……。あれよ」
インコはため息をつきながらそのアトラクションを指さした。
「……何で最後これなんだ?」
「遊園地といえばこれでしょ?」
俺は一緒に乗った観覧車の中で彼女にこう聞いた。彼女は当然のように答える。
「ねえ日向。少しは楽しめた?」
「……ああ、おかげさまでな。ありがとう」
俺も途中から気付いていた。彼女が自分に付き合え、と言ったのは落ち込んでいた俺を励ますための口実であったことに。つくづくできた幼馴染である。
「いいのよ別に。ところで日向、最後に一つ、あたしのお願い聞いてくれる?」
「いいけど。いったい何?」
さっきからさんざん聞いていただろ、という突っ込みはしない。彼女にそれは禁句だし、言ったら何が起こるか分かったものではない。
「あたしと、付き合ってよ」
「ああー付き合うのか……えええ?」
予想外の告白タイムに焦る俺。人生二回目の告白である。よく考えてみると彼女の服は普段よりおしゃれをしていたように見えたし、回っていたのもどちらかというとデートコースに近かったような……。
「いや、俺、こんな顔だし、お金もないし……」
俺の頭にはいろいろな言い訳ばかりが頭をよぎる。いい返事が返せない。そんな俺の思考回路を彼女の言葉がかき消した。
「そんなの全部分かってるに決まってるでしょ! 何年一緒にいたと思ってんのよ!」
「そうでした……」
そういやこいつは幼馴染だったし俺のことを知らない訳なかった、と今更ながらに気付く。
「あたしはそんな日向が好きなの。顔じゃない、軽口を叩ける気軽な性格の日向があたしは好きだった。ずっと見てきて今更だけど、あんたと離れた数か月はあたしにとってものすごくさびしい時間だったわ。だから、あたしは日向と付き合いたい。日向はどうなの? やっぱりこんな暴力自己中女じゃ嫌?」
彼女はそう俺に聞いてくる。ここまで言われてきちんと答えられないのでは自分に対して恥ずかしい。俺は彼女の目をまっすぐ見る。
「俺で良ければ、よろしくお願いします」
そう頭を下げた。
「ありがとう」
彼女はそうお礼を言って目を閉じた。俺はそんな彼女の顔を見る。だが、しばらくすると彼女は目を開いて俺の頭をパコンと叩いた。
「いって……」
「ここはキスする場面でしょ! もう、やり直し!」
彼女は再び目を閉じた。今度は俺も目を閉じる。そのまま彼女に自分の唇を近づける。そしてそっと触れると、そのまま彼女から離れた。
「じゃあ、帰ろ?」
「ああ」
観覧車を降りた彼女は俺の腕に腕を絡めてくる。外はもう真っ暗だった。
「荷物は俺持ちなのな……」
「当たり前でしょ。ほら、行こ」
彼女に引っ張られるように、俺はアスファルトの上を歩く。
(これから、頑張っていけそうな気がする)
どんなにひどいことがあっても、そのあとには必ず幸せがやってくる。それが些細なことだとしても、今はその幸せをかみしめて生きていこう。そう思えるようになっただけでも、俺は随分と成長したのではないだろうか。そんな俺たちを照らすかのように、まあるい月が鮮やかに輝いていた。