魔王様だ!
その声が聞こえてきたのは、俺が万桜号の前で気持ち良く伸びを終えた直後だった。
「うわーんっ!? 返してよ!!」
雑踏の喧騒にも負けない大きな泣き声。
聞き間違えようもない。
この声は……。
「……クレアじゃな」
「ああ。――いくぞ」
さすがにあの泣き声はただ事ではない。
さっきまであんな楽しそうに笑っていたクレアに一体何があったのか。
この目で確かめるべく、俺はセシリアとともに声が聞こえた方へ駆け出した。
「返してよ! それ、大事なものなの!」
「返せ! 返せっ!!」
市場街の方へ駆け出すと、またもやクレアの声と、今度は必死そうなユーリの声も一緒に聞こえてきた。
声が聞こえた方へ振り向いてみれば、何やら軽く人だかりができている。
「わるい。ちょっとごめんよ。通してくれ」
「ええい、通すのじゃ!」
セシリアといっしょに人の壁を超えて顔を突き出してみれば、そこにクレアとユーリはいた。
……いや、それだけではない。
「ほれほれ、どうした。そんなことでは、一生この『大事なもの』とやらは取り返せんぞ~」
「ククク! ほーれ、子供たち。がんばれ、がんばれ!」
「ゲヒャヒャ! もう少し、もう少し」
「グフフ! ああ、惜しい」
この間のブタ野郎――貴族の四男坊とその取り巻きたちが、二人に絡んでいた。
ユーリとクレアは、四男坊から何かを取り返そうとしているようだ。
手を掲げる四男坊に縋り付き、必死に腕を伸ばしている。
「あれは……」
「ああ。さっき作った本だ」
ユーリとクレアが取り返そうとしているもの。
それは、さっき作ったばかりのクレアの本だった。
「返して! それ、ヨシマサたちと作った大切な本なの!」
「はあ? これが本だと? 貴様、こんなみすぼらしいガラクタが本だと申すのか。アッハッハ。これは愉快だわい」
「ククク。まったくですね、マカロフ様」
「ゲヒャヒャ。こんなゴミが本などと……。ワタクシ、ヘソで茶を沸かせそうですよ。あ~、おかしい」
「グフフ。あ~、腹がよじれる。最高の冗談ですな」
四男坊が馬鹿笑いを始めると、取り巻きたちも下卑た笑い声をあげ始める。
耳障りな笑い声はクレアたちの声をかき消すように、市場街に木霊した。
「おい、何があったのじゃ。なぜ、このようなことになっておる!」
セシリアが近くにいたおっさんに事情を聴く。
こいつ、セシリア親衛隊の一人だな。
セシリアから凄まれたおっさんは、すぐに状況をかいつまんで教えてくれた。
「あ、あの二人、はしゃぎながら走っていて、視察に来ていたマカロフ様にぶつかっちまったんだ。そしたらマカロフ様がお怒りになって、あんなことに……」
短くわかりやすい説明、どうも。
あのバカ兄妹め、うれしかったからってはしゃぎすぎだ。
前くらい見て走れよ、まったく。
「しかし、ヨシマサ……」
「ああ、わかってるよ」
だけど、それにしたって四男坊は明らかにやりすぎだ。
こんなの、ただの弱い者いじめじゃねえか。
大の大人が、それも為政者の一族がやることじゃねえ。
てかこのブタ野郎、この間も俺のところに来たばかりじゃないか。何度視察に来てんだ。それほど暇なのか。
「にしても、なぜ誰もクレアたちを助けん。これだけの人数がいれば、簡単に助けられるじゃろうが!」
「よせ、セシリア!」
見ているだけの雑踏へ怒りをぶつけるセシリア。
そんな彼女の口を、急いでふさぐ。
「何をするのじゃ、ヨシマサ」
「よく見ろ。全員、助けないんじゃない。――助けられないんだ」
この場にいる連中を見渡しながら、セシリアをたしなめる。
ここにいるヤツらが見せている感情。それは一人の例外もなく怒りと悔しさだ。
短い付き合いとはいえ、ここの連中がどういうヤツらかはわかっている。
この町の連中は、揃いも揃って気のいいヤツらだ。よそ者の俺たちを難なく受け入れてくれるくらいの、馬鹿がつくほどお人好しな連中なんだ。
全員、できることならすぐにでもユーリとクレアを助けたいのだろう。
でも、相手はこの国を治める貴族の一族。
下手に手だしをすれば、自分は元より家族も路頭に迷わせることになる。
場合によっては、この市場街そのものが不利益を得ることだって考えられる。
だから全員、動くに動けないんだ。
「ほれほれ、もうおしまいか?」
そうこうしている内に、クレアたちの方はさらに状況が悪化していた。
元々、大人と子供の戦いだ。
ユーリとクレアに勝ち目はない。今や体力も尽きて、腕を伸ばすことも辛そうにしている。
「お願い……。返して……」
膝をつき、クレアが涙を流しながら懇願する。
対して、クレアの態度に嗜虐心をくすぐられたのだろう。
残忍な笑みを浮かべた四男坊が、ユーリとクレアに見えるよう本のページを広げた。
――おい、待て。あいつ、まさか……。
「ほれほれ。早くせんと宝物のガラクタが本当にただのガラクタになってしまうぞ」
そう言って、四男坊がページの端を破く。
それも、見せびらかすようにゆっくりと……。
ここからは聞こえるはずのない、ピシリという紙が破れる音が俺の耳を打つ。それとともに、クレアの耳をつんざくような悲鳴が辺りに木霊した。
――同時に、俺はピシリと別の何かがキレるのを感じた。
「……おい、セシリア」
「なんじゃい」
「悪いが、この後すぐにこの国から出ていくことにした。準備をしておけ」
短くセシリアに言い残し、スルリと雑踏から一歩抜け出す。
「…………。仕方ないのう。まあ、止めるつもりもないから勝手にせい。――魔王の恐ろしさ、やつらに教えてやれ」
「おう」
振り向くことなくセシリアに向かってサムズアップする。
そのまま俺は、ゆっくりと騒ぎの中心へ向かって歩みを進める。
俺の向かう先では、ブタと金魚のフン共がけたたましい笑い声を上げている。
連中、クレアたちをいじめるのに夢中で、俺のことにまったく気づいていない。
クレアたちを見下し、小バカにするように笑い続けていた。
その笑いに釣られ、俺も歯を剥き出して粗野に笑う。
ハハハ!
だってよ、もうこんなの、笑うしかないだろ。
まったく、初めて会った時から思っていたけど、この四男坊どもは本当に最高だよ。
ホント、絵に描いたように最高の……、
「――おい」
「は?」
……虫唾が走るほど胸糞悪いクズ野郎ども――だ!?
「へぶらっ!?」
俺の拳を受けて、四男坊が本を放り投げ、綺麗にひっくり返る。
空を舞った本をキャッチしつつ、俺はひっくり返ったままポカンとしている四男坊を冷めた目で見下ろした。
悪いな、ブタ野郎。
生憎俺は、他の市場街の連中と違いって、この国とは縁もゆかりもない流れ者なんだ。
つまり、色々と遠慮する必要はない。
自分の心に従うまま、てめえを殴り倒すことができるわけだ。
……にしても、いつか彼女とデートした際、不良に絡まれても彼女を守れるようにと学んだボクシングだったんだけどな。
まさかこんな形で役に立つとは思わなかったぜ。
「き、貴様……。あ、あの時の、読み聞かせ屋……」
ようやく自分が何をされたか覚ったのだろう。
顔を真っ赤にした四男坊が、腰巾着たちの肩を借りて起き上がる。
「貴様、自分が何をしたのかわかっているのか!」
「高貴なるマカロフ様に手を上げるとは何たる不敬!」
「みすぼらしい流浪者の分際で何様のつもりだ!!」
我に戻ってヒステリーを起こしたように喚く取り巻きたち。
ったく、ピーチクパーチクうるせえな、腰巾着どもめ。
俺が何様かって?
そんなの決まっているだろう。
俺は……、
「ああ? 魔王様だよ。文句あるか、ブタ野郎!?」




